hinoatarubasyo     人間のいろいろを書いていきます。記事は上に追加されます



<「魔境」に引っ掛からない人>(2012年11月6日)


「パワーかフォースか」によれば、殆どの人類は生涯をかけて
5ポイント上がるのが関の山、とか書いてあります。
しかし同じ本に「しかし一気に数百ポイント上昇することもある」とも書かれている。
●生涯掛けて5ポント上昇
○数百ポイント上がることもある
この両方が存在します。




Kさんから意識レベル判定についての報告が来ました。

■800<波動は上げられる、しかし>2012年10月27の記事について

体験談の記事の方と同じ現象があったので報告です。
naoさんに先日、意識レベルの依頼をしました。
昨年11月は390、今年11月は580〜590と、200近くも上昇しています。
急で困惑していましたが、Pの記事を読むと判定方法が変わるようなので、
14日以降に改めて依頼してみようと思います。




一年間で200ポイント上昇していますが、有り得ると思います。
Kさんは400台の「魔境」も我によって引っ掛かることも無く(笑)
順調にすんなり上昇したようです。
ありえます。
私の友人達は皆さんそんな感じです。
頭の良い人(この場合の頭の良さとはあくまでもこの社会の中において、という意味です。
本当の賢さでは無い)のほうがむしろ、400台で引っ掛かってしまう。
だから私はこの境地(400〜499)を「魔境」と呼ぶ。




<魔境>(2012年10月27日)


よく精神世界で宗教的な記事を書く人やそうでは無い人などが
「魔境」という言葉を書いています。
この魔境というのは、精神が成長するにつれて、一時妙な境地に陥ってしまうこと
その境地を言います。(私の定義)

低い境地に居た人がいたとする。
その人は普通に謙虚に暮らしていたが、だんだん知恵がついてきた。
で、以前より自分は利口になった自覚が出て来る。
周囲の人間より自分は賢いと思える。
その時謙虚で居られれば良いが、周囲の人80%が200未満の人達を見て
自分より劣っていると感じ、しかも自分を越える境地については
想像を絶している。
その時、その人は増上慢(ぞうじょうまん)になる(高橋信次師)
神はこれを「慢心と取り違え」と言ってます。

このレベル(400〜499)になっても
○あまり付け上がらない人
●とても付け上がる人
とがいます。
この差は素質の差から生じると思う。




人は自分の波動を上げたいときは「上げたい」と決意しなくてはならない。
それが必要な境遇(不幸・不運など)に居たとしても
本人が「自分のせいでは無い」「悪いのは全て周囲、他人」と思っていれば
せっかく上がるチャンスなのに逃してしまう。

また不幸や不運が無い場合でも、その境地の人間にはそういう不幸や不運はやってくるので
(これ、主観的にやってくる、という意味です)
その時に上がろうと思わなければ上がらない。
この境地の人は大抵悪いことは自分が原因では無いとしか思えないので
(だって思考力が無いから)
周囲を見下しバカにして終わる。
これでは本人の波動は上がらない。

また、運良く自分の主観でも悪いことが起こってない場合は
自分の波動を上げようなどとは思わないものだ。

つまり400台は魔境であると言えます。
魔境に堕ちる堕ち方が浅い人や短期間で済む人もいると思いますが。

<単純計算は出来ない>(2012年10月27日)


上の記事の続きです。
また、運良く自分の主観でも悪いことが起こってない場合は
自分の波動を上げようなどとは思わないものだ。


いや、思ってますよ、というケース。
何も無いときでも波動を上げたい、と頭で思う人は多いと思う。
セミナーとかに参加するとかね。
でも、それはあくまでも頭で受け取る知識と情報でしか無いので
波動は上がらないでしょう。
しかし本を読んだだけでも上がる、と或る本に書いてあるので
(「パワーか・・」を読めば35ポイント上がるとかね)
それも無駄では無いだろうが、しかしそれも知識や情報が入るだけです。

 


上の例の本を読めば35ポイント上がる、というのは計測したのだから本当だとは思うが
400台の人がこの本を読んで35ポイント上がったとしましょう。
400+35=435
450+35=485
465+35=500
最後の数式に注目していただきたい。

単純計算だと465の人はこの本を読んで500になるが、そういうものだろうか?という話しなのです。

どう思いますか?

波動は「沢山勉強したからその分だけ上がる」というものでは無いですよね。
499から500は量ではなくて質が違うのではないでしょうか?
400台の人はそれまでのやり方考え方が通用しないのではないでしょうか?
だからその人達の中で波動を上げたいと真面目に思っている人達の中で
感受性の良い人勘が良い人だけは、(なんか違う)と感じるはずです。
今まで(400台)とは質が違うのだから、今までの考え方感じ方が通用しないのです。
でもでは「どういう感じ方」で「どういう考え方なんだ」と考えても
その考えている本人の考え方と感じ方が、今まで通りなら
到底答えは分からない。

相似象の話しになって来ましたねw



<波動は上げられる、しかし>(2012年10月27日)


私が思うに400台まで(〜499)は頭の作業なので理屈(知識や情報)でなんとなるのです。
でも500は本当の知恵を持ってないと行けない境地なのではないかと。
499と500.
たった1ポイントの差ですがここには厳しい壁が有る、というのは分かります。



この壁の存在を知ったのは最近なのですが、その後考えてみたら
こういう結論が出ました。

で、私のお客さんの中には500を越えている人がとても多いような気がするのです。

一人の人の体験談と感想を紹介します。
その人は今、自分が頭で考えている人間だと悟った。
ということはもう500に達しているのです。
それを指摘したらその人は半信半疑でした。
ちょっと前(今年の春頃?)測った数値は400台だったそうなのです。

でも今、その人は自分を「頭の先の理屈を言う人間だ」と自覚したわけですよね?
ということはその境地は越えているんですよ。
もし今でもその人がその境地(400台)に居たら
自分が「理屈を言う頭人間である」などとは決して自覚出来ないのです。
その境地(400台)に居たら自分は理屈人間頭人間だなどとは思わない。
自分はそれが普通なのですから。
この理屈は分かりますか?




一足飛びに上がる、向上する、ということは無理です。
お釈迦様もそこに至るまでには毎日何年も修行したのだから。
お釈迦様は最終的には宇宙レベル(次元)まで悟ったようですが
何も分からないレベルからいきなり宇宙、ってのは有り得ない。
だとすれば凡人の私達が一気に悟るなんてのは不可能なのです。
(但し今は宇宙や地球が人類のサトリを応援してくれているそうで
  昔よりサトリ易くなっていることはたしか。
  だから悟るなら今です)




今年の春頃400台だったその人が半年経った今、
自分を客観視して、頭人間であったと分かった。
ということはその人は頭人間である400台をクリアしたことなのです。
その半年間は普通の生活をしてネットで仕事をして
OFF会に参加して、悟れるだけ悟って居たようです。
ぜひともnaoさんに「普段の意識レベル」を判定してもらってください。
報告をお待ちしています。




<意識レベル400台の人・・・500の壁は高すぎる>(2012年10月24日)


下に書いた<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも1〜15>
には主に「意識レベル400」或いは意識レベル400台、つまり400〜499までの人の
話しをしました。
そんなはずでは無かったのですが、400の人についての記事になりました。

そう、
このレベルはかなり問題が有るのです。




このレベルの人達は一応賢いので(本当は賢くないのだがw)
非常に面倒、厄介。
そしてこのレベルの人達に共通するのが
「自分が理解していないくせに他人を批判する」というものです。
naoさんに判定を頼んだ時には、私の家族親戚の情報は言ってなかったのですが
「意識レベル400」と出ました。
そして彼等に共通するものがたしかに有るのです。

「自分が理解していないくせに他人を批判する」という心の態度です。




このレベルの人達の自意識は「自分は賢い」「他の誰と比べても賢い」としか
言いようが無いもので、実際はそうでは無いのですが
彼等は自分より上のレベルの人の言うことは理解せず
むしろバカにする傾向が有ります。

溜息が出ますね。

rindenさんが参考になる記事を書いているので紹介します。




再三書いていることですが、自分の意識、判断力を向上させるためにはまず
「自分は賢くない」と悟らないと不可能なのです。
でもこのレベルの人達は低次元で、或いは自分の専門で、賢い面があり、
それが当人を誤解させている。
だから当人はまさか自分が賢く無いなどとは思わないのです。
だからこのレベルから上の「意識レベル500」に到達するのは非常に困難であり、
レベル500が「壁である」と言われるのはその理由が分かります。

400台から500を突破するには、何かが無いとならない。
さらにその時に当人が心底謙虚でないとならない。

実際にはそういう人は少ないので、だから意識レベル500が壁といわれる所以(ゆえん)です。




<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも1>(2012年10月20日〜21日)
編集、加筆してあります。記事は下に追加されます
意識レベル500とは

200に次ぐ第二の関門。 
ここを境に一気に世界が変わり,見えない世界が動き始める。
500以上のチャネラーや霊媒は信頼性が高い。
500を越えると、人のために自分を使うようになります。
そこで初めて、見返りを求めない愛の世界が開けるそうです。
そこまで意識を高められる人は、たった100人に4人だけ。




義母の話を散々しておいてこういうことを書くのはナンですが
義母は本当に性格が良く、可愛いお祖母ちゃんなのです。
嫁と姑のトラブルに特化したサイトを読むとうちの義母が良い人で良かった、と思います。

しかし。

良い人なだけで良いのか?

という話し。




或る若い嫁が書いていたのですが
姑さんがとても良い人だが、面倒な人なのでむしろ困る、とあった。
それと我が家が同じです。

悪い姑なら絶縁すればいい。
絶縁するだけの理由や事情が有ります。
ところがそういう理由の無い場合が厄介なのです。




そしてこういう良い人の意識レベルは多分200〜500だと思うのです。
naoさんに調べてもらったところ
義母は460くらいでした。
義母の子であるうちの主人と、主人の妹は400。
皆、悪い人では無い。
常識もある。
でも、彼等が主張する善や正義はそのレベルなのです。
(※私はnaoさんの判定は当たっていると思う。
   義母は他の二名と比べるとはるかに心の知恵があります。
   そして賢いと言えます)
(※意識レベル400は或る意味賢いのです。
   日常のことなどに関しては賢い。
   でもその賢さというのは、所詮そのレベルでの賢さであるということ。
   本当の知恵は足りないと思う)


私は他人がどのような価値観で生きていようと構わない。
しかしその価値観を私に押し付けられるのは断る。

そしてこういう人達はこちらが説明をしても理解しない。
なので非常に面倒臭いのです。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも2>(2012年10月20日)


知り合いに或る男性がいます。
その人はとても頭が良い。
でも年に数回、うつ状態になる。
何でかな?と思っていたら、思考力が大変乏しいことを私は知った。
頭が良い人なのですが思考力が乏しいのです。
男性に有り勝ちです。
(女性にもいます)

その男性が低い思考力(判断力)でいろいろと言う(書く)のですが
それらは私から見ると不味いものでした。
ところが本人は私に対して
「下から上は分からない」などと言う始末。
いよいよもって困りました。
私が説明をしても理解しない(理解するための思考力が無い)。
そして自分に分かっている範囲内で全てを理解する。
つまり分かってないのだから誤解するw

あまりにも態度が変なので霊能者に相談しました。
「この人に低級霊は憑いていますか?」
「いええ、憑いていませんよ」



その男性の異様な反応を知っていた当時の私は霊能者の回答が意外でした。
しかしそれから数年経ってやっと分かった。
その男性には低級霊は憑いてないし、本人も低級では無い。

低級霊とはレベル200未満と定義します
そしてこの定義は有効なようです
(あちこちのサイトで情報を集めた結果)
この男性には低級霊は憑いてない。
この人は非常識では無いし世のため人のためになろうと生きている。
ただただ思考力が乏しいだけなのです。

私が見たところ、この人の意識レベルは400くらいです。
うちの困った主人や義妹と同じくらい。
彼等(主人と義妹)も、一応は常識があり、意図して悪事はしないし
人のためと思って生きているのです。
ただその裏づけとなる意識レベルが低いだけなのです。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも3>(2012年10月20日)


もう一人いました。
或る男性に或る仕事を頼んだのです。
仲介してくれる人を通して依頼したが、こちらの要望をどうも理解しない。
とても簡単なことなのですが、ちっとも通じないので仲介した人がとても苦労していました。
この男性もレベル400でした。
「賢い」
というレベルです。

とすれば意識レベル400の人達というのは面倒だな、と思います。
(※意識レベル400の賢さというのは、喩えて言うなら
   とても知識が有るとする。
   ただ知っているだけではなくてそれを活用することも出来る。
   専門的な知識に限らず、日常的にもいろいろと考えている。
   でも、その知識を使う場面が妙だとしたら?
   例えば「結婚披露宴の最中に、隣の人に自分の知識を延々と披露する」とか。
   その知識は凄いし頭も良い。
   でも、それを発揮する場所に関しては全く知恵が無い・・・とかね。
   たとえば科学の発明をした、凄い。
   でも、その発明は人類にとっては脅威になるものだった・・・とかね。
   頭が良くても当たり前の知恵が無い、こんな感じです。
   たとえばものを良く知っているし自分ではちゃんとやっていると思っている主婦。
   だから当人は自分を賢いと思っているし、実際、或る意味では賢い。
   しかしだからと言ってそれを他人に強要するのは阿呆ですよね。
   そんな感じ)




参考までにヤッズさんから掲載。
□400:理性 意義 理解 知性 賢さ 合理性
ノーベル賞受賞の科学者や哲学者などが多い。
低レベルの感情を超越できると、知性と合理性がやってくる。
この素晴らしいと思われる理性も、
より高い意識人から見ると「虚栄心の鏡・自己讃美」に陥る意識と写る。
理性は低い本質の要求から人を自由にしてくれる素晴らしい解放者だが、
反対に理性を超える次元への離脱を否定する厳しい監視者でもある。
このレベルの超越は現社会では困難
アインシュタイン(499),ニュートン(499)、フロイト(499)、
ロバート・モンロー(485)、ダーウィン(450)、アダム・スミス(445)、
デール・カーネギー(425)、アメリカ合衆国(421)




さて、話しを戻しまして
こういう人達(意識レベル400)と付き合うにはこちらがそのことを汲んで
相手に合わせてやることが必須ですが、それをやれる人とやれない人、そして
私のようにやりたくも無い人とが居ます。
◆理屈は通じない
◆しかし自分は賢いと思っている(意識レベル400は「賢い」レベルです)
◆自分の理屈が通じない相手、つまり私などを「バカにする」w

などという点も共通しています。

頭が悪いわけでは無いし
(低能とか痴呆では無い、という意味)
性格も悪くない
(意図して他人を攻撃しない、そこはレベル200をクリアしているから)
しかし話しが通じないし、境地に至っては全然達してくれてない。
だからどんどん誤解をしては心を曇らせ、暗くなり、相手を恨む・・・それが進行すると
ウツ状態になる。
ウツ状態は200未満です。

性格の違い環境の違いによって、これらの人が全員ウツになる、というわけでは無い。
200〜500未満の人の中にはウツになる人もいますよ、という話です。

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも4>(2012年10月20日)


意識レベルに壁が有る、と書いているサイトが有りますが
私も壁は有る、と思います。
〜200の人
200〜500未満
500〜
の人達は心が住んでいる世界が違うのだと思います。

暗くなっている人に「明るくなりなさい」と提案しても
暗い人にとってはそれが励ましに聞えない。
自分の苦痛を分かってくれない、なんてひどい奴だ、と感じる。
それが壁です。
境地が違うので親切は余計なお世話になるし忠告は批判になる。
壁を越えればいいのに・・・という提案に対しては
怒り(悲しみ)という反応が返ってくることでしょう。




お互いの天国が違うからです。
「他人の天国は放っておけ」
ということですね。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも5>(2012年10月21日)


意識レベル400の人の正しさとは、
◆世間(多数派の意見)←全員を調査したわけでは無いのにw
◆常識(勿論自分が考える常識限定)
◆伝統(昔からやっていることに対して何の根拠も無いのに信じている)
◆正負、法律、自治体など、お上(おかみ)がやっていることは無批判で信じる

中にはそれらを疑えとか、自分は超越したとか主義主張をしている人もいる。
しかしそう言いつつも心がそれ(常識など)から離れているわけでは無い人もいました。
たとえば葬式について。
私は葬式などは要らないと思っている。
その人と葬式の話しをした時、あれ?と思いました。
何故ならその人は葬式は必要だという意見だったからです。
あれ?
全てを疑い、常識などふっ飛ばす勢いだったのに何故?

あとは権威について。
その人は権威を嫌い、権威を認めていないような口ぶりだったが
あれ?
自分の周囲に有名人が居ることや何かのランキングに名前が載ることや
そういうことに対しては喜ぶというか、得意になっていたフシ有り。
あれ?

他にも常識を超えたような口ぶり、他人にそれを推奨するかのような口ぶりだったが
しかし実際は権威者と人脈が有ることを自慢めいて話していたので
おかしい、矛盾していないか?と思ったのでした。

私はそういうものは本当に何の権威も魅力も感じず
口ーマ法王なんてのは生まれてこのかた一度も凄いとも偉いとも思ったことがなく
外国の王様達についても何の感慨も無いが。
(この人がこれらの人に対してどう思っていたかは知らないが)

他にもその人の「上」(意識レベルが上って意味)から見ると
矛盾に満ちていたので、変だなあ・・・と思っていたが
やはり最後の方になったら思考力の無さがどんどん露呈して来た。
しかし本人にはそれが分からない。
まさかこの自分が思考力が無い、とか乏しいなどとは思わない。
意識レベル400というのは測ってもらったわけでは無いが
この人はかなり賢かったので(但し自分の専門についてのみ)
多分400だろうと踏んでいるわけです。




で、この人は年に1〜2回はウツ状態になっていたが
これは言動、行動、意識の三つに矛盾が有るから
です。
本人は自分を革新的であると頭で思っている。
しかし心は旧態依然としている。
頭と心が矛盾しているので、そのズレが病気を惹き起こしていたのだとしか言いようが無い。
私の忠告に対しては勿論理解せず
「下から上は分からない」と言ってましたw

これが多分意識レベル400の境地です。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも6>(2012年10月21日)


次は主人の妹。
他にも記事を書いたが
「50の坂を越えられない女」の典型。

自分は正しいと思っている。
それは自分が
◆世間の常識の通りに生きているから
という、つまらない理由からです。

その前に
◆世間の常識が正しいのかそうでないのかを考えない
のです。
これがこの人の限界。

うちの主人も同様です。
自分の妹と全く同じ。
だから意識レベルも同じw

笑っちゃうほど同じなのです。

主人の弟の奥さんのH子さんも同じく400ですがやはり思考と行動が同じです。
しかしこの人は無邪気なのでいいか、と思います。

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも7>(2012年10月21日)


人はそれぞれ自分のレベルなりの正義感を発揮します。

よく
「あの人は正義感が有る」とか言うが、それは言えるが、同時に言えないとも言える。
何故なら人は誰でも自分なりの正義感を発揮するからです。
自分のレベルでしか発揮出来ない。
なのでAさんの正義感をBさんが見てもそれはAさんの正義感とは違うので
BさんはAさんを正義感が有る人だ、と思わない。
理解できないからです。
理解できない、で済めばいいが、Aさんの正義感はBさんから見たら
「トンデモ無いこと」
「非常識」
と映るのです。




だから「あの人は正義感が有る」という言葉には意味は無い、と私は思っている。

でも実際にはその正義感が目立つ場合には、そういう言葉を発することが
相応しい場合も有る。
やけに正義感を発揮する人。
普通以上に正義感を発揮する人、を見るとひとは「あの人は正義感が強いね」とか言うが
それは仕方ない本当だから。




しかし他人を評する時に「正義感が強い」と言うのは
私にしてみればそれって「他人が見てそれを分かるほどの正義感を強く発揮するのは
如何なものか」と思う。
鼻につく、とはこのことだと思う。
そして言われている当人がまた、意識レベルが、発揮する正義感と相応に低いので
そういう人って「謙遜しながら内心喜んでいる」フシ有り。
だから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・なんつうかな。
面倒ですw
そういう人と付き合うのは面倒、という意味ですよ。




他人にそれと分かる正義感を発揮する、ということは
他人と同じレベルである、ということ。
それって「世の大多数」とか、そういう人が理解するレベルの正義感である、ということですよね?
ってことは意識レベルは「低い」のではないか?
良くて「賢い」レベルの400くらいではないか?
それより上でもいいけどさ。

その人にとってはそれが最大限であり、最上であるのは「分かる」。
しかしそういう人と付き合って楽しいかと言うと、私はそうでは無い。
それが楽しい人も勿論居るでしょうから、そのレベルではいけないとは言わない。
好きに生きれば良い。
でも私の大事な時間を取られるのはゴメンだ。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも8>(2012年10月20日)


私の友人のAさん(男性)と言う人は数年間多分このレベルか、それ以下だったような気がします。
良い人なので良いのだが(わらい)
いかんせん、肝心なことが通じない。
通じないが上の男性(「下から上は分からない」と私に言った人w)と違って
素直で謙虚で人生の知恵も持っていた。
なので私が忠告をしたところ、
「下から上は分からない」と言った男性は怒って去って行ったが
(この時、心底ホッとしました)
Aさんは理解出来ないながらも必死に分かろうとした。

その差はどこから生じるのか?

素直な心と最低限の謙虚さと、最低限の頭の良さ(言語を理解する能力のこと)

それが有っても忠告されて「あ、分かった」とはならないもので
数年間悪戦苦闘するわけです。
だから
忍耐力と粘りと体力と目的意識も必要です。



私は正直言ってわからずやの相手をすることは楽しく無い。
意識レベル400の人の相手をすることは全然楽しく無いです。
ひたすら面倒なだけです。
その人が素直で「分かりたい」と言うなら仕方ないから相手をしますが
そういう人に限ってわからずやなのに
「自分こそ賢い」「自分は常識人だがオマエ(あたしのことよw)は違う」
「オマエに常識を教えてやろう」(いらねえよっ!)
という態度を取ることが普通です。
子供や若い人なら心が柔軟だから良いが
35歳を過ぎるともうダメなのではないだろうか?
なんたって「賢い」レベルに有るんだから、
世の大方はレベル200未満だから、そういう人の中に居れば「自分は賢い」と錯覚する。

いや、事実「賢い」んだけどさ、そういうことじゃないんですよ、と私が言っても
当人には受け入れる余地が無いので全然受け入れない、ひとの言うことを聴かない。
たとえば「下から上は分からない」と私に言って何故か上から私を見下し(笑)ていた人は
口癖が「無知の知」だったのです。
(※そういうひとを観察したときに感じるのは怒りでは無いのです。
   ひたすらあ〜〜〜あ、面倒臭いな、と思うだけw
   こんなことでは怒りは湧きません)

それは「自分が何も知らない(分からない)ことを知れ(分かれ)」という言葉ですが
言ってる本人が分かってねえじゃねえかよ、と思ったものです。
でも、本人にとってはそれが精一杯のサトリであり限界なのです。


面倒臭いでしょう?

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも9>(2012年10月20日)


友人のAさんとその男性とはちょっとした違い(素直で謙虚かそうでないか)で
その後、進む道が分かれた。
(この二名が一緒に居たということでは無い、縁は無い)
分かれた後はAさんは何度も悟る体験をし(私から叱られて気付かされたり)たが
その男性は変ることなく仲間からも多分呆れられたのだろう、
袂を分かち、縁が消えて行ったようです。
でも多分今はその人は自分なりの天国を見つけて楽しんでいると思います。

高いから良いとか低いから悪いというのでは無いのです。
ひとは誰でも「自分の境地(レベル)に居ること」が天国であり
それに「異を唱えられること」が地獄なのです




さらに言えば。
このような「賢い」レベル(意識レベル400)の人は頭脳に自信を持っているので
他人から「それは違う」と言われるのが地獄ですが
500を越えると「他人には他人の意見が有るのだ」ということが分かっているので
「あ、そう」で済む。
屈服させようとか思わない。

なので500を越えると心の地獄がかなり減ると思っています。
「他人は他人」
「言っても分からない」
という意識があるからです。

でも400の人は善意から「自分の身内が苦しい状況に有ることを
どうにかして解決してあげようと、自分の善意を押し付けること」をしますね。
Aさんも数年間それを続けていて、その経過報告をしていたのです。
私はAさんが自力で気付くのを待っていたが数年間全く変化無しだった。
それではいけないと思って
(判断力が上がらないのがいけない、という意味で道徳的な意味は無い)
ヒントを出すがそれでも当人はそれが「良い」と思いこんでいるので
(つまり自分が身内を心配することを無意識に善と思っていること。
 ハッキリ善とは思わないが、意識しないが、そうとしか言えない)

私が言う言葉を耳で聞くが心で聴いてない。
だから数年間変化しなかった。

こういうのって非常に面倒臭い状況です。

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも10>(2012年10月21日)


意識レベル400の人が悟るべきなのは
自分の賢さというものが、人間としての賢さには達して無い、ということ

頭の先が良いだけなのだ、ということです。

Aさんに対して数年間変化(向上)を待っていたが、全然変化しないので
仕方ないので或る時点で説明(説教とも言う)しました。
◆Aさんは何も分かって無いこと
◆Aさんの賢さは猿知恵であること
そして
◆私は分からずやの相手をする暇も体力も無いこと
◆これが分からない場合は二度と我が家に立ち入りを禁ずる




今まで無意識に自分を「利口では無いにしても決して馬鹿では無い」と
多分無意識に思っていただろうAさんは驚いていたが
私はこれを宣言してAさんに嫌われることよりも
Aさんの低いレベルによって自分の時間が削られることの方が嫌なので言いました。

Aさんが分かるか分からないかは半々でしたが
私にとってはどちらでも良い。
それは私の問題ではなくAさんの問題だからです。

Aさんは「分かって行く人生」を選択しました。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも11>(2012年10月21日)


まあ、この時のAさんの意識レベルがどんなだったか私は分からない。
どこかに記事にしたかもしれない。
意識レベル400の人をバカにするつもりも無い。
他人がどうだろうと私には関係ない。




一度で全てを悟るなんてのは無理で、少しづつ悟っていくのです。
だからAさんは一度悟る体験をしてからも何度か痛い目に遭っています。
一度悟ったから大丈夫だ、なんてことはなく、何度も私から説明(罵倒とも言う)を受けて
「悟り方」を学んだ。

これはいくら本を読んでも会得するのは困難です。
たとえば料理を一度もしたことが無い人が料理の本を読んでも多分相当難しいと思われることと同じ。

そして一度悟った人でも、では他の件を悟れるか?と言うとそれは違う。
その件は悟れたが、他の件については「その件」が有ることすら気付かない。
そう、気付かないのです。




賢いレベルの人は気付けないのではないか、と思います。
頭は良いのに悟ることが出来ないし、その前に気付けないのです。
周囲の何を見ても「賢い自分から見たら『下』に見えてしまう」境地です。
勿論Aさんにもそのケがありました。
この場合「Aさんそれは違うでしょ」と言っても無駄です。
それよりもAさんの意識レベルが上がれば、自然に分かって行くものなのです。
だから私はAさんだけではなく皆さんに細かいことは注意しないのですが



<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも12>(2012年10月21日)


さて、上の<11>で適当に思いついた数値「意識レベル500」ですが、
これについてさらに書いてみます。




私の意見なので真理では無いです。
ただの一個人の意見です。

意識レベル200未満、つまり低級霊憑き(多分これがケモノの入れ物、動物次元)が
多分世界の8割を占めている。
日本でもそうだろうと思う。
このレベルの人に分からせようとしても無理です。
言えば言うほど拗れて攻撃するようになる。
これはそうじじょうにも何度も書いてある。

レベル200未満は悟ることが不可能である、とします。
自力で気付くのはもっと不可能です。

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも13>(2012年10月21日)


それを越える人達は基本が善人です。
意識レベル200〜500未満の人のこと。・

ケモノ次元(低級霊憑き)は脱している。
だからこのレベルの人達が世の中を見ると殆どが自分よりも「下」であると感じる。
なぜなら世の大半を占める人達は自分よりも「下」だからです。

で、自分はきちんと生きている、という自覚が有る。
そういうレベルの人達の「きちんと」「ちゃんと」「マットウ」「常識」「正義」は
そういう人達のレベルに相当しているに過ぎない。
つまらないレベルの正義感など、です。



この程度でも世間のケモノ次元よりは相当良いので、彼等はそう錯覚する。

しかし彼等にとっては彼等を越えるものを理解できない。
彼等を越えるものは彼等にとっては
「変」
「おかしい」
「きちがい」
と映る。
彼等にとっての「良い」というのは世間の中で「良い」ということなので
(たとえ主義主張がそうでなくても)
世の大方の常識から離れることは無い。

このレベルの中に
◆悟れる人
◆悟れない人
とがいる。
それは性格の違いからきている。




私の意見、直観ですがこのレベルの人達が他人の意見を聞いたり学んだりして
悟れるようになったら、意識レベルは上がる。
毎日毎時間毎分意識を「上げる」という設定で生きれば
一年経てば相当上がるし、
それを継続して生きれば意識レベルは600に達する日が来る。
そしてそうなった人は悟ることを会得しているので、自力で上がっていける、と思う。


まあ、殆ど居ないわけですがw

悟ることや気付くことの難しさを思えば、意識レベルを上げることは
非常に困難である、と分かると思います。


でも、一度でも悟れた人なら時間が掛かろうとなんだろうと
上げることは出来るはずです。

<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも14>(2012年10月21日)


200〜500未満の人の中に
◆チャンス(忠告)を生かし悟れるようになった人
◆チャンス(忠告)が有ったが撥ね付けてしまい、未だに悟れずにいる人
がいます。




これも私の意見ですが以前、或る特殊な能力を持った子供が
「世の中には魂が白と黒と灰色の人がいる」と言った話の、
◆白=500以上
◆灰色=200〜500未満
◆黒=〜200未満

だと思うのです。

で、この子供は
「一番悪いのは灰色の人」と言ったそうです。



黒が一番悪いように見えるが黒ってこの際論外だと思う。
黒の人達にとっての天国に住んでいるのだから良いのでは?

白は白で勝手に明るく生きれば良い。
だから放置で良いと思う。

やはり問題は灰色です。




灰色の人達(200〜500未満)が問題なのは
◆自分達を、無意識に良い、正しいと思っている
 
 (世の大方は200未満だし、500を越える人のことは「見えない」から)
◆なので他人の意見をきかない、聞いても理解できない
◆悟る能力気付く能力が無い
 
 (有ればこのレベルには居ない、居られない、自動的に上がってしまう)
   (勿論、悟れるようになってから500をクリアするまでには時間差がある)

◆そのレベルで居ることが或る意味心地よい。
  だから変ろう、向上しようとは通常思わない
◆例外的に魂からの要請で上がりたがる人がいる
◆たとえ賢いレベルをクリアしていても本当の知恵、賢さが無い
  つまり潜象勘が無い
  モノが見えない
ことなどです。




或るサイトhttp://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-150.htmlに書いてあったが

200に次ぐ第二の関門。 
ここを境に一気に世界が変わり,見えない世界が動き始める。
500以上のチャネラーや霊媒は信頼性が高い。
500を越えると、人のために自分を使うようになります。
そこで初めて、見返りを求めない愛の世界が開けるそうです。
そこまで意識を高められる人は、たった100人に4人だけ。


この関門は意識レベル500に達しているかいないか。



で、この関門ってナンだ?と言えば「潜象勘」が有るか無いか、の境目だと思う。
意識レベル400の賢い人がいくら頭を使っても、それは心(波動量)を使ったものでは無いので
知識、情報の類なのですが、それが限界の人にとっては、
それを越えるものは感受出来ないので、それが精一杯の賢さなのです。
それを越えた賢さなどは想像すら出来ない。


この心有る賢さとは波動量のことで、本当の知恵、深い知恵のこと。
頭の良し悪しには関係ない。
田舎のお婆さんで何を見ても感謝しているようなのが
意識レベル640とか書いてあるサイトもあったが
そういうことです。


<意識レベル200〜500未満/凄く良い人・・・でも15>(2012年10月21日)


以上、長々クドクドと書いて来ましたが、思いつくまま書いたので整序はしていません。
(やたら記事を小分けにしたことは見やすくするためですが、話しの進展が前後左右することなど)
あしからず。
それをやっていると時間が掛かり過ぎるので今はやれません。




なお、ちゃんと読んでいただければ分かるのですが
この記事は意識レベル500未満をバカにするものではありません。
そのレベルから向上する方法は有ります、ということが書かれているだけです。
そうで無い人でも分かっていく方法は有るのだから
感情的になるとか蔑むとか恨むとか
そういうことは自分のためにもしない方がいい。
上にも書いたがこのレベルでウツ状態になる人は多い。
善人なのに堕ちてしまう人が笑えないほど多いし、増えているようです。
(もう十年以上前から増えてます)

子供が言った
「灰色の人が一番悪い」という言葉の意味はここらへんにも有りそうです。
200未満で常習的に悲惨な境地にいる人なら仕方ないが
善を意図しているのに、言動行動意識がちぐはぐになっているばかりに
ウツに落ち込んでいる人が多いのではないだろうか?
子供が言う「一番悪い」というのは
やはりウツの苦しさは人間にとって本人にって一番悪いよね、とも思うのです。

200未満で他人に不幸を喜ぶ、というような意識であれば
そりゃ楽しいでしょうよw
でもウツの人は楽しく無いんだから、他人の不幸が楽しい人よりも苦しいわけですよ。
それは目も当てられないのではないかな。
本人は善を意図しているのであって、決して他人の不幸を望むような「悪」では無いのに。。。
(あくまでも本人の意識から見た世界のことです)



同じ200〜500未満の人でも向上できる人もいるのだから
分かりたいと思えば分かることが出来ます。
出来ない人は思わないようです。




<注目されたい、認められたい人>(2012年10月16日)


一ヶ月以上間が空いてしまいました、済みません。
さて義母の話です。



義母はどうも
■注目されたい
のだと分かった。
たとえば・・・
@食事の仕方が変。
  カレーを食べる時にいちいち左手をスプーンの下に添える。
  カレー食う時、そういうことするかあ?と、
  私はいつも思う。
  思うがまだ指摘はしていない。
  いつか自力で悟るのを待っている。



  無理です。
  本人は知らないでやっている。
  それを「良い」と思ってやっているのです。
  多分テレビで見たか、友人知人がやっているのを見て(上品)と感じ
  それから真似しているのでしょう。

  カレー食う時いちいち左手をスプーンの下に添えるその姿を見て
  私は(あ〜〜〜あ)と思っているのです。

  他には味噌汁を飲む時、通常は右手で箸を持っているのではないか。
  しかし義母は右手に箸を持たず、両手で味噌汁椀を持ち、飲んでいる。
  何故?
  何でこうなった?

  面倒なので無視しているのでが。

A義母が入院している時、洗濯した下着などを私が病院に持って行った。
  病室から出てどこかへ行くことになった。
  その時、看護士が義母に声を掛けたら義母はとても嬉しそうに手を振っていた。
  その様子を見て(ダメだこりゃ)と思ったのは私です。
  
  看護士にしやほやされるのが嬉しいのだ、と分かったのでがっくり来たのです。
  看護士を信頼するのは良いが友達付き合いをするのは如何なものか。
  何でこうなるのだ?とがっかりした。

B関係の無いことに関係したがる。
  私が沖縄に行く前に、車の都合で行けないな、と判断をして
  代理で娘を行かせることにした。
  それには義母の車が関係していたので、義母に「車は必要ないです」と連絡をしたら
  義母は何を思ったのか、沖縄の親戚宅に、私が行けなくなったと頼んでもいないのに勝手に電話。
  沖縄に誰が行こうとそんなのは関係ない。
  こちらからおみやげを渡せばいいのだから。
  「お義母さん、電話は辞めてね、関係ないから」と電話で言ったのですが
  その時は既に沖縄の親戚に電話をした後でした・・・
  
  何故関係ないのにしゃしゃり出る?
  当人はこういうコトの中心人物になりたいのだと思う。
  それは分かるがやってはいけない。
  何故なら義母は無関係である。

  と、いう理屈を分からないと非常に不味い。



■認められたい

@もう十年も前のこと。
  お正月に食べる大根の膾(なます)を作るのが巧い義母。
  子供達もお正月の味だし、喜んで食べた。
  義母に膾が旨いと褒めたら次の年には「馬に喰わすほど作った」。
  いったい誰がこんな大量の膾を食べる?
 
  懲りたのでそれからは褒めないことにした。




注目されたい、とか認められたいというのは
子供の頃、注目されず認められなかったからではないか。
インナー・チャイルドがそれを欲している。
それは分かる。

でも、大人になったのだから、そこんとこは理詰めで理解した方が良い。

注目されたい人が注目されるために、妙なことをすれば
他人は注目するだろうが、その時の目つきは(はあああああああああ?)という、
非難がましいものになるしかない。

認められたい人が認められようと思ってやることは
どうもズレているので、良い人だということは分かるが
有りがた迷惑か、ただの迷惑でしかないのではないか。



と、いうことは。

注目されたい人は別な意味で注目され(非難され)
認められたい人は認められることは無い。


注目されたい、認められたいと思う、その人のレベルが低いからです。

それって当人にとっては苦痛だと思いますよ。
つまらない願望を抱いた結果は自分が満足するものでは無い、ということは。
だから一刻も早く意識を上げた方が良い、自分のために。




で、そういう義母に育てられたウチの主人も他人から
認められたい気持ちが強いのが分かるのです。
それを子供にも見抜かれている始末です。
しかし本人にそれを指摘しても、理解しないだろうから何も言わない。
無駄だから。

そんな状態です。




第二部(1〜9)
<親を客観視する1>
(2012年9月5日)


長くなったので二部構成にしました。
語りだすと長くなる、それが私の悪い癖。




さてここに書かれている記事は構成も何もありゃあしない、ただの思いつきを書き殴ったものです。
なので気楽に読んでください。
整序されていません。
それをしようと思ったら推敲に推敲を重ねて半年以上掛かると思うので
そんな時間はありませんから(途中で何を書いていたか忘れてしまうから)
思いつきを書いているだけですので、そこんとこ考慮してくださいね。



さて、義母が何故「言い張る」のか、生まれ育ちに原因が有るのではないかと推理したわけです。
5人姉妹の真中に生まれた義母は多分、おとなしくしていたら
押しの強い姉妹の中に居て、自分の要望が通るということが滅多に無かったのではないか。
気が強くないからです。

では黙っていたら親が義母を特別扱いしたかと言うと、これはさらに在り得ない。
再度書きますが親はどの子も等しく可愛いとは思っていますが
長子のことは頼りにするし、初めての子育てなので緊張します。
末っ子のことは最後なのでゆとりを持って子育て出来るし、最後なので落ち着いて可愛がれます。
早く大人になって欲しいとも思わない。
子育て経験者の親は急がせなくても子供はじきに大人になるので焦らない。


なので子供を可愛いと思うとか可愛くないとかとは別に
長子と末っ子には他の子には無い態度(心の姿勢)をとります。
これはひいきでは無いんです。
経験してみれば分かる。




子供は潜象勘が無いので見掛け上の違いから中間子は自分をないがしろにしていると
感じるかもしれない。
それは勘違いなのですが、本人がそう感じてしまう。
感受性や感覚、感情の問題ですから、もし子供がこの時に
「長子や末っ子ばかり可愛がっている!」と、文句を言っても
事実はそんなことは無いので親が「それは違う」と言葉で説明するかもしれない。

しかしここで肝心なのは感情の問題に対していくら言語で説明をしても
感情を変えることは殆ど不可能なのです。
エネルギーの大きさで言うと
感情>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>理性
だからです。

この場合、子供本人が勉強をしたり知恵をつけたりして
何度も何度も自分を教え返し、ようやく「ああ、親は別に自分をないがしろにしてなかったな」と
悟るわけですが、これが出来ている大人、少ないのではないか?



感情の問題を言語で解決するのはほぼ、不可能です。
なので昔の人は言いました。
「子を持って知る親の恩」
しかしこの言葉も、腹の底から理解出来る人は少ないのではないか。



<親を客観視する2>(2012年9月5日)


そういえば・・・また思い出しました。
義母が異常に他人に認められたがる性癖があることを。
長子の私には考えもつかないことです。
(あ、私は長子ですが弟達は男だから、という理由で家事分担も少なく楽をしていたように見えたので
  親に何度も「平等にしてくれ」と訴えたが、却下され叱られていたので
  その都度「ちくしょう!」と思っていました。
  昔の人は男女に差をつけたのです。
  うちの親はまだマシな方でしたが、世の中にはヒドい目に遭っていた女性は多いはずです)




義母は女ばかり5人姉妹。
長子でも末っ子でも無い。
当人の意識としては「残り三人」だったのかもしれない。
親はそんなこと思っていなかっただろうが、本人がそう感じてしまった、と思う。

そして自分で自分を目立たない子だと思い込めば
取る手段は「目立つ」ということです。
目立つために何をするか?
勉強が出来る、とかね。
それも普通に出来たのではダメで5人の中でダントツに出来ないとならない。
が、それは義母には出来なかったw
義母の両親は大昔の人ですから長子だけ大学に行かせた。
それは跡取り娘だからです。
個人の希望や適性など一切考慮しない、この行動。
しかし大昔はそうだったのです。

あとの4人は女学校へ行かせてもらいました。
義母が悔しそうに「○ちゃん(長子)だけ大学へ行かせてもらった」と言ったことがあります。
私だったらこの通り勉強が嫌いなので(おっ、そりゃラッキーじゃん)と思っただろうが
常日頃から自分が親から長子と比べて不当な差別を受けているという心の姿勢が有れば
どのようなことでも、それ(不当な差別)に結びつけてしまう。
(これが心の姿勢ね)


義母の年齢で女学校へ行かせてもらった、というのは通常無いのです。
都会ならまだしも地方都市で。
しかし義母の実家は金持ちだったのでそれが可能だったのです。
女学校へ行った、ということだけでも普通よりずっと良い境遇に居たのに
まだ上を見ては悔しがっているのです。
(おとなしい人なので悔しがり方も控えめですがねw)
もし私だったら泣いて喚いて暴れるところですが、おとなしい人なのでそれはしない。

しかし私はもし、そういう目に遭ったとしても
大学へ行きたいとか言わなかっただろうから、
やはりおとなしい人は我が強いと言えます。



<親を客観視する3>(2012年9月5日)


さて、そういうわけで勉強方面で目立つことが出来なかった義母です。
他に目立つことがあれば良かったが、多分「無い」と思います。
女だったら素晴らしい美貌に恵まれればそれだけで目立ったが、あいにくそれも「無い」。
スポーツが出来る、○○の資格を持っているなども無い。
昔の人なのでそういうチャンスも無かった。
なので義母が目立つ場面が無い。




私に言わせればこの「目立とう」と思った時点で間違いなのですがね。

しかし義母の場合皆女だし同じ親の子なので他の姉妹と似たようなものなのです。
男女混合だったらそれぞれに差が明確になったのですが
あいにくそうではなかったので、似たような者の中で目立つ
つまり特別であると認められる、ということはかなり難しかったと思う。




他人に認められたいと思っている人(意識的にも無意識的にも)多いですね。

昔、お正月に義母が作るなますが美味しいので褒めたことが有ります。
すると義母は喜んで次の年の正月にはトンデモ無く大量のなますを作って持って来てくれたことがある。
馬に食わすほど、と形容したくなった。
案の定その大量のなますは残ってしまった。
その時
(いくら我が家がなますが好きだからって、これは無いんじゃないか)
(お義母さん、何考えてんだ?)
(はあああ・・・面倒臭えなあ)


今考えると嫁から褒められて嬉しくなり、もっと褒められようと思ったんですね。
おいおいおいおいおいおい・・・
大人なんだから、他人から褒められようとするな。
とは言いませんでした。
この一点だけを指摘してもそれは表面に現れたことでしかない。
根本は違うところにある。
「自分が認められたい」
ということです。
問題点をひとつ見つけても真の原因はそこには無いのが普通です。
根本的な問題を掘り返したとしましょう。
それを本人に指摘しても言語で理解するか?
しないでしょうね。
だから溜息をつくしか無いのです。



<親を客観視する4>(2012年9月5日)


「目立ちたい」というのは「認められたい」という心が原因です。

そして認められるためには論理性が限りなく0に近い人の場合
○とにかく「良いこと」をする
○良いことをして褒めてもらう
○言い張る
などの行動をしますね。




そういえば・・・
家族で雑談をしている時、義母が何かを力説することがある。
倅が友人とドライブへ行く、という話しをした。
夜だったが、これから免許取立ての友人がウチまで迎えに来てくれる、と言った。
私は冗談で「それは危ないな!オマエはまだ生命保険に入ってないからw」と言った。
主人も「危ないぜw」と倅をからかっている。
私「なるべく死なない座席に座れw」
と主人と二人で倅をからっていたら、義母が参加し免許取立ての人の車に乗るのは
とても危ないから止めなさいと真剣に言い出した。
倅が「お祖母ちゃん大丈夫だよ」と言うと「大丈夫じゃないよ、●ちゃん、お祖母ちゃんの言うことをききな」
と何度も何度も「言い張る」。
そりゃもうしつこいくらい「乗るな」と言うので倅も困っていた。
私と主人もうんざりして黙っていたが、義母はなおも「言い張る」のでした。


空気嫁や。

と言いたいが、まあ同居しているわけじゃなし。
1時間我慢すれば帰宅するだろうから放置したのでした。

何故義母がこういう場面であそこまで力説するかというと
自分の我を押し通したいからです。
自分の(素晴らしい)意見を述べて誰かに賛同して欲しいからなのですが
当然、誰も賛同しないばかりか、うるさいだけで面倒なことこの上無い。
しかし義母にはそれが分からない。
ひたすら面倒なのでした。




会話の中心になりたいのだな、と思った。
目だって認められたいのだな、と思う。
賛同して欲しいのだ、と思う。

それらは全て義母の「我」の産物であり、うちの家族には他人の「我」という産物を
喜ぶ人は一人も居ませんから、義母は浮きまくっているのですが
モノが分からない人の特徴として「周囲を見ていない」「気付かない」というのが有ります。
(私の知人にもそういうのが居て本人がなかなか気付かないので最後に私が怒鳴りました)

義母は意識していないのですが「目立ち」「認められ」「賛同してもらう」ことが
人生の目標のようです。
これが満たされない場合は、その満たされない心(感情)を
第三者に愚痴を言う(アタシを認めないのよ!)ことで発散させるが
それをしていても何も解決しない。
解決するためには以上のことを自分で理解しなくてはならない。
しかしそれが出来ないから愚痴を言っているのです。
打つ手無し。


<親を客観視する5>(2012年9月5日)


そういえば、こんなコトもあった。
検査入院したとき、二人の看護士が義母の病室まで着て
熱を測ったり義母に質問をしました。
で、○時から何か検査をするので着替えてください、とか言ったんだっけな。
私はついてて欲しいと義母に頼まれたのでついていて一部始終を見たのですが
義母は看護士の質問や次の検査のためのこと(着替えなどいろいろ)をしてください、という指示を
聴いてないのです。
義母は看護士が来たら何故か緊張のあまり舞い上がってしまう。
そして受け答えは上の空になる。
義母の言葉は普段の言葉ではなく、とても丁寧な言葉になっている。
そして肝心の看護士が述べた指示については「聴いてない」のでとんちんかんな答えを言い
トンチンカンなことをし続けている。

多分、義母は看護士に対して良い格好をしようとしていたのだ。
他人から笑われない言動と態度をしよう、と思うあまり
緊張してしまい、却って妙な態度になってしまった。
他人から良く思われたい、認められたい、と思う心、欲、我。
普通で良いのに普通以上のことをしようとするので神経が全てそっち(良い言葉を使おう)に行ってしまった。

そこまでして他人に認められたり好かれたりしたいのでしょうか。
したいのだと思います。
普通じゃダメなんですね。
普通じゃ「普通」だからw
本人は普通以上を狙っているのです。
これ、プライドが妙なカタチで噴出しているのではないでしょうか。
昔の人であると、いうことは勿論考慮していますよ。
他人様に迷惑を掛けてはいけない、とか。
でも、普通の態度をすることは別に迷惑を掛けたことにならないし。
しかし、実際がどうあれ、本人が「普通の言葉を使うことは相手に対して無礼」とか「迷惑」とか思ったら
その人には世界はそう見えるのです。

また無礼とか迷惑は考慮していない場合。

やはり自分を「他のただの老人とは違う」という妙なプライドの表れであるとしか思えない。




ま、それでもいいんです。
しかし義母は病院のいろいろなこと(支払い他)がワケが分からないので来て欲しいと要請したので
私が行ったわけです。
義母が普通の態度を取っていれば何の不都合も無いのです。
むしろ私が居たために、義母のそういう妙な所を観察されてしまったのでした。
この件については後で義母に言いました。
「お義母さん、それじゃダメですよ」と。




病院はプロなんだから老人の相手は慣れている。
だから安心して看護士にお任せをすれば良いのですが、
義母は一番信頼しなくてはならない相手、看護士に対して「恥をかかないよう」
緊張の上にも緊張して、肝心なことは緊張のあまり「聞こえなくなっている」のでした。

普通にしていればコトは簡単なのに、何故このような処で見栄を張り
却って不味いことにするのだろう・・・・・・・・・・・・・思考力判断力が乏しいからです。
しかし思考力と判断力が乏しくてもこういう場合に普通の態度を取れる人も居るんだから
妙な態度の原因はそれだけでは無い。

やはり
他人から認められたい(あのお婆さんは他とはちょっと違う、上品で、丁寧な言葉を使う、と思われたいとか)
のでは無いだろうか?




義母の娘から義母は最新設備の病院に慣れなくて
まごついているので69子さん付き添ってあげて、と頼まれたので付き添ったが
この体験をして良かったと思います。
それは義母の思考回路、心の姿勢、思い癖を観察できたからです。


<親を客観視する6>(2012年9月5日)


普通にしていれば、他の多くのお婆さんと同じ態度でいれば
何も問題は無いのですが、妙なプライド(我)が有るために
事態は面倒な方向に動いたというわけです。

他の多くのお婆さんと同じに・・・ということが、多分嫌なのではないだろうか。
他の人と同列に扱われるのは嫌なのだ、としか言いようが無い。
我が家に義母が来ていてそこに他人が居ると途端に「良い態度」になり
言葉使いも声の抑揚も変化する義母。
まあ、このくらいならどうでもいいが、自分が入院している病院でコレ(アタシは特別)を
やっちゃあいけないのではないだろうか?
もっと自然になればいいのに、と思うが、こういう人は細胞レベル(潜在意識)で自然というのを
とうの昔に無くした、というか封印した、というか、知らないのではないだろうか?

誰も強制(良い態度をしろ、他人の前で恥をかくな、他)してはいないのに
本人が若い頃に植えつけた(インプットした)当時の習慣や常識という虚像が
80歳過ぎても強大な力を持って自分を支配しているのです。
自分を支配するのは自分の考えなのですが、その考えというのが若い頃に植えつけられたものなのです。



このレベルの人を改善しようにもやりようが無い。
どこから手をつけていいか、分からない。
殆ど不可能です。
その助けとなるのが病気や不幸なのですが、こういう人はそれが有っても決して悟らない。
日月神も人間には二種類居る」みたいなことを言っています。
理屈が通用しない、思考力の無い(乏しい)人間には、神示を実行など出来ないので

そういう人用の教えが有る、みたいなことです。


<親を客観視する7>(2012年9月5日)


そういうワケで義母がうちにいる時には説教ばかりしていました。
義母はこれから検査だという期間は不安で不安で仕方なく、その時は私の言うことを聴いていたが
(耳で聞いていた、という意味。従ったという意味では無い)
いざ病気が発見されて手術だ、ということになったら
どうも病巣だけ取れば健康になる、と思ったのか、説教のようなものは聴かなくなった。

話しを逸らしてみたりね。
反論はしないんです、出来ないからw
でも話しをうわの空で聞く(聴いてるふりをする)、不味い方に話しが進むと
話しを逸らす。
まずい方というのは義母の心の姿勢を改善する、ということや
今の世の中の真相とか、です。
今の世の中がどうであろうと自分には関係無いからです。
自分はもう老人だから何がどうなっていようと関係ない。
子宮頸がんワクチンで若い女子が不妊になろうと、そんなの関係ない。
ってんで話しを逸らしたときは「ああ、もうダメだな」と思った。

子宮頸がんワクチンの話しをするのは、コトがこれだけですまないからです。
これはほんの一例で他に山ほどヒドいことが、今日本に有るんですよ、
でもそんな話しは自分は老人だから関係無いんですわ。




こういうコトを言っちゃうとナンなんですけど。
老人の身体の具合が悪いのは常に自分のことしか考えて無いから。
若い人もそうですよ。
ウツの人は自分のことしか考えていません。
(話しが長くなるので疑問に思った方が居てもここで打ち切ります)

自分なんかどうなってもいい、もう老人なんだから、世のため人のために
お役に立ちたい、と言って自分に出来ることをすれば
病気になっている暇は無い。
(放射能が漏れている場所はまた別の話しですが)

<親を客観視する8>(2012年9月5日)


みんなの役に立ちたいと思い、実行している善人の多くは
自分の周囲の人間のためにやっているのです。
真の原因は何でしょう?
自分が褒められ、認められ、好かれたいからではないか?
いや、絶対そんなことは無い、
という人が居るならそれで結構です。




義母の他人への親切は全て自分の友人知人家族親族に対して、です。
老人だから行動範囲が狭いから、仕方無いだろ、と思うかもしれないが
義母は老人になってからそういう行動様式になったのではなく
若い頃からそうだったのです。

他人のため、と言いつつ思いつつ、実は自分のためだった、ということは
普通に有りますね。
相手から感謝されたい、認められたい、褒められたい、頼りにされたい、とかです。
スケールが実に小さい。
しかし本人がスケール小さいんだから自分で自分をスケール小さいとは気付かない。
それが精一杯感知できる世界だからです。

女だし昔の人だし、それでもいいです。
でもそれを越えるものが有る、ということを知らない、というのも事実です。



<親を客観視する9>(2012年9月5日)


はあああああああああああああ(溜息)

要するに義母は
◇日常の範囲内の思考力判断力は有るが、難しいことに関しては思考力判断力は無い
◇他人に褒められたい、認められたい、賛同して欲しいという気持ちが強い
◇しかし通常、他人を認めるような奇特な人は居ない
 
 (例外的に居るがそれは詐欺師)
◇非常に我が強く、言い張ることによって我を通そうとする
◇以上のことに無自覚
だということが分かった。




義母がそういう性格になったのには様々な理由原因が有ることでしょうが
その中の大きなものに家庭環境が有ると思います。
5人姉妹の真中で、親から認められたい、褒められたいという気持ちが強くなった。
圧倒的な力の差が姉妹間には無かったために、どんぐりの背比べだったために
(私だって)(私の方が)と言う思いが毎日沸いたことでしょう。
自己主張する時はとにかく何でもいいから「言い張る」こと、これしか無い。
とかね。

だから義母にはインナー・チャイルドを癒す何かが必要ですが
それを理解しないでしょう。
(インナー・チャイルド、などの考え方は理解できないだろう)
BSWは飲むように言ってあるのでこれは実行しているようです。
健康になりたいからね。
素直な面も多々あるし性格は良いのだから、とても気の毒です。
同居の件は息子が嫌がっているので実現しないでしょう。
(勿論ひとのサトリを邪魔する存在=義妹、が居ることが義母の足を引っ張っている。
  「地獄への道は善意で敷き詰められている」そうです。
   せっかくサトリかけていても、それを善意の他人が、妙な助言や励ましをして台無しにすることです)


なので義母は独りで暮らし考えなくてはならないが、思考力の方は
日常生活についてはとても賢いが、心や精神のことについては何も知らないし
説明をしてもただ聞いているだけ、の状態なのです。




それはそれで良いとおもう。
自分の人生なので好きに生きれば良い。
しかしそのことによって自分が苦しい状況に陥ったとしたら?
心の姿勢が変なら運勢(運命、状況)も変な方向に向かいます。
たとえば
◇他人に良い顔を見せるあまり、他人に認められたいと思うあまり緊張して却って変な言動と行動をする
 
 (看護士が相手の場合は、彼女たちは慣れているので「ああ、ボケね」と思ったかもしれない。
    このように相手が義母よりも程度が高ければ問題は無い。
    義母より程度が低い人が相手の場合、これは実際に有ったのですが
    隣人とトラブって義母は大変苦労した。
    そのような隣人とそこまで親しく付き合うことを止めれば良いのだが
    義母は良いことをして認められて好かれたいので、やっちまったのです)

◇自己主張の方法が「言い張る」ことなので、普段どんなに良い態度をしていても
   いざというときに「言い張り」その結果実の息子や嫁、孫から面倒臭がられ
   同居の線はなくなった
◇自己主張のもうひとつの方法は愚痴である。
   どんなに良い環境に居ても何かしら不都合を見つけ出しては愚痴を言うか
   誤解してまで愚痴を言う。
   その結果、素直にしていれば素直に物事が運ぶのに素直では無いために物事は素直に運ばない。
   心のままに現象が展開し、その結果自分にとって非常にまずい結果になる。
 
  (素直にしていれば良いのに、愚痴を言ったために義妹がしゃしゃり出て来たために
    同居の線は無くなった)




義母は我が強い点を除けば性格は良い。
常に優しく人当たりよく、他人のお役に立とうと思っています。
しかし、この親切、他人の役に立とうと思っている、ということの真意は
自覚はしていないでしょうが、「認められたい」「褒められたい」「好かれたい」という
「我」から発しているのです。
ここで自覚すればいいのにな、と思います。

自覚するためには或る程度の思考力が無いと難しい。
人間、なるべく若いうちに思考力のつけ方を学び、マスターした方が良い。
学力や学歴をつけることよりも重要です。



第一部(1〜9)
<親を客観視する1>(2012年9月4日)


ここんとこ続けて閲覧者の方から「自分の親を客観視」している内容のメールが来ています。
閲覧者の方は大人ですが、今、やっと、ようやく自分の親をきちんと客観視出来るようになった。
精神が大人(波動が向上)したからですね。
そりゃ今までも「うちのお母さんは愚痴っぽい」とか「オヤジは話しが分からない」とか
誰でも感じてはいるんです。
しかし感じるのときちんと考えるのは別です。




ウチの親はこうだ、ああだ、ということで終わるのではなく
嫌だの嫌いだの、親への恨みとかつらみとかそういうコトではなく、
親の自分への態度とかではなく、
親自身のことについての考察、つまり
親の状態をきちんと観察して言語化することが出来るようになったのは大きな進歩です。

親は自分が生まれた時から居るので、子供からすると客観視は難しい。
親のやり方は自分の潜在意識に記録されていて、自分の身体の細胞ひとつひとつに
その情報が入っていると思って良い。
空気のようなもので、それを意識化することが難しい。
それをやれるようになったらかなり進歩したと言えます。
自分の潜在意識を意識化することと同じです。



<親を客観視する2>(2012年9月4日)


またまた主人の母の話しで恐縮です。
主人の母は珍しいくらい性格が良い。
優しく親切で常に他人の役に立とうと思っている善人です。
意地悪はしないできない。
アワのタチなんですかねw

しかし自分と同年輩のオバ・・・気が強い婆さんからは
何か言われると悔しいがアワなので言い返せない。
勿論相手の婆さんも意地悪を言うのではなくて、ただワケが分からないので
言いたい砲台を言うだけなんですが、それでも義母は言われる一方で
悔しい。
でも言い返せない。
なので愚痴が多くなる・・・という構図です。

ここまでは散々語ってきたので良しとする。




最近気付いたのですが義母は言い出したらきかないところがあるなあ、と。
そういえば今から25年ほど前にこんなことがあった。
私の友人がタッパーを売っていた。
優れものなので私も幾つか買いました。
で味噌を作るタッパーというのを買って、手作り味噌を作ってみた。
義母にも1タッパー作って持って行ってあげた。
すると義母は仕込んだばかりの味噌をビニール袋に入れ直す、と言うんです。

いや、タッパーなんだから、それがビニールと同じなんだ、と説明をしても聴かない。
「私はそう教わったから」と言うんです。

だ〜か〜ら〜!
その、ビニール袋と同じ機能を持っているのが、こ・の・タッパーなんですよ!

と、言っても理解せず。
一度教わったことは墓場まで持って行く勢いだったのと
どうせウチの味噌じゃないから、義母の好きなようにすればいい、と放置しました。
義母はわざわざ密閉容器である、タッパーから味噌を出して
ビニール袋に入れ替えたようです、知らないけど。
(ここらへんは「鬼女ブログ」の体験談のようですねw)




で、私はこの通りそういう些細なことを根に持つ性格ではなく、
というか、忘れてしまうタチなのですっかり忘れていました。
その件についてはその場で考えただけでそれ以上は考えないで忘れたのです。



<親を客観視する3>(2012年9月4日)


で、それから年月が経って、いろいろなことがあるわけです。
去年、義父の○回忌ってのをやりました。
その会場を義母が選んだ。
そこは寺から遠く遠く遠遠く〜〜〜〜く離れた変な場所に有る店。
何で?

私は合理的な人間なので、もし自分が主宰者なら
まず○回忌はやらないw
しかしやるとしたら寺から一番近い、味が不味くなければOKの店にします。
移動で時間を取られるなんで冗談じゃない。

しかし義母は遠〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜い、ナントカって店がいいんですと。

たしかにその店はこぎれいで良かったのでいいんですけどね。




もうひとつ義母は知り合いの電機屋から大型プラズマテレビを買った。
何故?
一人暮らしなのに?
電機屋が地デジがどうたれ・・・これはお買い得・・・とか言ったらしい。
で、現金じゃなくて月賦で買ったのでした。
なのでウチの主人に保証人になってくれ、と言って来ました。
ウチの主人としては親孝行をするのはやぶさかでは無い。
しかし「一人暮らしの老人」が「大型のテレビ」を使う必要性が無い。
主人は「その電機屋をあまり信用しない方がいいぜ」と忠告したのですが
義母は「でも、長い付き合いだから」「お買い得だから」「月賦で買ってみたい」と言い張る。
主人が「もう買うって言ったんだから、今回は買ってもいいが、その電機屋はあまり信用しない方がいいぜ」
義母「でも長い付き合いだから」以下、同じことを繰り返す。
主人が「だから保障人にはなってやるから、これからは買う時相談してくれ」
義母「でも、もう買っちゃったから」「電機屋さんとは長い付き合いだから」
主人「だから、保障人にはなるから、今度買う時は相談してくれ」
義母「でも、もう買うって言っちゃったのよね」「だって○○(電機屋)さんとは長い付き合いだから」



同じことを言い張る。



そう、言い張るのです。



そうだ、言い張るんだった!
と、私は最近、やっと気づいたのです。



<親を客観視する4>(2012年9月4日)


そういえばお義母さん、言い張るよなあ!
義母の性格がとてもいいので特に不満が無かったのもあり、義母の欠点を考えたことが無かったのですが
そういえば思いあたります。
あの時も、この時も、そう言えば義母はただひたすら「言い張っていた」ということに。

何故今まで気付かなかったのでしょう。

私は他人がどうだろうとあまり気に留めない。
自由に生きてくれ、と願う。
そして忘れるw
だからか!
だから、だよな〜〜〜




そういえば・・・若い頃の職場にも「言い張る人」居たな。
悪気は無いが言い張る。
こういう人の頭の中は論理は無い。
感情と思い込みだけが有る。
その人にとってその件は絶対譲れない最後の砦のようなものなのです。
論理的に説明出来ないが、譲るわけにはいかない。
その結果、非常に大きな情動に裏付けられた「言い張り」が前面に出て来るのではないか。




論理で説明出来ないからです。

そして気が強いサヌキ人間の場合なら、相手を怒鳴る、という手段も有ります。
しかしアワ人間は他人と敵対は出来ない。
しかし、自分が大事にしているものは守りたい。
なのでその手段が「言い張り」なのです。


<親を客観視する5>(2012年9月4日)


ここまで分かった時私は(うへえ)と思いました。

主人の方が先に自分の母親の困った性癖を見抜いていたようです。
言葉は忘れてしまったが、
義母は自分が思い込んだら他人の話は一切聞かない、というようなことを言ってました。
プラズマテレビの件もそう。
○回忌の店の件もそう。
○回忌の店の時は義母が息子(うちの主人)に「○○でやりたい」と言った。
主人は「そこは遠いから」と暗に「止めろ」と匂わせても、
そんなこと気付かない、だって義母はそこがいいと決めているし
それは「良いこと」だから変更とか訂正とか考え直す必要性など、思いも拠らない。
だから押し通す。
周囲が根負けをする。

だって、上の件はどうでも良いことですから。
自分には関わりが無いので最後には「そんなに言うなら好きにすれば?」となります。




他にも義母が言い出したら引かないで言い張り、自分の「我」を通すことが有ったのかもしれません。
私は○回忌のお清めの店とかの相談に乗ってないので知らなかったが
何度も有ったのかもしれませんね。
その結果、主人は「お袋は言い出したら他人の話しをきかない」、つまり「非常に我が強い」と
思っているのかもしれません。

もし、こういう我の強いのが家族に居たら他の家族は迷惑です。
苦労を背負い込むことになります。
幸いにも私はそういうことには気付かない(義母が我が強い)のでしたが
私は言い張りはしないが(何故なら論理で説明をするから)
あまりにも相手が話しが分からない場合は、
平気で怒鳴りますから(手も出ますから)(鼻にパンチ食らわしますから)

いいんですけどね。
「クッソ婆あ、ブッ殺すぞ!」と言いながら・・・
(あ、まだやってませんよ!)


<親を客観視する6>(2012年9月4日)


主人の方が母親のことを良く分かっていたようでだから
「さっさと死んでくれっ!」と、私に言っていたんですね。
やっと分かった。

私は言い張る、なんて恥ずかしいことはしません。
論理的に淡々と説明をしますから。
それが出来ない人が自分の我を通したい時は
「同じことを何度も言い張る」
という恥ずかしい行為をするのです。

あ、私はこういう行為は恥ずかしくて出来ないが、こういう行為を「良い」「正当である」と
感じる手合いも居ますよ。
人はもう、見かけ以上に中身は差が有りますからね。




私は主人が自分の母親と同居したいと言えば「はいはい」と従おうと思っていました。
ただし。
その場合は義母にも我が家の最低ラインをクリアしてもらうことが条件です。
クリアするべく毎日訓練することを、私は覚悟していました。
それには怒鳴る殴るってのも入っていますよ。
言って分からなければ仕方ない。
身体で覚えてもらいましょう。
ウチの子のように。




まあ、実際は話しが分からない友人を相手にしても怒鳴ることはしょっちゅうやるが
殴ることはしていません。
殴るなんてのは最終手段です。
それくらい分かっています。
ただ「不退転」の覚悟はしています。
もし、優しく介護されたいのなら専門のところへ行くしかない。
我が家に「介護」などという、思想は無い。
(69よ、おめえが身体が動かなくなったらどうすんだ?という疑問が沸いた方。
  そうなる前に黒海偽印の一人でも二人でも両脇に抱えて壇ノ浦に沈んでやりますよ。
  「平家物語」のように)


と、いう覚悟をしていたのです、義母が同居したがった時は。

その私の覚悟(コトによったら殴るかんね)を察知したのか、してないのか
主人が母親との同居を嫌がりました。



<親を客観視する7>(2012年9月4日)


いくら性格が良くても話が分からず・・・いや、話が分からないだけならOKなんです。
その人に「あんたは話しが分からないよ」と言ったら「そうか」と分かれば良い。
相手が「自分は話しが分からないのだ」と分かるだけで、私は良いのです。
その「話し」自体、分かった方がそりゃあ、いいですよ。
でも、それは今は無理だから、こうして私から説教されているわけでしょう?
だったら「その件については全然分からないが、それはダメだという、69さんの言葉だけは分かった」
それでいいんですよ。
分かり方なんで人によって全然違うんだから、私と同じように分かれ、って言うのは無理。
だから今、その件を分からなくてもいいんです。
ただ「自分は今はその件は分からない」と「分かれば」良い。




私のお客さん、友人知人は、このことを悟った人が多い。

分からないものを今すぐ分かれ、なんて非道なことを言うわけが無いじゃないですか。
私だって分かっちゃ居ないんだからさ。

でも、今、その件を分かってないのに、「分かった」と言うのはそれは大いなる誤解です。




しかし言い張る人はどうでしょうね?
これ、なんともはや、どうしようもない、レベルに有りますね。

おとなしい人。
怒鳴れない人が自分の我を通す手段・・・言い張り。
そうやって自分の我を通せる所では通してきた。
勿論無自覚です。
言い張っても「我」を通せない場所はゴマンとありますよ。

義母の例で言えば・・・沢山有ります。
それは、相手が「義母より言い張る人」だからですw
義母は相手が言い張るので自分は言い張れないのです。
だから我を折らされてしまい、とても悔しい、だからその満たされない心をなんとかしたくて
第三者に愚痴を言う。
これを繰り返す。
愚痴というのも「自分の言い分を正当化したい」ので言うので、やはり「我」を通しているのです。



<親を客観視する8>(2012年9月4日)


下の記事<おとなしい人の我の強さは強烈>と関連しています。

義母ほどでは無いがそういう人は知り合いにもいます。
何かを言う。
ソレに対して私が反応をしないと反応するまで言う、とかです。
言い張りの弱いタイプ。
多分私が反応しないので「聞こえなかったのかな」と思って何度も言うのでしょうが
聞こえてますよ。
あまりにもくだらないので反応しないだけです。

普通ならここで(ああ、自分がくだらないことを言ったから69さんが無視したんだな)と分かるのですが
わからずやの場合はそこまで考えが及ばないのか、
つまり何も考えないので、自分の言動行動が「悪い」はずは無い、と無意識に思っているので
私が反応するまで何度でも繰り返す。

これ、カタチはおとなしいが、義母の言い張りと同じことです。




(ああ、気付いてくれ)と思いつつ、当人のサトリを待っている私です。
しかしこういう人は自力で悟れるレベルには無いので
いつの日か「いい加減にしろ!少しは考えろ!」と私に怒鳴られるわけです。




怒鳴られて初めて自分の言動行動が不適切だったと分かる。
そのレベルでは情けないと思いませんか?
義母もこのレベルなので同居した場合はほぼ毎日私から怒鳴られることになる。
数日間我が家に暮らしてみてそれが分かった義母はもう我が家に来ません。
(その前には半月も我が家に居たことが何度もあります。
  しかしそれは仮の宿泊だったのでお客さんでした。
  だから多少のことは目を瞑ろう。
  しかし同居となればそうはいかない、我が家の最低レベルはクリアしてもらう、ということで
  毎日説教をしていたのです。
  説教と言うのは義母の愚痴を論理的に解説をして、愚痴を言うことでは無いことを
  理解させようとしていたこと)




そしたら義母は5日で逃げ出したので、まあそうかな?と。
ああいう人間には覚悟が無い。
隠しているが非常に強い「我」しかない。
それで他人と巧くやろうと思っていたとしたら、考え無しにもほどが有ります。
それが分かっただけでも5日間の同居は収穫でした。
(実際にはその前から義母は我が家に来て半月も泊まっていた。
  その時も説教をしていたのです。
  義母は手術をした病人は可哀想だから、嫁(69)も優しくなり
  自分の我を受け入れるのではないかと、多分無意識に思ったのではないか。
  しかしそれは妄想でした)



<親を客観視する9>(2012年9月4日)


思うんですけどね。
おとなしい人はやはり我が強いのです。
私が反応するまで同じことを何度も言う、罪の無い知人には過去に
「あんたは我が強い」
と言ったら驚いていましたが、その後その人が自分を客観視して自分の我が相当強いことを
自覚できるようになっていたらいいな、と思います。



おとなしいのに我が強く、自分の我を通すことには凄まじいエネルギーを消費する人。
私はこういう人を見ると
(何のために?)
と思います。



愚痴を言う人、同じことを何度も言う人、言い張る人、皆、平均値を遥かに上回る「我」の持ち主です。
もし自分がそうならここで自分を客観視してみたら良いと思います。



69よ、おめえも相当我が強くねえかあ?

と思った方。
はい私も我が強いっつうか我の塊ですが
それでも大人しい人には負けますが何か?


大昔お釈迦様が言ったそうです。
分かっているのと分かってないのとでは分かってない方が重症だ。
(言葉はこの通りでは無い)
そういうことです。




<おとなしい人の我の強さは強烈1>(2012年9月3日)


何度も同じようなことを話題にしていますが。
まず、おとなしい人、の定義。
性格がおとなしいってことで、「おとなしい人」の中にはお喋りな人は沢山います。
だから実際はうるさい人が多いかな。
口数が少ない、おとなしい人も勿論いますがね。

で、おとなしいのでそういう人は我が無いか、弱いかと言えば
とんでも無いのであります。
キツい人の我の強さは見ただけで分かるが
おとなしい人の我の強さは表には出さない。
とは言っても表に出る場面というのがありまして、その時に
(ああ、我が強いな)と感じるわけです。


<親を客観視する10>(2012年9月4日)


と、いうことで親を客観視する、というテーマでぐだぐだと論じて来ました。
話しはこれからなのです。
今までのは前フリねw



では、何故、義母が言い張るようになったのか?



これが問題です。



多分5人姉妹の真中という立場で育ったために自己主張をせざるを得なかった。
長女=親が常に注目している。頼りにしている。学歴つけさせる。
末っ子=親が可愛がる。大抵のことは目を瞑る。
あとの中間子3人が問題。




中間子三人はよほど何か無いと目立たないと思ったのでしょうか。
親から見たらどれも同じ子供なので特に誰が良いとか誰は要らないとかは無いのですが
中間子は
長子=親の期待が掛かっている
末っ子=親が甘やかす
というのを感じ取り、自分は注目されてないし甘やかされてもいないと、勝手に卑屈になっている
場合があります。
親の心子知らず、です。

実に面倒ですね。




私は長子なので親が変な期待をしたことはしたが、女であること、
年子の弟が成績優秀だったのでまだ良かった・・・が、長子は何をするにも最初なので
親が慣れてなくて大変でした。
むしろ長子である「被害」がこちらに及んだと思っています。
長男である弟も悲惨でした。
親の期待は長男である弟に行ったのでよかったです〜
末っ子は可愛がられて良かったね、と思います。
すると中間子である弟妹が問題ですが、この二名は目立とうとしていましたw
それはそれでいいんじゃないか。




男女混合5人兄弟と女5人姉妹とでは事情が違うと思います。









<おとなしい人の我の強さは強烈2>(2012年9月3日)


おとなしい人の我の強さの実際はいろいろあります。
おとなしくて善人の人はなにしろ「良いこと」しかしませんから
(それは本人が主観的に感じる、良いことですよ。
  客観的に見たら、波動の低い人が行う良いことは殆どが余計なお世話となります)
良いことをしたくて仕方ない、うずうずしている。
それをしたことによる弊害を考えない。
これは不味い。

で、良いことをした場合の弊害が見えるとき(潜象勘が有る人なら簡単に分かる)
大抵は「良いこと」をしている人には何も言わない。
無粋ですから。
でもその良いことをしている人がこのままでは不味いと思えば、忠告をします。
例外的に。

ところが、この忠告を聞いたその良いことをする善人は忠告の言葉を理解できない
場合が普通です。




言って分かるようなら最初からそのようなこと(余計なお世話やトンチンカンなこと)はしないので
分からないからやっているのです。
その人に言語で忠告をしても99%理解されない。
その時、忠告された人は思います。

(私は良いことをしているのに、何故文句を言われるのだろう?)
(この人は頭がおかしいのではないか)
(なんて意地悪なんだろう)

決して「自分が悪い、自分が原因である、自分が余計なことをしたからである、自分は何も考えて無い」とは
分からないのです。
なのでこの良い人は必死で忠告してくれた相手に対して
自分への誤解を解くよう、説明(言い訳)をします。
するとそれはその良い人が
「何も考えて無い、分かってないくせに」
「自分を正当化する」
と相手に受け取られてさらに忠告が激しくなります。

良い人は決して物事を悟らないのです。



<おとなしい人の我の強さは強烈3>(2012年9月3日)


このおとなしくて良い人は物事が判らないのに
自分を認めて欲しいという我が強すぎる。
なぜならこういう人はアワのタチであり、アワのタチの人は
「他人と敵対することが本能的に怖い」からです。
ところがこういう人に忠告をしてくれる人は
大抵は「アワ量多いサヌキ人間」ですから
敵対していたら、忠告などという親切は発揮しないのです。

親切を敵対と感じてしまうほどアワな大人しい人は自分を守るのに必死なのでしょう。
自分=我
です。

考えなくてはならない場面で感情的になっていたら
決して悟れませんから、こういうおとなしい良い人が悟るのは非常に困難です。


私は今までおとなしい人が自分を分かってもらおうと思い、
私がその人を誤解しているのだ、とそういう人が勝手に思っては
必死で説明(言い訳)をするのを見て来ました。

ここで、その大人しい人が自分の我より先に相手の言葉を理解しようと思えばよし、
そうで無い場合はワケが分からないまま感情が拗れ、波動が低下する。
それは全てその大人しい人本人の感受性が原因です。


片方は波動上昇への道、片方は波動低下への道。
毎日何でも無い場面で常に人は二つの道を選んで進んでいるのだ、と意識して生きた方が良いと思います。




<無力を装って他人を操作1>(2012年8月28日)


このテーマで書こうと思ってグズグズしていたら「星舟庵〜せいしゅうあん〜」のゆみさんが
同じテーマで記事を書いていました。

「灯台下暗し」



ヤマダ幼児監督の「学校」という映画に登校拒否の女子高生が出てくる。
夜学のクラス担任である主演の西田がその女子高生に質問をすると
代わりに母親が答えてしまい、西田が「お母さん、私は○○子さんに訊いてるんですよ?」と
注意を促す場面が有るが、当の母親は担任の言葉を理解しないだろうなあ・・・。

またテレビのドラマで家庭内に問題が生じた一家が出てくるのがあった。
多分問題が有るのは子供なのだが、その子供の相談にとやって来た夫婦が
医師の前でコントロール・ゲームを始める。
見かけ上悪いのは子供なのだが、その場合は親に原因が有ると
ベテランの医師は見抜いている。
そこでいったい親の問題は何か?を知るために子供の両親を診察室に呼んだのだ。
そこで母親が医師から鋭い質問を何度も投げ掛けられ、
多分無意識に(不味い!)と思ったのだろう。
いきなり泣き出し「私がみんな悪いんです。悪いのはこの私なんです〜〜〜うううう〜〜〜〜」と泣くと
隣にいた亭主が「オマエは悪くないよ!悪いのは○○夫なんだから!」と
必死で励ます・・・のを見た医師。
(悪いのはこの母親だ。母親が家族を泣くことによってコントロールしているのだ)と分かる、というドラマ。




こう書くとコントロールが悪いんだ!と思うかもしれませんが違いますよ。
コントロールは必要ですよ。
生まれた赤ちゃんは何も知らないんだから、親がしっかりとコントロールしなければ
大津市で同級生を苛めて殺し偽装した連中のようになっちゃうこともあるんですよ。
コントロールは必要不可欠です。



<無力を装って他人を操作2>(2012年8月28日)


ではコントロールは良いんだね?

いいえ、違います。
悪くなければ、良い、という短絡思考はいけない。




意識してコントロールすることは必要なのです。
家庭でも職場でもどこでも、です。
不味いのは無意識にコントロールすることです。
そして無意識にコントロールする人は大抵自分を無力である、と見せかける。
「私は○○出来ないから」と匂わす。
するとそれを見た周囲の何も考えない善人。
こういう人は何かやってあげたくて仕方なく、スタンバイしていますから
「ほいきた!」とばかり、その「無力な人」に「やってあげます」




やってあげたっていいんじゃないの?

いいですよ。
やれば?
好きなだけ。

そしてそれによって結果がどうなろうと、やった人も責任を負うなら
気が済むまでやれば良い。
そして無意識にコントロールする人を恨まないなら、結構な話じゃありませんか。



<無力を装って他人を操作3>(2012年8月28日)


つまり分かっているなら(法律の範囲内で)何をやろうと良いと思う。
分かってない、意識していないのが問題です。




OFF会で会った若い奥さんが言ってました。
「病気(身体が動かない)と言って姑が何もしない(出来ない風を装う)。
 主人は姑からあれを取ってこれをやってと言われるままに動いている。
 それが親孝行だと思っているのが分かる。
 でも姑は自分で身体を動かさなければリハビリにならないし
 それ以前に本当は自分で何でも取れる、手に取れる、やれる。
  うちの主人はバカなんですw」


男には見抜けないのでしょうね。
でもこの若い奥さんは見抜いていて、そんな親子を冷静な目で見ているのです。
この態度、良いと思いますよ。
分かっているから。


この姑は自分の身体が動かないというのを
大義名分にして
他人、まあ息子だけど、をコントロール出来て良いですねw
息子はそれに気付かないんだから幸せで、一生懸命に
やれば出来る母親のために動いている。

ここまではいい。

もし、この息子が自分の嫁に対して
「おふくろは身体が動かないんだから、オマエも動いてやれ!」と言ったら
この幸福な家庭は一瞬で壊れるのですがね。
モノが分からない人の幸せは
「板子一枚底はジゴク」(船のたとえです)状態ですよ。
何となく巧く行っている時はいいが、ひとたび巧く行かなくなれば
途端に砂上の楼閣の如く、全てが壊れるのです。
その日が来るまでスリルが有るっちゃあ有りますがねw




<無力を装って他人を操作4>(2012年8月28日)


こういう例は沢山有ります。

男性的な女性の場合は、行動があからさまですから
他人をコントロールする場合は自覚してやります。
たとえば、他人に何かをさせたい場合は、言語で命令します。
自覚出来ない場合でも、傍から見てもそれはハッキリとコントロールですからまだ良いのです。
本人にコントロールの自覚が無くても「だってさっき○○しろって言ったじゃん」と
他人から指摘されますからね。




女性的な女性の場合。
他人に命令するなんてことはとても出来ないので代わりに何をするかと言うと
「お願い」をしますね。
これならいいんです。
だって、やり方はおとなしいがお願いをすることによって他人をコントロールしているのは
自分でも分かる。
いや、コントロールしているのは分からない(理解できない)が
自分が他人にお願いをして○○してもらおうと思っているのは「分かる」。




問題なのは命令もお願いもしない人です。
実はこういう人は低次元なのは勿論、凄まじく我が強いのは分かりますよね?




<無力を装って他人を操作5>(2012年8月28日)


或る、とても気の毒な人がいます。
子供の頃、父親が母親に暴力を振るっていた。
母親は子供に「あなたが良い子にしていないから、(私は)お父さんに殴られる」とか
言っていたそうです。
で、その人はとても良い子だったので
可哀想なお母さんのために、良い子になり(てか元々良い子なのですが)
お母さんがお父さんに殴られているときはお母さんを守っていたそうです。
すると今度はその人もお父さんに殴られる始末。

しかしその人は長じてから何か解決出来ない問題(物質か精神か分かりませんが)に
ブチ当たりウツになってしまったそうです。
で、ウツの原因が分からず様々なな努力をした結果

私のところへ来たのでした。



するとその人はいろいろなことに気付けるようになり
とうとう問題の根本原因を発見しました。
お母さんが無意識に子供をコントロールしたことが真の原因だったのでした。
今、分かって良かった。




この人のお母さんのように、何の悪気も無く、無意識に子供(他人)を操作(コントロール)する人は
女性の中には居ますね。
女性的な女性です。

無力を装って。
「お母さんは病気だ」
「お母さんは身体が弱い」
「お父さんが殴る。私は可哀想」
などの理由で。
それらの理由は見かけ上のものでしかなく、根本的な原因では無いのですが
言ってる本人にも分かってないので、ウソをついているのではないのです。
ただひたすら「自覚出来ない」「意識化出来ない」だけなのです。




男性的な女性はこのような回りくどいことをしません。
自分でハッキリと命令します。
理由さえも言いませんw
「やれと言ったらやれ!」
で終わる。

ヒドい母親ですが、隠している本当の理由は無いのです。
全ては表に出ている。
だから子供の方も文句を言いつつ命令に従いますが、
コトが拗れることも有りません。
(とは言っても全部が全部、良いとは言いません。
  本人がいくら単純でも命令が滅茶苦茶自分本位で自己中心我がままの気紛れだったら
  やはり子供はおかしくなります。
  このケースでも子供がウツ病になっている事例は有ります)


(まあ、人間のやることなので数学のように定理通りにはいきません)



しかし男性的なヒドい母親はヒドいが(笑)
実は私がそういうタイプですが(大笑)、むしろこっちの方は単純で良いのです。
だってやっていることがヒドいので子供達からの反発はすぐ来ます。
「この婆あ!死ね!」とかね。
それで参る私では無いが。



問題なのは女性的で本当の気持ちに自分が気付かず周囲の者を巻き込んで
自分の我を通す、という回りくどいやり方をする人の家族は大変です。
日月神が
「女のメグリ怖いのぞ」と言ってますが、このことだと思います。
このような母親の元に生まれた子は大変気の毒です。
人生が狂ってしまう。
しかしそれも貴重な学びと捉え、自分はそういう親のようにはならずに
しっかりと自立し、意識をハッキリ持って生きることを選びましょう。
もし運悪く自分の母親がこのタイプだったら、反面教師と捉えて
自分はそうならないようにすれば良い。



<無力を装って他人を操作6>(2012年8月29日)


と、1から4まで主に中年〜老人のおばさんのことを書いて来ました。
だから「無力を装って他人を操作する」のはおばさん〜婆さんだと思われたかもしれないが
違いますよ。
若い人、子供でもやります。
無力を装って他人を操作するのは年齢とは関係無く性格的なものなのです。



以前我が家に住まわせていた女子高生がコレでした。
親と祖父母が寄ってたかってこの子が自立できないようにしていた結果
登校できなくなりました。
生活の全てを親が支配していた。
着る服、読む本、見る映画、付き合う友人。
そのため付き合う友人はどんどん居なくなりました。
小学生だってワケの分からない子と付き合うのは嫌ですから当然です。

高校生になってからは半分家出のようなことを繰り返しとうとう我が家に避難してきた。
私はその子が自分で「おばさんのウチに住まわせてください」と言うので同居させました。

そこまではいいが、いかんせん生まれてから自分で考えたことが殆ど無い、
家事もしたことが無いので常識も知恵も何も無い。
プライドだけは高いw
これじゃあトモダチ出来ないわ。




殆どのことが年齢並みに出来ない。
そして無意識に他人の世話を要求する。
つまり他人の善意を当てにする。
「無力を装って他人を操作する人間」の典型です。
我が家ではそういうのは飯にもありつけないので(笑)
やりたきゃやれば?
と放置。

親切心を発揮した他人に声を掛けてもらいたそうにしている様子を見たら
笑いが込み上げて来ました。
(学校へ行く時間なのに、何でさっきからおなかを押さえて痛そうな顔しているんだあ?)
と放置。

とにかく本人が言わない限りこちらは対処せず。




この子は我が家へ来た翌日からちゃんと登校しました。
無意識に他人を操作、利用する癖が有るがそれは我が家では通用しないのだ、ということが
身体で分かったようです。
しかしここで言語化されていないのです。
あくまでも動物次元の分かり方。
(たとえば犬に芸を仕込むこととか、躾けするとかの類です。
  あれは言語を理解していませんね。
  身体で覚えているのです。
  人間の多くはこのレベルに有ります)




この子は無意識に無力を装って他人の同情を引いて親切を引き出す。
優しく親切な人の中には世話をしてやろうとやる気満々の人がいる。
そういう人に「世話をしてやろう」と思わせて(しかしこの「世話をしてやろう」という思いも無意識)
世話をされていたのです。
そのためには当人が無力であることが前提なので
この子は決して自立は出来ないのでした。
ダメで何も出来ない自分をアピールしさえすれば
周囲の人間の中の阿呆が助けてくれるので、こんな楽なことは無い。




こういう子(人)はマットウな思考力は無いので、動物的な感覚で生きています。
たとえば我が家のように「本人が言わない限り余計な手出しはしない」
「手助けが欲しければ言語で言え」という態度の人の中では
無力を装っても無駄ですから、無力アピールをしません。
自分のやり方(無力を装えば面倒を見てもらえる)を発揮するのは、それが通用する相手にのみ。
これは勿論頭の中で思考した結果ではなく
身体で覚えた感覚から無意識に行っていることです。




最も問題なのは、こういう子(人)はそれらを無意識で行っていることです。
無意識に発言〜行動する、というのが「動物次元」だからです。
このようなおとなしい動物次元の人間がこの世には溢れているのです。
所謂「善人」です。
もっと正確に言うと
「弱い善人」のことです。



この子が大学へ行くまでウチに置いておいてやりたかったが
ウチの主人がこの子を嫌がり、毎日「出ていってもらえ」と吼えるので
とうとう11ヶ月で出て行ってもらいました。
主人はこの子を「甘えた奴は大嫌いだ」と評していましたが
「無意識に無力を装って他人の善意を引き出し、無意識に他人を操作し利用する」
これを簡単に言うと「甘え」です。
主人の評価は正しい。

こういう子(人)は自分の甘えが通用しない場面ではやらないので
それ(他人を操作)を許す周囲の人間も悪いのです。
そこらへんのことを「星舟庵〜せいしゅうあん〜」のゆみさんが
最近悟ったようで、記事にしたのでした。


言っておきますが他人に甘えてはいけないのではない。
甘えるなら意識して甘えろよ、って話しなんです。


<無力を装って他人を操作7>(2012年8月29日)


上の記事の子が我が家に居たとき、私の友人のSさんとKさんが遊びに来ました。
この二名はアクセサリーを作っていました。
目の前でこの二名がアクセサリーを作るのを見ていたこの子は
とても欲しそうにしている。
それを察したKさんが「あげようか?」と余計なことを発言したので
(この親切心も動物次元だと分かりますね?)
私が「金、払え」とその子に言いました。
KさんとSさんは笑っていましたが反論しませんでした。

自分が欲しそうな顔をすれば周囲の親切な(阿呆な)大人が
何も言わないうちから親切心を発揮する、というのが身体に染み付いているので
それを今、ここで意識して止めてやることが極上の親切だと私は思う。
通常このタイプ(レベル)の親切を発揮すると
獣次元の人は獣の本性を表すので、その点からもぜひ、やりたい実験です。

おとなしい獣次元の人は怒り狂うことはしませんが
根にもって一生恨む、ということも予想されます。
しかし私はこの通り個人主義者なので、ひとがどのような意識で一生を過ごそうと
それはその人の自由なのでどうぞ、ご勝手に♪




この子が居ない時に不用意に親切を発揮しようとしたKさんに忠告しました。
この子は無意識に他人に甘えて親切心を引き出す。
言われても居ないのに親切をしてはいけない。
それをすることはこの子の自立を妨げるのだ、分かった?と。




「地獄への道は善意で敷き詰められている」
という言葉があります。
背景、相手の性格、能力、事情も分からずにする親切は
大変低次元な親切である。
それをするなとは言いません。
しかし我が家に一歩入ったら何人(なんぴと)たりとも、低次元な親切を発揮することは
私が許さん。
ナントカ軍司令官のようですw




この子のように無意識に他人に甘え、無力をよそおって他人からの親切をあてにするのは
やってる本人は勿論悪い(本人が原因って意味)が
それをさせる周囲の人間も同罪なのです。
同じくらい悪い(原因を作っている、という意味)。

親切には様々なレベルがある。
やれない人の代わりにやってあげるという一見優しい親切もあるが
やれない人にやれるよう指導するという厳しい親切も存在する。
どちらが良いというわけでも無い。
それは自らのタチとレベルが決める。



<無力を装って他人を操作8>(2012年8月29日)


低次元な親切を発揮する人は、親切を発揮したくてうずうずしているものです。
良いことをしたくてたまらない人。
常に何か自分が出来る良いことを探している人です。

良いことをすることは悪くないです、だって「良いこと」なんだからさw

問題はそういうレベルの人は良いことをする前にひと考えしないこと。
良いことを出来る喜びで心が一杯になっていますから
考えないのです。
「これをすることは果たして良いことだろうか?」と。

その時私のようなのが居て
「考えてから良いことをしろ」
「それは良いことでは無い」
などと言えば大抵の場合は感情的になって離れて行きますから
私としてはこの程度の人と付き合っている時間が惜しいので大歓迎します。




<無力を装って他人を操作9>(2012年8月29日)


無力を装って他人を操作する人には
子供〜若い人〜中年おばさん〜婆さん
までいます。
大抵女性です。

男性にはこういうのは見たことが無いのですが、どこかに居るかもしれません。

いや、男性には居ないのではないか。
なぜなら男性は「○○が出来な〜い」と甘えたら最後男性にはバカにされる。
それは男としては死ぬよりも嫌な恥ずべきことです。
だから口が裂けても「自分は無力」をアピールしたくない。
(しかし、意識してそれをやる男性が居るかもしれない。
  これ、意識して相手を操作しているんですけどね)

男性が甘える場合は家族に甘えたりねw
ワケの分からない我がまま放題を言ってみたり。
そして女房に殴られてみたりw
でも無力をアピールはしないので、女性がやる「無力を装って」というのとは違う。




やはり、自分を無力だとアピールして他人の同情を買い
親切心を引き出して、本来自分がやるべきことを他人にさせる女は居ます。
おとなしいタイプですがトンデモ無い性悪です。
しかも無意識でやっているのだからとてつもなく低次元で自己中心、我よしです。

こういう女には容赦無い私ですw
あなたもそうでしょう?
こんなクソ女にあなた、同情しますか?




ま。
中には同情して一生懸命尽くしてあげている阿呆な方もいらっしゃるかと思います。
どうぞ心ゆくまで尽くしてあげてくださいな。



<無力を装って他人を操作10>(2012年8月29日)


今から数年前のこと。
友人のAさんの娘さんが通っている大学でのこと。
娘さんの同級生(♀)が嫌いな男子学生につきまとわれて困っていたんですと。
娘さんは別の友人とともに、つきまとっている男子学生の所へ行き
もうあの女子にはつきまとうな、と説教したそうです。
で、つきまとわれていた女子にも、嫌なら自分でハッキリ拒絶しろと説教したそうです。
と、いう話を私にしてくれました。
Aさん、自分の娘に正義感が有ることが自慢そうでしたが
私はこの話を聞いて大いに呆れ、暗澹としました。
分かる人には分かるので、理由は書きません。
勿論Aさんには言いましたよ
「そんなことをしてはいけない」と。



Aさんがその件について頭で理解するのに半年、心から納得するには数年かかったようです。
そのくらい悟るということは時間を要するものなのです。



<愚痴言って人生急降下1>(2012年8月23日)


愚痴を言うのは良いと思う。
そりゃ人間だもの、愚痴のひとつや二つ、出ますよ。
でも、会話の中身の90%が愚痴だ、というのは如何なものか。
他に言うこと、無いのか?

まぁ、無いから愚痴を言ってるんですけどねっ。
話題が愚痴しか無い人、多いです。
語っていると必ず、いつの間にか愚痴になっている人。
会話の中身が90%以上、愚痴の人。
他には何も言えない人。
思いつかない。
語れない。
内容が無い、人。
貴方の周囲に必ず一人は居るはずです。
まさか、あなたが・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・?




主人の母も老人(80代)なので会話の中身は殆ど愚痴です。
不要なことばかり発言し、必要なことは言えない。
必要なことを言いたいのに言い出せなくて悶々として不必要な苦しみを味わい
それも2週間以上かな?
必要なことを言えばたった一行の言葉で済むのにそれが言えなくて
半月以上も苦しみ悩み・・・それじゃあ、健康な人でも病気になりますって。
病気にならないほうが不思議です。



主人の母が健康診断で異常が出て、最初の医者が信じられなくて医者を変えて
今度は病院を紹介されて、その結果が出るまで心配で心配で我が家に泊まりに来ました。
いつも世話になっているしこんな時でもないと恩返し出来ないので
歓迎しました。
で、その二週間ほどの間、「病院の検査他に、付き合って欲しい」という
たったこれだけのことを言い出せなくて悶々とし、
それを遠く離れた娘に電話をして愚痴を言っていたそうです。
我が家に泊まっていたが昼間は自宅に帰っていたのですが
その時に電話していたらしい。




はあああああああああああああああ?

とは思いましたよ。
主人の妹から電話が掛かって来て
主人の母が病院に付き添いで来て欲しいと言っている、と言うんです。
そんなことは本人が言えば良い。
何故他人が言う?
はああああああああああああああああああああああああああ?

この件については主人の母に「言いたいことがあったら直接、言うように」と厳しく言っておいた。




それでですね。
「言いたいことがあったら直接ハッキリと言いなさい」という、この言葉が
今度は愚痴の対象となったようです。

つまり自分は必要なことを他人にハッキリ言わず、第三者に愚痴を言うことを
止めない、それを悪いと思ってないのです。
たしかに悪くはない。
しかし意味が無い。
という、この論法も愚痴の原因になります。
つまり、主人の母のような愚痴9割の人間は
自分が愚痴を言うことを決して改めないで、そんな自分を認めろ、と
ワケの分からない我がままと自己中を発揮していて、しかもそれについては無自覚なのです。
あなたの周囲にも居ますね?




しかし、まあ、老人だし多少妙なことをくちばしっても仕方ないかあ・・・と思っていたら
今度はまた主人の妹から、義母の入院に関わることや
普段子供達(主人の三兄弟)が義母に対して何もしていない、ということを電話で言うのですが
我が家は我が家なりにやっているので、それを何もしていないオマエのようなものが
何故口を挟むかと。


でも、主人にこれを言ったら逆上するので内密にしてはおいたのですが
主人の母があまりにもワケが分からず泣いて我を通そうとし
ズレまくった発言をするので、とうとう私も腹を立てました。
そして主人の妹が我が家に対し、見当外れの発言を繰り返すことは
不遜であり、私としてもこれ以上あのような発言が続くようでは
こちらにも考えが有る、いったい何の権限が有ってあのような世迷言をヌカすか
あの無礼者、馬鹿女jめ!と主人の母に宣言しました。
「次回、似たようなことがちょっとでも有れば私は腹を括り
前面戦争止む無し、とことん戦います」と宣言。

主人の母はおとなしく平和主義者なので、戦争の真っ只中に自分が居るってのは
想像するだに恐ろしく、それをなんとかして回避せんと私に謝罪するも、
私は「お義母さん、私は謝って欲しくなんか無いんですよ。お義母さんが悪いんじゃないから」と
あくまでも大義名分、筋を通さんと欲す。
義母困りて主人に謝罪するも主人酔っ払って早々と寝床に伏しおり
義母の発言を聞くも朦朧として意味を理解せず。
嫁の般若顔を見し姑、心臓止まらんと欲すも辛うじて生きながらえて有りなむ。
嫁の形相断じて忘れ難し、夢にも出るらん。
残り少なき寿命のさらに縮まりて残りいくばくも有らむなり。


<愚痴言って人生急降下2>(2012年8月23日)


と、まあ、こういうワケでw
義妹からはその後電話は来なくなりました。

で、ようやく分かったのですが、義妹が我が家と主人の弟の家にも
同じ内容の電話(三人の兄弟が母に対して何もしていない)を掛けていた。
弟の家では温厚な弟が珍しく激昂し「そんなに言うならてめえがやれっ!!!」と怒鳴ったそうです。
(弟の奥さん談)

で、義妹がこうして電話を掛けて来たのは
義母が娘に愚痴を言ったからだ・・・と分かったのです。
大体我が家に半月も滞在していたのに
わざわざ無関係な娘に長電話をしては愚痴を言うというその態度は
愚痴を言わない私には理解し難い。

義母→我が家

で済むものを

義母→娘→我が家

となるから事態が拗れるのです。

何故?
何故そのようなまわりくどい全く必要のない行動をする?

と、書いたが、これは女には普通に見られる行動ですね。
女の何割がこのようなまわりくどい阿呆な行動をするのかは知らないが
或る程度の割合でこのような女は実在するのです。




義母は手術以前は我が家に土日は来て夕飯を食べていました。
普段の時も好きな時に我が家に来て好きなだけ泊まっていました。
行動は自由で昼間は自宅に帰って新聞や郵便物などの処理をしたりしていた。
それは分かるが、まさかその時間に不必要な愚痴電話を長々と掛けていたとは・・・
いったい、何故?何のために?
これによって何か解決しますか?
と、頭人間の私は思うのです。



で、手術〜入院〜退院〜我が家に来ていましたが
滞在5日目にいきなり「姉の家に行く」と言ってタクシーを呼んで行きました。
多分ケイタイで姉と電話をして愚痴を言っていたら姉がおいで、と言うので姉の家に行ったのでしょう。
それっきりです。

その後我が家では私と娘が旅行に出かけたので
義母は姉の家に居るんだか自宅に帰ったんだか、私は知らない。
で、その後以前のように土日に「夕飯食べにおいでよ」という電話をしても
「まだ普通のものが食べられないから」という理由で来ません。
手術をしてかなり経過しているのでもう普通のものを食べても大丈夫だと思うが
他人の話は受け入れない善人の義母なので、
自分の思う通りに生きるのが良いのだと思う。
(もし我が家の言うことを聴いていれば手術はしない)

で、今では義母は我が家に来ることもなくなったのです。
主人は清々しています。
主人が幸せなら私はそれでOKです。



<愚痴言って人生急降下3>(2012年8月23日)


前より孤独になった義母ですが、本人が行動していることなので我が家は自由にしてもらっています。
もし我が家に来たいのならそうすればいいし、
来たく無いのならそうすればいい。
全ては自己責任です。
好きにするのが一番良い。

主人が、もう半月も前に言ったのですが
「おふくろが○○を頼んだと、勝手にしろ」と言ってました。
この○○って、介護とか在宅のことだと思うが名称を忘れた。




多くの人は自分が人生の主人公であることを意識していません。
誰か自分では無いモノによって幸福になったり不幸になったりしているとでも
思っているかのような、反応をして生きています。

○○さんが〜〜してくれないから、とか
○○さんが××したから、こうなった、とか
では本人は何をしているんでしょうね?
常に第三者の誰かの好意、行為、気紛れに期待をする。
まさかそのことが「甘え」であるとは夢にも思わない。

簡単なことを愚痴を言って第三者を巻き込んで
事態を複雑怪奇にする。
当人の頭はとっても単純なのです。

単純な頭の人は事態を複雑にし
複雑な頭の人は事態を単純にする。

単純な頭という意味は、殆ど考えと呼べるような考えを持つことが出来ない
動物次元の人の脳、という意味です。



もっと自分の心に素直に、物事に正直に、素直に対処していれば
拗れることは無い。
単純な頭で自分は悪くないと思っている人が愚痴を言い、
言えば言うほど自分の人生を悪化させている。
これに気付いたほうがいい。
いや、気付かないだろうから、他人から諭されたらその場で分かればいい。
いや、分からないだろうから、分からないなりに素直に聞けばいい、と思うのです。




と、いうわけで義母は以前より寂しくなったと思うが
それは全て自分が招いたことです。
愚痴を言えば言うほど解決とは反対の方向に事態が進みます。

そしてこういうことは義母だけに限らない。
沢山の人がこのようなことになっているのです。



<愚痴言って人生急降下4>(2012年8月23日)


しかし。
義母はもう老人ですから、若い人のような思考は無理だと思う。
だから大目に見ているのです。
「婆さんだからしょうがないやあ」
と。

問題は義妹。
自分の母親が愚にもつかない愚痴を言ったら
「仕方ないから兄夫婦に世話になっていろ。
 私が口を出せばコトが拗れる。
  我がまま言うのはいい加減にしろ」と言うのが賢いのですが
義妹は賢くないのでした。
だから世間ならこう考えるだろうと言う、空想物語を捏造し
(だって、世間ですよ。
 世間って無数にいますよね?
 日本の一億人以上の世間様の一人一人にアンケート調査、したんですかね。
  するわけないのだから、そういうのは妄想だと言ってるわけです)




もし、義妹が賢ければ自分がここで差し出がましいくちを聞けば
コトが拗れるのが分かるのです。
しかし実際は賢くないので自分の母親が愚にもつかない愚痴を言えば
「いいよ、私が(お母ちゃんの代わりに)言ってあげる」と
阿呆な正義感を出して、得意満面で(だって、自分の意識では自分は世の大方の人の意見と等しい。
だからそうでは無い、兄嫁二名はおかしい。だから自分はここで二名に
上から目線でいくらでも命令できる)阿呆な電話を得意満面でかける。

ところが意に反して兄嫁は義妹の意見に対して
「へえ」
と言うだけなのでした。
へえ、だけならいいが、一人の兄は怒り狂い「そんなに言うならてめえがやりやがれっ」と
罵声を浴びせたのでした。


あ〜〜〜あ。

この義妹、50歳過ぎているんだから、知恵をつけろや、と言いたいですね。
しかし本人は自分が考える「世の常識」(これは自分が常識だと受け入れたものだけが、常識)
を盾にして、そうでは無い人を教化しようと、十字軍の如き情熱を持って

コトに当たっては砕けて散っているのでした(爆笑)



義妹が50の坂を越えられないってのはお分かりだと思います。
50の坂を越えられる人の方が例外なので、当然の結果ですかね。
知恵が有れば、愚痴を言う老人を言うことを真に受けて
「だったらアタシが意ってやる」などとはならないのです。
それをしたが最後、コトは拗れて収拾がつかなくなるし
以前より事態は悪化する・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と、ここまで分からなくてはならないと思う。
50歳になったら。



と、いうワケで。
以前より一段階下のジゴクに堕ちた感の有る義母ですが
ここで何事かを悟らないとさらなるジゴクが展開します。
私は義母に分かるかなあ・・・・と思いつつ心や魂や意識の話しをしますが
音声として聴いてはいるが意味を取ってない。
会話の内容は何でもいいから会話したい、というのが義母の本心なのでしょう。
手のつけようが無い。

私はそれでも幾つかの条件を義母が必死で死ぬ気でクリアするなら同居OKなんですが
主人が嫌になってしまったので、ダミだこりゃ。
主人の反対を押し切って義母と同居する理由も意味も無いので
この件は放置しています。

私は私が最も快適だと思うことをやっているだけです。
悪意も善意も有りません。
もともと善でも悪でも無いので。




<情報開示をしないという傲慢>(2012年8月21日)


Aさんから。

800の記事、受け取るか受け取らないかの選択、を
読みました。
 
少し前のニュースで
福島県がネット線量調査のシステムを
「住民への心理的影響」を理由に公開しなかった、
というのがあり、
http://mainichi.jp/select/news/20120720k0000m040171000c2.html
http://mainichi.jp/select/news/20120720k0000m040160000c.html
これを読んだとき、なんと県民を馬鹿にしているんだろうと思いました。
県民を下に見て、受け入れられるわけがない、と決め付けている。
騒ぎになったときに責任をとりたくないという保身もあるのでしょうが。
まず情報を公開して、あとはそれぞれに任せるのが筋だと思います。
そう考えていたので
69さんの記事を読んで
なるほどと思いました。

でしょ?でしょ?
「相手のために情報を開示しない」ということがいかに傲慢か
分かる人が出て来てくれて嬉しいです。

私が福島県民なら「ってことは私達はその事実を受け取れないということですか?」
「それって県民をバカにしていませんか?」
「それってあまりにも傲慢では有りませんか?」
「この質問については○月○日までに回答してください」
と詰め寄りますがね。




<ああ、クビにしたい!>(2012年8月20日)


Kさんから仕事の件で相談を受けました。

こんにちは。
今、一緒に仕事をしている人の人間性が最低だと
わかった場合、しかし、その人と一緒に仕事を
続けないといけない場合は、どういう対策が
いいと思いますか。

その人の弟は、お坊さんで、見える人らしく被災地などに
行って、お経をあげて霊を天にあげているらしいです。
その弟やそのお仲間のためにお弁当を届けたり
お世話をしています。

で、その人は最近、私が感じるのですが、自分は特別なことをしている
特別な人だと自分のことを思っているらしいです。
でも、仕事の仕方が荒く、仕事相手のことをまったく考えません。
自分の仕事を反省せず、相手を批判ばかりしています。
家も汚いし、そんな人は、最低だと思います。

しかし、場当たり的な直観力は鋭く、もっともな立派なことを言うので、
私は彼女を信じていました。遠い親戚でもありますし。
でも、一緒に仕事をしてみてわかりました。
小さい仕事はしたくないのです。特に人が見ていないところでの地味な仕事は。
今、すごく一緒にいるのがつらいです。波長があわないです。
気を使うし、こんなこともやっていないのかとか、仕事をぼこぼこ忘れているし
イライラして、ものすごく疲れます。
相手のために相手の仕事の地味な仕事を代わりにやってあげて、
自滅を待つのがよいのかな。
やる気がないなら、辞めると言ってくれればいいのですが、
なぜかだらだらと今の仕事をやっています。
親戚の手前、簡単に切ることもできないし、うちの主人のお店のお客様でも
あるし、どうしたらいいのかと思います。


自分はどうしたいですか?

気を使わず、自分のやりたいように
仕事がしたいので、別々に仕事が
したいです。一緒にやりたくないです。

今、私が代表で彼女が事務局です。

私は、つとめていた時代は、
秘書や総務、ネット通販の仕事を
子育てをしながら、ずっとやってきました。
短時間に効率よく多くの仕事をこなす、
販売や連絡のタイミングをはずさない。
お客様を大切にするが、私のベースです。

彼女は、自分の都合に相手を合わせさせる。何もんよ!
だらだら仕事をする。頼んだ仕事は忘れて放置。
指摘されると逆切れ。今まで彼女が一緒に仕事をしてきた人とは
最終的にケンカしています。
私にしてみたら、信じられない仕事の仕方です。

正直、クビにしたいです。


だったら勇気を振り絞ってクビにしようw

そうですね。
今年度いっぱいでクビにします。
そう思うと、仕事にやる気がでてきました。
ありがとうございました。


自分で解決しないで、愚痴を言って誰かに賛同してもらって気を晴らす生き方と
自分で責任を負い、他人からどんな風に思われようと自分で決断する生き方。
どちらを選ぶも自由。

今年度といわず、今月一杯でクビにすればいいと思う。


自分で決断する生き方を選びます。

ただ、自治体からもらっている委託事業の関係があって
それが終わらないとクビにできないので、
終わるのが11月30日付ですかね。

そうすると今年度で彼女ともう一人どうしようもない
男がいるので、2人をクビにします。

ああ、すっきりする!!
その結果を自分で負うことに
なります。それが、怖くて踏み出せなかったのだと思います。
ありがとうございます。


おお、具体的でいいです。
計画にしましょう。
その調子。

人間、どんな良い人、優しい人、親切な人でも
他人から非難されない・・・・ってのは
不可能なんですよ。

人には意識の違いがある。
レベルが違う、タイプが違う
感覚、感受性、価値観が違う。
だから、他人とトラブルことを怖れていてはいけない。
だって、それは不可能だから。
どんなに一生懸命やっても、その一生懸命が「気に入らない」というのは
普通にあるんです。

だから、怖れていては何も出来ないんです。


はい。
最大の課題は、あとがまです。
あとをやってくれる人をさがさないとね。
それから、仕事の簡素化、効率化ですかね。
ありがとうございました。
こうやって、メールを出せるところが
あるのはありがたいです。
感謝。




11時27分〜13時39分、一時間ちょっとの間に一件落着しました。
スピード解決して良かったw
人間、生きていれば職場に気が合わないくらいならいいが
仕事の邪魔をする奴は必ずいて、それは問題です。
部下は上司をクビに出来ないが
上司の立場だったら英断を下しましょう。

多くの人は何かを恐れています。
一番恐ろしいのは「自分が他人から攻撃されること」「自分が他人から認められないこと」ですかね。
「自分が他人から好かれないこと」というのも有るかな。

でも、仕事ですから。
自分のことは二の次にしなくてはならないのでは?
自分が好かれたいために仕事を犠牲にしますか?
実際はそういう人が多いと思うが、それはサムライのやり方では無い。

ここで考える必要が有ります。
自分を公のことより先にする=百姓、町人の生き方
自分より公のことを先にする=武士の生き方
Kさんは女性ですが、だったら「武家の妻」ならどういう生き方をするのか、
常々その覚悟のほどを意識したほうが良い。




勿論民百姓、町人の生き方を選んでも良い。
それは性格的なものだし、立場上のことでもある。

肝心なのは「自分はどの生き方を選んだら、より快感があるか」です。
どちらかの生き方しか無いのです。
悪いのはどっちつかずの生き方。
自分はどうするのが気持ち良いのか、分からない生き方です。
だから病気になるのです。

どちらを選ぶのも簡単では無い。
良い面と悪い面が有る。
それを考慮した上で自分で覚悟の上で決意するのが良い。
決意できずに愚痴を言うだけの人生が最悪ですが
こういう人が8割は占めているのではないか。

こう言ってはナンですが、このレベルであれば「命令されたこと」をやる仕事は出来るが
「自分で企画する仕事」は出来ない。
仕事に関して不平不満が多いが、そこらへんを考えたことも無くて
不平不満を言っているようでは・・・・




パートでも正社員でもヒドい職場に居る人は居ます。
そういう人にも必ず活路は有ると思う。
ただ、これは何をするにも必要なことですが
自分の判断力を上げること、これしかないのです。
これなくして自分は決して向上せず悪いのは全て周りの人間だ、と言っているのは
あなたの今の苦境は自分が招いています、としか言いようが無い。


実際は自分が周囲の人よりの判断力が勝っていても
周囲がそれを理解しないことが普通です。
その場合はそこで出来る限りのことをやりつつ、
転職を視野に入れても良いと思います。
この場合は自分のことを客観視できず悪いのは全て周囲の人間である、と誤解すれば
転職先でも同様か、それ以下の待遇となり、思い知らされるのでご注意。



これは結婚でも同じです。
最初の結婚が失敗したときに悪いのは全て相手、と誤解すれば
再婚相手は最初のより数段劣る人間のようです。