hinoatarubasyo     人間のいろいろを書いていきます。記事は上に追加されます



<若い人は傲慢/おばさんの傲慢2>(2012年8月21日)


下の記事<若い人は傲慢/おばさんの傲慢1>、言葉足らずでした。

若い人は無意識に善意で傲慢なのです。
それは世の中を知らないから。

でも成長するに従って、よほどの阿呆でなければ
(ああ、私は若い頃傲慢だった)と分かるものなのです。
かくいう私も分かりました。
ていうか、しょっちゅう
(ああ、私は何てバカだったんだ!)
(ああ、私は何て今のバカなんだ!)と分かります。
ただ、反省心が乏しいので、その際に
罪悪感に苛(さいな)まれることが無いだけです(←おいおい!反省しろっ!)




普通に成長すれば自分が若い頃、モノを知らないために無意識で傲慢だったことが
中年になってから「分かる」のですが
中には年を取っても知恵が憑かないために
自分の傲慢を分かる(気付く)ことが出来ない人がいます。
それが「傲慢なおばさん」です。




若い人達がこういうおばさんを見ては腹を立てているのですが
そういう人は若い頃から傲慢で(これは通常、誰でもそうなのです)
それに気付けなかった、分からなかった、阿呆なのでした。




<若い人は傲慢/おばさんの傲慢1>(2012年8月19日)


以前にも記事にしましたが「若い人は無知で経験不足ゆえに無意識に傲慢に陥っている」という話し。
無意識だから気付くことが大変難しい。
そういう話を自分の子どもくらいの年齢の若い人としました。
青い文字が若い人の発言です。




「ぜんっぜん傲慢に見えないのに、本当はすげえ傲慢!」って、こういうことなんだ…と。

見るからに傲慢な人より、自分ではそう思ってない傲慢な人のほうがタチが悪い。
過去にも記事にしたと思うが、若い人は傲慢なんだ。
それは経験が無くて無知だから。
たとえば見かけ上は簡単で「そんなの簡単だろ、これをこうすればいいじゃん!」と簡単に言うが
では「やってみろ」と言われてやってみると、全然簡単では無い。
見かけの上ではこれをこうすればいいだけだが、コレをこうするためには
その前に「ざっと数段階の作業と数十の要因を組み合わせて段取りをつけて・・・」とやらないとならないのに
若くて経験が無く無知なのでそれ(準備に数段階×数十の要因組み合わせ)を知らない、とかね。
全然簡単では無いのに、阿呆なので「こんなの簡単だ」と言い放つ。
そこまでならまだいい。

…それ、めちゃくちゃ心当たりがあります。orz

傲慢な奴は「こんな簡単なことも出来ないのか」と(簡単じゃねえのにw)
他人をバカにする・・とかね。
(どこまでバカだ!)
笑えるだろ?

わ、笑えぬ…心当たりがあります。思いっきりそれをやったことがあります。orz
てか私って、本来なら、
「○○さんは〜〜」とか言う立場じゃないんですよね…ってことに思い至りました。
反省しよう。


だから若い人は謙虚の上にも謙虚になってちょうどいい、くらいなんだよ。
50歳過ぎたおばさんの評判が悪いが、ああいうのは若い頃から傲慢だっただけで
年齢とともに社会的にそういう立場に押しやられてしまっただけだから
原因は年齢だけでは無いんだよ。
個人の資質によるものなんだ。
50過ぎた謙虚なおばさんだって沢山いるよ。
それは若い人にも謙虚なのが居るのと同様だ。
  
幸いなことに、自分の周囲にはおばさんで最悪な仕事仲間、上司、友人等がおらず、
おばさんにはいつも恵まれているのですが、
「友人の親」だとか、「お客おば」とか、「店員おば」に「?」な人を見ることはあり、
一緒に過ごしたり、働いたりする人は大変だろうな…と思います。


本当にねえ。
若い頃から傲慢で、成長の過程でそれに気付かなかった人達だね。
50代のおばがとても評判が悪いが60代や70代のおば〜婆さんも同様だ。
でも職場に居ないだけなんだよ。
若ければモノが分かるかといえばそうでもない。
しかし年齢を重ねるうちにどんどん無意識に「自分はコレで大丈夫」という
根拠の無い自信が積み重なるのも事実だ。



<扉(とびら)1>(2012年8月18日)


800の姉妹サイトであるPから或るサイトへリンクしていた期間は1年ほどですかね。
長くても1年半だったかな、よく覚えていません。
で、最近そのサイトの真の情報を提供してくれる人が現れました。
実はその情報が来る前から他の人からも情報を得ていたので
その管理人さんの思考力が乏しいことは分かっていたのです。
が、思考力が有る管理人さんとしか付き合わない、ということもなく
世の中には様々な人が居て当然なので、それでよし、としておいたのです。
しかしそんな甘いものではない、そういう状況では無いなと
分かってきたので残念なことではありますがそこへのリンクを切ることにしました。




人が何をしようと自由なので私は一向に構わないのですが
これ以上関わることは益無しと判断した結果です。
そのサイトにはこれからも益々発展して欲しいと願っています。




で、リンクを解除する理由ですが書けませんw
下の方の記事で「受け取る側の人のためを思って情報を公開しない」と書いた
管理人さんの意識を批判しました。
情報は受け取る側に「受け取るか受け取らないか」選択させよ、と書いた。
これは今でも変っていません。
今回の件を公開しないのは受け取る側の人のためを思ってではなく
発信者のことを思ってのことです。
発信者にとって不味いことは公開出来ません。




公開しない理由に
◇受け取る側のためを思って
◇発信する側のためを思って
のふた通りあるのです。
受け取る側のことを思う、というのは非常に優しい人です。
しかし「受け取る(受け取らない)自由」は受け取る側にある、と私は思うので
発信者がそれを勝手に決定するのは不遜、余計なお世話である、という点で私と相容れないのです。
分かりづらいかな。




たとえば・・・
コーヒーを淹れた。
お客さんの好みを無視してこちらが勝手に砂糖やミルクを入れてかき混ぜてやる、ということを
普通はしませんね。
でも、それをすることが「親切」「優しい」と思う人はいますね。

たとえば・・・
旅行をプレゼントするとか。
行き先も決めて飛行機のチケットも買ってやり、宿泊先まで決める、ということを
他人がしたら驚きますよね?
それをするなら事前に「これをしていいですか?」と相手の許可を得なくてはならない。
でも、全部やってあげることが親切だと思っている人は、相手の許可を得るということをしません。
良い人であろうとなかろうとこのようなことをする人とは
付き合うのは困難ではないでしょうか?




要するに私も「なんでもかんでも公開する」わけでは無いのです。
ただ公開に対する意識が違うのです。
相手のためを思って公開しない人と、発信側のためを思って公開しないのと
「公開しない」という点では同じですね。
でも意識が違うのだ、という話し。



<扉(とびら)2>(2012年8月18日)


さて、前置きが大変長くなりました。
「扉」の話しです。

Pからそのサイトへリンクしていたのは一年だとしましょう。
その間にそのサイトからPへ来た人が何人かいます。
もっと多くの人がPをチラっと見たかもしれませんが
Pの管理人である私とコンタクトを取ったのは数人でした。

Pは敷居が高いらしいw
別にお高いわけではなくむしろ逆なのですが
精神世界のサイトに多い、「あなたはそのままでいい」「悪くない」という主張とは
正反対の意識で運営されている。
「全ての原因はあなたにある」「あなたはそのままではいけない」という立場を貫いています。
なのでそういう厳しい言葉が嫌いな人苦手な人怖いと感じる人には耐えられない。
私はそのほうが良い。
他人のお守りは御免だ。




と、いう態度なのでざっと見て8割の人はチラ見しただけで拒否感を感じてしまう。
残りの2割の良い人の中からさらに「自分の人生の責任を自分で取る」と覚悟した人だけが
Pを読める。
だからPを読むと人生が次第に良くなっていくのです。
別にPが偉いわけではなく「自分の人生は自分の意識が作っている」「全ては自己責任である」
という生き方をすれば、どのような体験をしようとその都度他人のせいにしないで
自分が原因であると理解するので、どんなことからでも学べる。
その結果運勢が好転するだけです。



で、そのサイトからPに来て実際に私とコンタクトを取った人はたった数人w
その人達の中の一人の方も最初はPを読めなかったそうです。
読んでも意味が分からなかったらしい。
しかし或る時点から読めるようになり、今ではとても面白いそうです。
しかし、そうするとPに来る切っ掛けとなったそのサイトが読めなくなってしまった。
その人の波動が変化したからです。

以前はそのサイトがその人にはちょうど良かったのですが
だんだん合わなくなりました。



で、私は他のサイトから誰が来ようと興味が無く
全てはその本人の人生なのでご自由に、という気持ちなのです。
◇Pが嫌で読めない→あ、そう
◇Pが気に入った、面白い→あ、そう
私の人生にはあまり影響が無いと思っています。
でも、Pが楽しいなら良かったね、というだけ。



<扉(とびら)3>(2012年8月18日)


で、話しは最初に戻ります。
どうもそのサイトが最近いまいちである点と真相情報を鑑(かんが)みて
そのサイトへのリンクを解除したのでした。
リンクしていた期間は約一年間だと思う。
それはちょうどそのサイトからPへの扉が開いていた、と考えられる。
一年という長いんだか短いんだか分からない期間にそこからPへ来た人は
そのサイトからPへの扉が開いている期間に入れた、とも言える。

リンクを解除してからそのサイトを訪れる人は、Pを知ることは無い。
既に扉が閉じられてしまった。
リンクしていた期間にPを知ることが出来た人は
Pの痕跡(記憶、つまり扉が有ったという記憶)は残っている。

と、言うことが出来ます。



考えてみればこれは何も「そのサイト→P」のことだけに限りません。
或るチャネラーがいて本も出している。
その人のサイトを人から教えてもらって一度行ってみました。
で、特に興味を持つわけでもなくそのままにしていたら
そのサイトは閉じられてしまい、多分会員限定のサイトになっていたんだっけな。
そういうことは普通に有りますね。
扉が開いている間に縁を作っておかないと、いつか扉が閉じてしまう。

まぁ、そこで縁を作れるか作れないかも、波動によるのでしょうが。



<扉(とびら)4>(2012年8月18日〜19日)


そのサイトからPへリンクされていた一年の間に
そのサイトからPへ来た人がいます。
上にも書きましたが、その人は最初Pが読めず
読んでも気持ちが悪くなっていたそうです。
当時のその人はウツ病でした。

が、それから一年ほどの間にPが読めるようになったら
今度はそのサイトに対して感じていたたくさんの疑問をハッキリと意識化することが出来るようになっていた。
以前は直感で「変」と感じてもそれに注意を払うことが無かったのだと思う。
感じていたのに打ち消したり大目に見たり忘れたり気にも留めなかったり、
とにかくありとあらゆる手段で自分の直感を感じないようにしていたのです。

これはこの人だけに限らず、世の多くの人がやっていることです。




だからその人は今まで通りに自分の直感や勘を無視して生きても良かったのです。
◇自分の直感を無視して生きる
◇自分の直感を生かして生きる
どちらを選ぶのも自由です。
しかしこの人は下のほう「自分の直感を生かして生きる」を選んだのでした。

さて、もうそのサイトからPへの扉は閉じられました。
扉の残存(記憶=以前リンクされていたので、その記憶、情報)が残っている人もいれば
新たにそのサイトへ来た人のようにPの記憶が全く無い人も居ます。
人には様々なレベルで情報が開示されているのです。
面白いですね。




ネットには様々な扉が存在します。
縁が有れば(波長が合えば)入れる。
しかしいつまでも扉が開いているわけでは無い。



「扉が開いている間に入れ」



こう書いている私も波動が低いために、
その扉の向こうのサイトの波動に達しないために
間に合わなかったことも沢山有ると思うのです。
ひとのことは言えないという話w
そして当然のことながらPからそのサイトへの扉も閉じられた、ということです。
別に罰とかではなくて波長の違による結果ですが。


<魂の筋トレ>(2012年8月13日)


「五十の坂」と関係有りそうな話題。
「nicismic life」より。




トランスサタニアンと共に生きる

最近、私があまり「中年の危機」の話ばかりするから、
まだ年若い生徒さんらが「年取るのがむちゃくちゃ怖いんですけど」とか言い始めた。
他でも「中年の危機」を話題にしているのを聞いた。
引き続き、研究は続けていくけれど、そろそろおおっぴらに言うのはやめよう。
脅しているわけじゃないんだけどね。
中年の危機は、人間臭い、非常に人間臭いテーマなんだけどね。

そんなこんなで、ここ数日、考えさせられることがたくさんあった。
多くの人から、様々な意見を聞かせてもらう機会にも恵まれた。
特に、きのうのYさんとの会話。
それから、私はすっかり「考える人」モードになっている。
私に強い影響を与えるのは、いつも年上の人だ。
彼らは、「経験の目」からスバリと核心をついてくれる。
25歳の私に「まだ自分の言葉で話していない」と伝えてくれた年上の友人。
先日の「被害者になるな」と言ってくれた恩師もそう。
だから私は、年をとることに抵抗がない。
成熟とは、老いではなく可能性なのだと教えてくれた人たちが、私の前にたくさん存在しているからだ。



可能性をつかむか、それに蓋をするかの瀬戸際に立たされる。
それが中年の危機だ。

人生を通して、私はたくさんの中年の危機を目の当たりにしてきた。
もちろん私だって、トランスサタニアンに揺さぶられ続けている。
今、それを言葉にしようとしても、どうしてもうまくいかない。
少しも本質に触れられない。

トラブルに巻き込まれて、会社を辞めざるを得なかった。
夫が浮気をし、精神的に不安定になった。
倒産して、家族とも離婚した。
何もかもがどうでもよくなり、人生を投げ出したくなった。
妻がうつになり、人生がままならなくなった。
人が持っているものを自分は持っていないことに気づき、途方に暮れた。
子育てに疲れた。

本当に挙げればきりがないほど、数多くの「中年の危機」がここにある。
けれど、それは単に目に見える現象でしかない。
中年の危機というのは、実際、こころに働くものだ。
なぜならトランスサタニアンとは、こころの奥深くに直接コンタクトするエネルギーなのだ。
だから、言葉にするのは非常に難しい。
忙しくしていると、忘れてしまうほどの微かな変化。
けれど、いつもそこにある不安。
埋めることのできない、こころの空洞化。
誰かに聴いてもらおうとしても、どうしても核心にたどり着けない。
それが結果、人を孤独に向かわせ、そしてここで初めて、自分のこころとコンタクトすることになる。



私に多大な影響を与えた人たちは、この時期に何らかの苦しみに遭遇している。
それが、彼らの人間性に美しさを与えているのは言うまでもない。

本望ではない人生を生きつつ、抵抗できないほどの渦に巻き込まれても、やはりそれは自分の人生なのだ。
外からの圧力が高まり、過去のいまわしい記憶が新たにされ、
自分の進むべき道が一時見えなくなったとしても、人生を生き続けることにこそ意味がある。
なぜなら生還した後、人は自分が思っている以上に深みを増しているからだ。

このようにトランスサタニアンは、人に深い彩りを与える。
普遍性=天王星や、一体感=海王星、こころの調整=冥王星を行い、味わいのある感性を育てていく。
そんなふうに乗り越えられたら、きっと後世に少しでも影響を与えられる「おとな」へと進んでいくことができるかもしれない。

とにかく天体云々なんて関係なく、その時の感情を味わい尽くすしかない。
それが象徴の理解につながるだろう。
2012/05/15(火)



「Viva!」→「なぜあなたは手痛い経験を背負ったのか」
ここにも参考になることが書かれています。



苦労、苦悩、苦痛は経験すれば良いというものではなくて
しなければ良いというものでも有りません。
経験したことをいかに自分の経験値にするか、それが出来るか出来ないかによって
その後の人生の質が変ってきますよ、という話し。

殆ど苦労らしい苦労をしていない人は
物事が巧く運んでいるように見えても、実はそれが本人の錯覚である場合が有ります。
モノが見えないからです。

筋肉のトレーニングはするのに、思考力のトレーニングをする人は殆どいない。
この場合の思考力とは学校の勉強のようなものでは無い。
魂のトレーニングをする人はさらに少ない。
最も大事なものは誰も見向きもしない。
多くの人が分かるのは目に見えることだけ。




<毒にも薬にもならない人1/直感を大切に>(2012年8月9日〜10日)


Pからリンクしていた「セ・・・」ですが、書かれていることは常識的で
管理人さんもマトモで、とりあえずは「良い」のですが
どうも、読むたびに(なんか普通)(なんか面白くない)のです。
知識や情報を得るには良いサイトです。
なので今まで何度もお世話になっていたのですが
いかんせん、常識の範囲内でしかない、と私は思う。

でも、まあ、良いことは書いてあるし、まぁいっか、という気で
数年(?)過ごしていたのですが、最新でこのような文言(もんごん)を発見してしまいました。




(2012年8月12日削除)



これを読んで私は(ああ、やっぱりな)と思いました。
で、今まで感じて来た隔靴掻痒(かっかそうよう)の感じの原因が分かったのです。

つまりこの管理人さんと私とでは目的と手段が違ったのです。
私はたとえどんなことでも真実を目にし、耳にし、そこから自分の責任において
考えろ、というものです。
しかしこの管理人さんは、そういうことを多くの人には勧めていない。
知らなくて良い、という考え。

私も多くの人は真実を知らなくても良いと思っている、と知っている。
だって多くの人は真実など知りたいと思ったことが無いからねw
でも真実を知りたいと願う人には開示されないのはおかしいと思っている。
で、誰が知りたいと思っていて、誰が知りたくないと思っているのか、私は「知らない」w
情報は、知りたい人にも知りたくない人にも平等に発信されています。
というか、相手を択んで発信することは出来ない。

受け取る側が知りたければ自力で努力して情報を探すだろうし
知りたくない人は、努力はしないから、情報に巡り合う頻度には大きな差が出る。

上の管理人さんは「知らせる、知らせない」を決定するのは、「真実を知っているほう」としている。
私が言うのは「知る、知らない」を決定するのは、「真実を知らないほう」としている。
主体と客体が違う。




でも私は真実真相を知りたい。
知らされてから自分で考えて結論を出したい、自分の責任で、という生き方を択んだ。
この管理人さんは自分は多分真実を知っているのだろう。
でも、多くの人には知らせる必要が無いと思っている。
再度書きますが、私も真実を知りたくない、知ろうと思わない人には知らせる必要は無いと思う。
しかし、多くの人、知らされてない人達が「それは知りたくない」と思っている、と知らせる側の人は
分かるのでしょうか?
いったい、何を知りたくて何を知りたくないのか、分かりますかね?
分からないのではないか?

微妙な違いなのでこの文章そのものが分かりづらいですよねw
真剣に考えてみてね。



まず、知っている側が持っている知識情報が有る。
私はそれを全て開示しろと思うほうです。
開示した上で、そのことを知りたいか知りたくないのか、
今まで知らされていなかった側の人達に選択させればよいと思っているのです。

上の管理人さんはその選択を、既に知識情報を知っている側の人間が行う、というものです。

私ならここで

(え?)

と、思ってしまうが皆さんはいかがですか?

(はあああああああああああ?)

と思ってしまうが皆さんはいかがですか?

いえ、皆さんに(え?)とか(はああああああああああ?)と、思えよ、とは言いません。
人間が出来ている方なら特に何も感じないかもしれません。
また、上の件のことがいまいちの見込めない人も、特に何も感じないかもしれません。
(※実はモノが分からない人と人間が出来ている人とは、表面上はこのように大変似た反応を示すのです。
   だから表面だけ、態度、言葉、表情だけでは、その人のことが分からないのです)




この管理人さんは
◆自分は知っているし知りたいが
◆他の人には知らせる必要は無い
と思っているのでしょう。

私は、今この世界で知らされていることは本当に少ないので
出来る限り、暴いて世に出し、多くの人の目に晒し、
それを見て多くの人が何も思わなければ仕方ないと思うほうです。

最初から「知らせないほうが良い」などと、良く言えたものだ、
いったい何様だ、と私は思うのです。

これが感覚と価値観、定義の違いです。




一例を挙げましたが、このように普段から「ちょっと変」「???」と思っている相手とは
考え方の相違が表面化して決定的になる。
これは私の経験から書いています。
ほんのちょっとした齟齬、違いは意外と根本的な違いから発生しているのです。
それがまだ表面化していないか、これからするのか、時間的な事情に拠っているのだ、と思っています。



直感を大切に。
直感は裏切りません。


<毒にも薬にもならない人2/「本当のこと」とは>(2012年8月10日)


上の記事に書かれている「本当のこと」について。

私達のような一般人が知ることの出来る「本当のこと」って
本当に「本当のこと」でしょうか?

群盲象を撫ず

という言葉があります。

一般人が知ることの出来る本当のことは本当のことの一部分でしかない。
だから「ここで皆に本当のことを知らせるのは危険だ」というレベルの
「本当のこと」を知るわけが無いので、個人が知っている範囲内の「本当のこと」を
知らせても、それは決して「本当のこと」では無い、と私は考える。

だったらあやふやな情報を拡散するのは良くないだろ。

と、思うかもしれないが、一般人としては自分が知っている範囲内の本当のことを
開示して、それを読んだほかの人がさらに突っ込んで調べるか、間違っていたら訂正するか、
さらに上のレベルの情報を出すか、という風に協力しあうことが出来る。

個人が「本当のこと」を秘密にしていたら、それは果たして本当のことなのかすら疑わしい。
個人で考えるには限界が有る。
多くの目に晒すことによって、その情報が本当のことなのか、違うのかが分かってくるという効用もある。




かなり理屈ですがねw
でもそうだと思いますよ。



或る個人がこれは「本当のこと」だ、と情報を抱えて生きていたとしたら
それが本当のことかどうか分からない、という話しね。



<毒にも薬にもならない人3/「知る」ということ>(2012年8月10日)


さて、上の上の記事で「知る、知らないは知らされてないほうの選択に任せる」みたいなことを書いた。

だけど、知らされた時点でそれって既に「知った」ことになるじゃん?
知らされちゃったほうは知りたくないのに、知ってしまうんだよ。
どうしてくれる?

と思うかもしれない。
でも、そうでしょうか?




或る情報を目にする。
その情報を目にしても、興味が無い場合、感覚的に受け入れられない場合は
撥ね付けてしまうのではないか。
一瞬、情報を目にしても心が受け付けない限りは
@知った
A拒否した
B速攻忘れた
ということになるかもしれない。

興味が無い場合のほうが忘れ易い。
感情で反発する場合は上の場合よりは忘れ難いが。



一瞬だけ「知って」も、速攻で興味を無くし忘れる、という自由が有ります。
興味を持つ持たないも個人の自由です。
また信じる信じないも自由です。

「知る」という動作にも様々なレベルが有る。
或る情報に対して
@興味が有るからもっと「本当のこと」を知りたいと思う
A興味が無いので知らなくていい
と、大きく分けるとこの二つの反応が有ります。

この反応を択ぶ自由を「知らない側」に与えよ、というのが私の意見です。
上のサイトの管理人さんは
「知らせる」時点で知っている側が「知らせるか知らせないか」を判断してしまう。
この点を私は容認出来ないのです。


<毒にも薬にもならない人4/感想>(2012年8月10日)


<毒にも薬にもならない人1>を読んだ方から感想が来ました。



800の●●さんについての記事、

私も●●さんブログ最新記事を読んで

まったく同じことを思いました。

 

自分は真相を知っても適切に情報を処理できるが

一般人はパニックになったり自分で考えられないだろうから

君たちパンピーには教えないよ。

知らないままで幸せに過ごした方が良いぜ。

 

って事ですよね。

無意識に他人を見下してる。

 

 

ブログを読むより実際に会った時の方が

違和感が大きかったですよ。

何とも言葉に出来ない変な違和感。

あのウンチが出そうで出ないようなw気持ち悪さ、

そうか!これだったんだ!

 

確か、セミナー後の懇親会で

「本当はもっと色々知っていますがたくさん話してしまうと

ブログのネタが無くなるので‥」

と、ある件について皆で話している時に突っ込んだ内容に

行く前に言い淀んで止めてしまった。

他の話題もすべてそんな感じで、●●さんなりの鋭い意見を

期待していた私は

「つまらない人だな」「‥‥普通の人じゃん」と思いました。

一般論しか言わないし、参加者をただ観察している感じ。

いま思い返せば、何か腹にあるようなんですよ。

腹にあるのに、言葉に出さずニコニコしている。

波動の高さはまったく感じなかったし(むしろ黒い)、懇親会の後半は

女信者だけ残っていてハーレムの♂のトドに見えて

モヤ〜っとした後味の悪さを噛みしめながら途中で帰ったのでした。

 

直感は嘘をつかないですわ。

 

で、たぶんすごい女好きだろうな。

これは邪推かもしれないけど、セミナー後の懇親会を深夜までやるのは

うまくいけば女信者とヨロシクしようという魂胆ではないか‥と。

(男性参加者は一人一人ポツポツ先に帰っていった。

最後に残ったのは数人の女性だけ)


<毒にも薬にもならない人5/その情報の真偽>(2012年8月10日)


情報を発信する側は(●●さんみたいに発信しなくても)

「俺が握っている情報、これだけが真相で真実だ」と思いこんじゃマズイと思う。

「間違っているかもよ?でも自分はこう考えます。こういう情報があるよ」と

考えに遊びを持たせないと、読んでてつまらないですよねぇ

肩の力抜けばいいのに。と思っちゃう。

ホント。
第一私達は皆、素人なんだからさ。
いくら本当のことを発信しても、それが本当に本当のことかなんて分かるわけが無い。
本当のことのほんの入り口かもしれない。
個人の力には限界が有るから、多くの目に晒すことによって
沢山の人の協力の下に少しづつ本当のことの核心に近づいて行くしかない。
だから●●さんのように「本当のこと」は隠しておくとか小出しにするとか
この話しを聞きたかったらセミナーに参加しろよとか(セミナー料金高そうだがw)
やはり、そこらへんはプロなのでしょう。
それを飯の種にしているのだから仕方ないと言えば仕方ないから、良い。
だったらその場合は
「済みません、これ以上は言えない。
  だってこれは私の飯の種なのでね。
  有料じゃないと教えられない」とそれこそ「本当のこと」を言えば(書けば)良いと思う。

そこらへんの考えの無さなのかズルさなのか分からないが
胡散臭さがブログにかもし出されているのかもしれない。


そして実際に会えば胡散臭さ全開のようだが(笑)
それでもそれには気付かず周囲にたむろする女が居るのだから
まっこと、人の意識とは千差万別よのぅ・・・と思うのでした。



<毒にも薬にもならない人6/教祖の妻>(2012年8月10日)


●●さんは半ば教祖と化しているのかもしれない。
周りの女達は教祖の妻の座を狙う人達。

あ、ここで
「教祖の妻」について説明しておきます。

「教祖の妻」とは・・・

自分は何もしない、していない、出来ないにも関わらず
ただ単に教祖の妻である、という理由で信者に対して
教祖と同等かそれ以上、上から目線の態度をする勘違い女のことです。




私に経験が有ります。
私の知り合いが或る宗教の信者です。
で、その人が何度も来いと言うので「では一度行ってみるか」と本部に出かけた。
出かけた理由は「この団体の正体を見たい」からです。
その宗教団体は心は優しく親切で良い。
信者と教祖を見る限り、そう見える。
でも本部も見ておきたいので試しに行ってみました。
山の中にこぎれいな建物が有り、良い環境でした。

二回目。
当時小学生だった息子も連れて行きました。
本部の庭に観音様のような像がありました。
息子はその観音様に向かって
「どうか宝くじが当たりますように」と祈ったw
するとそれを見ていた「教祖の妻」が
「あれ〜ヤだ、あんなコト言ってる」と、さも呆れたように言ったので私の逆鱗に触れた。
逆鱗に触れたのだが、教祖は良い人だし、子供の前で怒鳴るのは教育上よろしくないので黙っていたが・・・



数日後そこの信者がウチへ来たので
「先日本部に行った時、教祖の妻がコレコレこういうことを言った。
 何でああいうことを言うかな。
 教祖は偉いが(人格者です)
その女房のオマエなんか何も偉くないんだよ、と
  言ってやりゃあ良かったかな。
  あまりにもあまりな言葉だったので咄嗟に言えなかったが
  ○○さん、この言葉を教祖に伝えておくれ。
  『あんたは信者に教えを説いているようだが、真っ先にやらなくてはならないのは
   女房の教育ではないか』と。
  『立派な本部は全て信者のお布施で出来たのではないか。
   自分達で稼いだわけではあるまい。
   人様のお恵みで生きていながらなんという無礼なもの言いだ』
  ちゃんと伝えてよね!」

その信者さんはとても良い人だったので、
「はい、伝えます」と返事。
その教祖の妻については教祖も苦労しているそうだ。



おいおいおいおい、教祖!他人を導いてる場合じゃないだろ!



と、柄が悪い私は思うのです。



このように教祖の妻は何かを勘違いしている。
信者が自分の亭主を拝むので、自分まで偉くなった気になる。
利口なら決してならないが、バカなのでなります




昔或る美人女優が、自分が所属する宗教団体の教祖と結婚して世間を驚かせました。
その教祖は見るからにインチキ臭い、怪物のような人だったからです。
若い女優が何故、このような怪物と結婚して平気で居られるのか、
世間は不思議に思い「洗脳されたのではないか?」と噂したがそうでは無く、
アレは「教祖の妻」の座を勝ち取った姿だったのです。
勝ち誇った顔をしていました。

まぁ、その表情が既に普通では無いが。

教祖の妻の座を狙う女は普通に居るんですよ。
皆が尊敬し崇拝する男の妻の座、というのがそういう女には魅力なのです。

亭主が何だろうと、妻のアタシにゃ関係無い。

と、思う人は「教祖の妻」の座を狙わない。
亭主と自分とが一体、と思う女がそれを狙う。

自分以外は他人なのだ、という人と
自分を中心に夫、子供との間が無い人がいる。
夫や子供を他人と思えないレベルの人。
いや、夫は他人だが子供は自分である、という女って多いと思う。
客観視が出来ない女。
こういう人は私とは「他人」の定義が違うのです。
まぁ、いいけど。

自由にやって欲しい。



実はこのようなことは教祖、つまり宗教団体だけに限らないのです。

会社員なら部長の妻が平社員の妻に対して「上から目線」「言われの無い侮蔑の態度」を取るかもしれない。
しれないというよりは実際に有るようですよ。
社宅なんて旦那の役職で妻にも上下関係が出来ているとかw
実にバカバカしい。

或いは宗教と似ているのは医療関係。
宗教の信者は心を病んでいる。
病院医院の患者は身体を病んでいる。
(身体の病は心が原因ですから、どちらも似たようなものです)
患者は藁をも縋りたいので皆、「先生、先生」と頼る。
その先生が性格が良かったりすると「先生、先生」と慕われる。
良いことです。
でも、その妻は?
ご主人を助けて医療事務などをしていれば、奥さんも苦労をしているので
「教祖の妻」では無い。
しかし、自分は何もしていないのにも関わらず、亭主が皆からまるで教祖のように
慕われているうちに錯覚を起こし、実質的な教祖の妻になってしまう場合があるのではないか。


こういう人が居ても普通患者側からは、先生の奥さんが「教祖の妻」状態であることは
分かりませんからそれでもいいのですけどね。

本物の教祖の妻は、常に信者の前に出て亭主以上に権力を振るうから分かり易いが
病院関係の場合。
医師などの奥さんで仕事をしていない人は
普通、患者さんの前に出ることは無いから分かりづらい。

病院関係であっても賢い奥さんは教祖の妻になることは無い。
賢い人は自分やその他を客観視できるので。
でも賢くない場合は「教祖の妻」になり、患者の前に出て
亭主同様自分もちやほやされたい、されて当然だ、と意識的無意識的に思うのかもしれない。
(ここらへんは会社関係の場合と同様です。
  バカはどこでもバカをやり、利口な人は決してやらない)




で、これは当然のことなのですが
「そういうバカ女房と暮らしている”教祖”のほうも同じ程度(レベル)である」
これはそうでしょう。
ちょっと考えてみりゃ分かるw


もし、間違ってそういうバカ女と結婚してしまった場合。
簡単に別れるわけにはいきませんから、
(※だから私が知っているその宗教団体の教祖は
  奥さんに苦労をし、奥さんが足を引っ張っても、それが自分に課せられたカルマのように思い(大笑い)
  信者に向かって教えを垂れているのです。
  奥さんと離婚せずに)

そういう女房にはなるべく外部との接触を断たせる方向に持って行くのが良い。
別に家に監禁するわけではありませんよ。
おとなしく家庭に居て普通の生活をしてもらう、という意味です。
間違っても表に出して「教祖の妻」風を吹かせるようなことは、利口な男ならしない。

上の、私が訪問した宗教団体の教祖も、わからずやの奥さんに苦労している、そうだが
だったら女房を表に出すな、台所に閉じ込めておけよ、と言いたかったのです。
この教祖、まさかとは思うが「こんな奥さんでも別れない、人格者な先生」と
皆(信者)から思われたかったのかな?
まさか・・・

また、信者は尊敬する先生の奥さんってことでついでに尊重するかもしれないが
信者では無い人から見たら、この教祖だって良くて「ただの人」悪くすれば「変な人」です。
そういう客観視も、教祖並びにその妻は行ったほうが本人のためだと思う。



<毒にも薬にもならない人7/当人にとっては天国>(2012年8月10日)


長々と「教祖の妻」について書いてしまいました。

上のサイトの管理人さんはそこらへんを知っているのか知らないのか
理由や構造は分からないかもしれないが本能的に女が自分に寄って来ることは分かり(笑)
楽しい日々を過ごしているのかもしれませんね。

人は誰もが合法の範囲内で「自分が楽しいと思うこと」をすれば良い。
そこが天国です。
もし、そこが天国でなければ
◇感覚
◇価値観
◇定義
◇思考力判断力
が合わないのだから、そこから去れば良いのです。



そこ(その人の天国)に居る人に対して
「そこはジゴクですから出たほうが良いですよ」と言っても
本人にとってはそここそが天国なのですから、そのようなことを言った人に対しては
感情的になるだけでしょう。

他人の天国は放っておけ

放置するしか無いのです。
自分が離れるしか無い、ということです。




さて、「毒にも薬にもならない人」の感想から「教祖の妻」へと話が発展してしまいました。
この感想からはさらに様々なことが語れますが、一旦ここで終了したいと思います。




<忠告する資格>(2012年8月9日)


他人に忠告しても99%理解されない。
そしてその殆どの場合、相手は感情的になってしまう。
その反応を想定出来るなら忠告する資格は有る。
想定出来ない上に、その反応を見て自分も感情を害すようなら
忠告する資格がそもそも、無い。




また、自分も他人から忠告されることが有る。
その場合、それを聞いて気分を害すようなら
自分は他人に忠告する資格は無い。

しかし忠告する相手がわからずやであった場合。
その時は(ああ、分からないんだな)と、自分が「分かる」必要が有る。




<本当は謙虚では無い人>(2012年8月1日)


同じ言葉でも使う人によって意味が違う。
言葉の定義は人によって全然違うのです。
だから同じ言葉を使っていても、その中身は違う、と思っていたほうが良い。

下の下の記事<見えない1〜3>に出て来る霊能者は、態度はとても謙虚なのです。
多分この人を見れば10人中10人が「謙虚な人だ」と思う。
態度が謙虚=謙虚
と思う人が殆どだからです。

でも、私は態度が謙虚である人を謙虚とは思いません。
私が問題にするのは心だからです。
態度なんかどうだっていい、とすら、思います。
極端ですが。
地ドが異常に不遜な人を謙虚とは、私も思わないので、
態度がどうあれ、と言うのは限度によりますよ。

態度が異常に不遜な人は中身も不遜だと思っていますよ。



難しいですね。
態度が謙虚であっても謙虚とは思わないが、態度が不遜なら良いというわけでも無い。
人間は機械では無いのです。
そこでひと考え出来る生き物である。
ひと考えしないのなら、それは機械と同等かそれ以下です。
機械は間違わない。




私は相手の心の奥に意識を集中させます。
それが謙虚なら、謙虚と判断し、不遜なら不遜と判断する。




下の下の記事<見えない1〜3>に出てくる、態度が謙虚な霊能者は
厳密に言えば謙虚では無い、と私は判断する。
何故なら本当に謙虚なら、相手の守護霊他が見えない場合は
「見えません、済みません!」
と言えば良いのです。
それが言えないのだから謙虚では無い。
いくら態度が良くても、謙虚とは言わない。


ABCさん、三人は、この霊能者が本当は謙虚では無いことを見抜いているので
この霊能者に忠告が出来ないのでした。




この霊能者はご神業をする前に、まずは自分の心を見て
己れが謙虚かそうで無いかを見るべきですが、
物事が分からないのでそのようなことは思いも拠らない。
だからABCさん達は困っているのでした。


全然関係の無い第三者の私ですが、どうなったっていいから
本当のことを言っちまえ、と思います。
そんなくだらないことに心を砕くのは時間と労力の無駄であると判断する。

(低次のサヌキなもんでねw)


<いろいろ分かって来た人>(2012年7月31日)


精神世界に興味があり、特殊な能力を身につけようと励んでいた方がいます。
とても頭も性格も良い人です。
誰からも好かれそうな。好感度高い人。
その人が最近悟ったそうです。
それを紹介しますね。




気づいた点を簡単にまとめますと下記のようなことです。

1、この世が仮の世界であり、あの世が実相の世界。

2、私たちは霊性をあげる(波動を高める)修行のために、この世にわざわざ生まれている。

3、人は誰にも守護霊が4種類(主霊、指導霊、支配霊、補助霊)ついている。
  守護霊、特に主霊は生まれたときから死んだ後まで、ずっと付いている。
  この世での学びが進むように見守っているが、学びに必要なら苦難のときも
  手を出さない。
  自分の直感、気づき、シンクロニシティが守護霊たちからの道しるべである。
  守護霊たちとのパイプが、思考や執着で詰まっていると
  なかなか道しるべが見えにくい。

4、宿命として性別、国、親は決まっているが、運命は自由意志が認められている。

5、この世を良くしようとおもったら、各人が自分の波動を高めるしかない。
  あの世に行ったら、霊能力や透視は誰でもできるのだから
  肉体を持った、この世でしか学べないことに、精進するべき。


基本中の基本でしたが、私はわかっていませんでした。
でも、そうなんだとわかり、頭がすっきり整理されました。


精神世界のこと、たとえば占い、鑑定、エッセンス、チャネリング他なんでも
やって良いと思う。
でもその前に「人間としての基本」をしっかりと身につけたほうが良いですよ、という話でした。


つまり、当たり前で普通のことが出来ればそれでいいんです。
その後、余力があったら、特殊なことをすれば良いと思います。
普通のことが出来ないか、知らないか、勘違いをしている人が
精神世界のことをしても、それは土台がなってないので、
その精神世界もいずれは崩壊します。
崩壊の前にマトモな人は相手をしなくなるでしょうが。


この方、精神世界のことに真面目に取り組んだので悟ったのだから
そういう意味では「やって良かった」んですよ。




<見えない1>(2012年7月30日)


下から上は見えない


この言葉の意味は、波動が下の者から波動が上の者の考えていることは見えない、分からない、という意味。



これは普通の生活の中でも往々にしてあります。
子供は親の考えが分からない。
若い人は年齢が高い人の考えている(深い知恵)が分からない。

ところが若い人は年輩者が考えている深い知恵が見えなくて
自分に見えることで判断しますから、年輩者が阿呆に見えることがある。
これは理解せず誤解した結果です。
しかし本人には「自分が誤解している」自覚が無いのです。
これが「(判断力が)下の者から上の者(の考え)は見えない」ということです。




霊能者、チャネラーは沢山居ますが、彼らに共通しているのは
こう言ってはナンですが「判断力が低い」ということ。
チャネリングする場合は自分の判断力(思考力)を越える世界のことは見えない。
これは事実だから調べてみてください。

私は説明するのが面倒なので、チャネラーならこちらが言わなくても分かるので
こりゃ楽が出来ていいわい、と思っていたのですが
どうもそうでは無い、と何度か体験するうちに分かってきた。
チャネラーといえども「自分の思考力を超えるものは見えない(分からない)」のです。
一人や二人ではない。
軒並みにそうなのです。

だから私は自分が楽をしようと思っていたのに、それは幻想だったのだ、と思い知らされる。
ああ、なんて面倒なんだ。




友人のAさん(男性)も似たような体験をしているので
参考までに掲載します。



<見えない2>(2012年7月31日)


Aさんの知り合いの霊能者は、Aさんより若いためもあるでしょうが
判断力がいまいちなものが有るのだそうです。
Aさんから見ると実に危うい。
その霊能者本人も薄々自分の判断力の低さに気付いている。
それはAさんを初め、Aさん(50代男性)の仲間であるBさん(50代女性)、Cさん(30代男性)の
言動行動を見ていれば、よほど勘が鈍くなければ分かってくる。

なので霊能者はAさんにいろいろと相談を持ちかけるので
Aさんは相談に乗ってやっているそうです。
(Aさんは判断力を上げる方法について、或る程度分かっているので、それが他人にも分かる)

しかしAさんがその霊能者に説明をしても、いまいちピンと来てないようなんですと。
その霊能者が良い人なだけに、Aさんもなんとかしてあげたいが
こればかりは本人が悟らない限りはダメなんです。
周囲の人は悟る手伝いは出来ても代わりに悟ることは出来ない。
本人に悟らせることは出来ないのです。



で、その霊能者は10人ほどの人が集まったところで(これは50代女性が集めるらしいが)
参加者の後ろの霊とか、メッセージとかを伝えるのだそうです。
参加者の多くは心あたりが有るらしく感激していますが
Aさん、Bさん、Cさんは、この霊能者が言うことが当たらないのだそうです。
なのでこの三人は
「全く思い当たるフシが無いし」「近未来に関しても当たらないし」
「周辺のことに関しても全然当たって無い」
と感じる。

この三人が話しあった結果
「この霊能者には我々の後ろ(背景、裏、奥、未来、周辺)が見えてない」ということが分かってきた。
なのでこの会合が終わると毎回、三人はややガッカリしているのです。
いつかこの霊能者が悟ればいいな、と思いつつ。
霊能者なんだからそういうこと分かれよ、と私は思うが、
自分のレベルを超えたものは分からないのです。



私も経験があります。
数年前に或る人から
「ここのサイトの霊能者が、遠隔で見てくれますよ」と教えてくれたので
申し込みました。
すぐ見てもらえる、ということでした。
私はその後、他の人にこの霊能者のことを教えてあげました。

すると・・・私は全然見てもらえず、私の後から申し込んだ人はすぐ見てもらえたのです。
私は一ヶ月待って再度申し込みましたが、返事が有りません。
相当頭に来て、再度メールしました。

すると数日後におずおずと霊視結果が送信されてきたので、お礼メールを出しました。
しかし私だけ一ヶ月以上、多分二ヶ月ほど待たされたのはムカつきます。
なのでジュネさんに見てもらったところ・・・
その霊能者は私が見えないのだそうです。
だから結果送信出来なかった。
なああんだ・・・と思いました。
そして見えないってことが有るんだ〜と、一つ経験値を積んだw


<見えない3>(2012年7月31日)


私が依頼したその霊能者はTQ霊憑きだったのかもしれない。
しかしAさんBさんCさんが見えない、この霊能者は
とてもよい人で常に他人のためになろうとし、
精進潔斎し、世のため人のために奔走しているし
自分の意識については、上げなくてはご神業が出来なくなる、ということを知っているし
真面目だし、社会人としてもきちんと生きているし・・・
TQ霊憑きでは無い。

でも、この霊能者にはAさんBさんCさんが見えないのでした。




思うんですけど。
えないなら見えないって言えばいいんじゃないでしょうかね。
見えてないのに見えているフリをしている(そのようにAさん達からは見えるのだそうです)なんて
何のため?

正直に「見えない」と言ったら、途端にAさんBさんCさんからの尊敬が得られなくなるとでも思っているのだろうか?
しかし、正直に「見えない」と言ったほうがABCさん達からは好感を持たれるのです。
ところがこの霊能者には「それが見えない」のでした(嗚呼・・・


正直に言うことを、何が邪魔しているのか?
○嫌われたくない≒好かれたい
○バカにされたくない≒尊敬されたい
○孤立したくない≒仲間になりたい
つまり
恐れ
が原因
です。

これらを思っている結果が「見えないと正直に言えない」ことだとしたら
それは逆効果になっている、ということはお分かりいただけると思います。




ABCさんにはそれらが「見える」「分かる」ので、この霊能者に対して
どういう風に言おうか、迷っているのです。

この霊能者がABCさんから尊敬され、好感をもたれたいのなら
正直に
「ダメだ、見えません!(笑」
と言うことです。

が、霊能者の精神レベルが低いのでそんな簡単なことが
プライドと恐れから言えない。
つまり、その程度だということなのです。
そしてその程度だからABCさんが見えないのです。


これが意識レベルの差です。
見えないが厳然として有ります。


下から上は見えない


という話しでした。



<分かれ道>(2012年7月24日)


怖い話し。
http://mysteriousstory.web.fc2.com/yamasonota.htm

因果応報

130 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:16:28 ID:05BzJHXQ
不愉快な話なので見たくない人は注意。

数年前、某県の山道を飛ばしていた時の事。
突然、目の前に若い女性がふらふらと出てきた。
急いで急ブレーキをかけたので無事だったけど、時刻は深夜で山の中。
死ぬほど驚いてよく見ると、幽霊ではなくて生きた女性だった。

見かけは派手だったけど歳は自分と同じくらいだし、
疲れきっている様子だったので話を聞いてみると、
彼氏とドライブ中に喧嘩して置いていかれたらしい。
携帯も財布も彼の車の中だし、山中で人もいないので困っていたそう。
気の毒に思って一緒に乗せていってあげようと思い、助手席側のドアを開けて気が付いた。

彼女は学生時代に私を虐めていた張本人だった。
向うも間近で顔を見て気づいたのか、急ににやにやとして、
「やだ!あんた○○?あーやっぱり○○だ!」とはしゃぎだした。
ずかずか入ってきて、これあんたの車?○○の癖に良いの乗ってるねとか、
こんな時間に一人って彼氏いないの?いるわけないよね○○だしwと言いたい放題。


131 名前:おさかなくわえた名無しさん[sage] 投稿日:2009/09/26(土) 15:18:06 ID:05BzJHXQ
私はこいつのせいで今でも悪夢を見るほど苦しんだのに、
こいつは幸せに生きて虐めた私の事なんか綺麗に忘れてたんだな。
そう思ったとたんに腹が立ってきて、彼女を怒鳴りつけて外へ追い出した。
私が反抗したのを見て最初は驚いていたけど、
非常用のハンマーかざして脅したら、急に泣き出した。
今更泣かれてもどうでもいいので、そのまま彼女を置き去りにしてその場を離れた。

それっきりまた悪い夢を見たと思って忘れていたんだけど、
最近になって彼女が数年前に亡くなっていた事を知った。
某県の山中で複数の人間に強姦され、殺された後捨てられていた。
地方紙にも載ったので調べてみると、事件が起きたのはあの日の後だった。
犯人はまだ見つかっていない。

自分があの日乗せていってあげたら、彼女は生きていたんだろう。
でも可哀想とは思えず罪悪感も湧かない。
それどころか犯人ありがとうと思ってしまう。
悪いとは思えないけど、自分がひどい人間になったのは分かる。
一生誰にも言う気はないし、懺悔もしない代わりにここへ吐き捨てていく。



465 :おさかなくわえた名無しさん:2009/09/28(月) 11:38:36 ID:4MfcMvNw
>>464
流石に強姦して殺す奴らが悪いから、そのゲスパーはなんかおかしい。

車に乗せてもらって、相手が過去に苛めた子だと気づいたときに、
「私はあんなヒドイことしたのに・・ごめんねごめんねありがとうね」
と涙の一つでも見せたら130の人も泣きながら許して、
130の辛い思い出もちょっとは昇華したかもしれんのに。

神様が地獄か天国かのターニングポイントを作ってくれたかな。
悔い改めるか3倍返しかどちらかの。



466 :おさかなくわえた名無しさん:2009/09/28(月) 12:09:33 ID:Jo1hNyBI
人生ここぞという場面で調子に乗る奴は自分の命すら失うわけです。
山口母子殺人事件のあいつも本来は無期で済むはずだったのに
ムショ仲間に調子こいた手紙を書いたばかりに死刑確定となった。




この話しが事実だとして話しを展開しますね。

誰かが書き込んでいるように、この運転手の女性を苛めていた女が
「ゴメンね」と謝れば、その後の展開(強姦→致死)は無かった。
しかしこの女はこの期に及んでも謝罪をしなかった。

偶然は無い。

という、良く聞く法則を基にさらに考えてみます。
最後に、この女が運転手に遭ったのは
「謝罪のチャンス」を天が、守護霊が作ったので偶然では無いですね。
そしてそれを作ったのは「高次の自分」でも有るのです。

自分が謝罪のチャンスを作っておきながら
そこで素直になることが出来ずに、運転手に車から追い出されてしまったのです。
自分でチャンスを作っておきながら・・・


山の中の分かれ道ですが、運命、人生の分かれ道でもありました。
(まあ、こんな山奥で彼氏に置き去りにされるような女だし)



運転手の女性は過去に苛めっ子だった女の死を悼むことなく
「ざまあ」と言いたいような態度ですが、私はこういうのを責めません。
仕方ないな、と思うだけです。
私は道徳的な人間ではなく、世の中の様々なことに対しては
「それも仕方ないだろう」と思う人間です。

よく「〜〜するべきだった」と道徳的なことを言う人がいますが
そういう人は「自分がそういう目に遭ったとき、自分が実行すれば良い」と思う。
他人に言う必要は無い。

このように、世の中には自分に出来ないのに他人には強要するバカがいます。
というか、大変多いw




<善人の”親切”>(2012年7月21日)


ここで言う善人とは
◇思考力が乏しく
◇自分がやることを自覚できず
◇周囲の人の気持ちや状況など考えたことも無く
◇無意識に自分は良いことをしていると思い
◇何も考えずに親切を実行する
◇究極の自己中心な人のこと

です。

人間は基本的に漏れなく「善人」ですが、それは広義の意味での善人。
狭義の意味での善人は上の箇条書きに当てはまる人、とします。




夫の弟の結婚式に出席し、その披露宴で、私達夫婦へのサプライズとしてケーキカッ...
これなどは余計なお世話としか言いようがありませんが
この弟夫婦はそれを「良いことをした」と思っているのです。
目も当てられません。


人間には大きく分けて二種類居る、としましょう。
ひとつは自分は良いことをしたと思っていても、他人から注意されたら
そこでひと考え出来る人。
ひとつは自分は良いことをしたと思っていたので
他人から注意されたら感情的になって終わる人。
前の人は学習し、後の人は学習しない。
前の人の運命は良い方向に進み、後の人の運命は悪化する。


※但し、その注意は常に正当なものであるとは限りません

<真の理由>(2012年7月21日)


上の記事<善人の”親切”>の続き。

夫の弟は、自分の兄夫婦に「良かれ」と思ってケーキカットをさせたのだと思います。
99%の確率でw
相談者(兄嫁)はその弟夫婦に対してカンカンに怒っているわけですが
怒りの原因をもっと良く見てみれば、真の原因はケーキカットをさせられたことでは無いのではないか。
自分がその時、咄嗟のことで思考出来なかったことが悔しいのではないか。

前もって弟が言ってくれれば断ったのに、思考する時間を与えてくれなかったことは
相当悔しいのではないか。
誰でも咄嗟の時には判断が出来ないものです。
そして自分が判断出来なかったことが悔しい。
またこの場を丸く収めようと思って、自分の意に反したことをしてしまったのが悔しい。
つまりこの相談者は「自分に対して腹を立てている」のでした。




怒りや悲しみですが、これ、意外と自分が思っている理由では無いものが真の理由になっている場合が
往々にしてあります。
というか、世の中はこっちのほうが多いと思う。
理由は、違うところを探しても見つからないものです。
殆どの人は自分の意識を掘り下げて見ることをしない。
なので見つかる「理由」や「原因」は、表面的なものでしかない。
真の理由を見つけられるよう、日頃から訓練することが必要なのですが
殆どの人はそのようなことは考えたことも無い。
従って殆どの人は、自覚出来る理由は表面的なものに留まり
真の理由は見つけられない。




実例1=登校拒否

登校拒否になる理由の表面的なものは
◇学校での苛め
などですが、真の理由は
◇子供が自立していないから、他の子供並みのことが分からない、出来ないからなど
ですがさらに真の理由を探せば
◇親が人並みに子育てできないから
です。
何故その親はそうなったのか・・・さらに奥に理由や原因が有ります。



実例2=愚痴

愚痴ばかり言う人、愚痴しか言わない人、会話の中身の殆どが愚痴の人が居ますが
何故そこまで愚痴を言うのか、表面上では
◇自分の境遇に不平不満が有るから、その人の周囲に「悪い人」が居るから(笑)
ですが、真の理由は
◇自分の我を通したいから
です。
簡単に言うとそうなります。
では何故「我」を通したいのか?それは
◇我が強いから
です。
(※非常に単純化して語っています)




実例3=市民運動などに力を入れる人

市民運動、人権運動、活動などに力を入れている人がいますが
そういう人が何故そこまでそれをするかと言えば
◇市民運動という大義名分があるので、自分がやっていることに誰もケチをつけられない
からです。
つまり
◇市民運動に名を借りて自分の我を通したい
のです。
愚痴を言う人とは逆なやり方での我の通し方を実行しているだけ。
つまり
◇我が強いから
です。

(※市民運動、活動をしてはいけない、する奴は全員コレだ、とは言ってませんので)



実例4=気取る人

普通の範囲内での気取りは良いが、必要以上に気取る
異常なほど気取る人がいます。
(異常なほど、と言うのは人それぞれの価値観によって基準が変るが
  ある程度、限度というものは有ります。
  その「或る程度」が人によって違うのですw)


その理由を見てみれば
◇自分は特別だ、という異常な優越感が有る
場合が有る(私は殆どはコレだと思っていますが)
では何故、そのような異常な優越感に浸っているのでしょうか?
◇自他を常に比較して、勝っていないと嫌だ、悔しいから
です。
本人は意識していないが真の理由はそれです。
こういう人の子は親の隠している真の理由を言動や行動で表してしまう。
たとえばうちに下宿していた子などは
我が家の庭の大木に電飾を点して「きれいだろ?」と楽しませようとしたら
それを決して見ませんでしたw
見たくないからです。
何故か?
その子の家は地域でも金持ちと思われている、と自分達が思っている。
それなのに自分の家には無い電飾で明るくした大木などは
見たくも無いのです。
あまりにも正直に表したので笑ってしまいました。


では何故そこまでして他人に勝りたいのでしょう?
その家は代々その地域の大地主だったのですが
戦後の農地解放で多くの田畑は小作人に渡ってしまった。
どんどん没落して来た。
しかし没落したとは言え、まだ大地主なのです。
しかし代々に渡るプライドと、喪失感と、不安感などから
「他人より勝っているのが当然だ」
「勝っていないと不安だ」
みたいなワケの分からない意識が有るのではないか?

その子の無意識もそのようになって居たので、これではいくら表面上
トモダチ思いでも、友達は出来ないのでした。

また、こういう家の人は他人が自分を褒め讃えないと不満。
私は他人を通常褒めませんので(わらい)不評を蒙っているようですが
私は他人からどう思われようと関係ない(それはその人の自由)なので
どうでもいいです。

私の気持ち>他人の意見、気持ち、心

ただ付き合うのは面倒なのでこちらからは付き合いません。



実例5=自己中心な人

近所の人から今まで二回ほど「占って」と電話が来ました。
「いいよ」と快諾しました。
「また電話する」と言うので待っているのですが、二回ともその後の電話が来ません。
何故か?と考えた。

この人は以前家族のことを愚痴っていた。
私はそれを聞きながらその都度「こうしたら?」とアドバイスしていたが
愚痴を言う人は事態を改善する気がなく、ただ「聞いて欲しいだけ」であると分かったので
相手をしないことにした。
それで店からも足は遠のいていたが、この人は私に愚痴を聞いて欲しいのだろう。
しかしご無沙汰をしていていきなり電話で愚痴を言うのはいくらなんでも変だと
薄々分かっているので、名目は「占い依頼」ということにしただけ。

でも占いを依頼する気はなく、ただ愚痴を聞いて欲しいだけ。
つまりこの人は「占い依頼」という名目で私に電話を掛けてきたがその時も私は忙しかった。
(私はいつでも忙しい。特にこのようなくだらないことには時間を割けない)
この人は私が暇ならその電話で愚痴を言うつもりだったのだが
私が忙しかったので占いを依頼するために電話をした、いつ占ってもらうか
また電話する、という断り方をしたのです。
(一回目も多分そうだった、ということに今、気づいたw)
(私もマヌケだな〜)

この人は占いなど依頼する気は毛頭無い。
ただ愚痴を聞いて欲しいだけ。
それが本当の理由。
(※そして愚痴を言う真の理由は、我が強いから・・・ということは上に書いた通り)

なのでいつまで経っても占い依頼の電話が来ることは無いのでした。

蛇足ですが、このような低レベルの人なので問題を解決することはできない。
思考と行動が自己中心なので、無理です。
年をとっても知恵がつかず、50の坂を越えられないでしょう。
あ、もうすぐ50だと思うな・・・
あ〜〜〜あ!



世の中に多いのは自分は気を利かさないくせに他人に気を利かそうとする人。
気が利かない人に多いのですw
それほど自己中心で低次元、ってことです。
良く知恵袋などに相談をしている人が居ますが、その相談内容は
「自分の友人である自己中心人間によって迷惑を掛けられて困っている」というもの。
だったら付き合わなければ良いですよね?

しかしそこで多くの人は
◇嫌われたくない
と思ってしまう。
アワな人が思う。
アワな人が自分の好みにふけっているのです。
こういう人は現在自分に迷惑を掛けている人と離れても
また同じような人が現れて、同じ目に遭う・・・さらにヒドい目に遭うことでしょう。
だったら、今、ここでチャンスを逃さずに自分が変ることです。

真の理由は
◇断れない自分
で、何故断れないかというと
◇嫌われたくないから
で、何故嫌われたくないかというと
◇アワ人間だから本能的に他人と敵対できないから
です。

だからこういう人はどんなに相手が理不尽でも
相手に合わせて
◆気付かないふりをし
◆寛容になり
◆我慢に我慢を重ね
◆泣いて感情を発散させ
◆病気になり
◆それでもダメだと最後にはヤまで行き、いきなり転換し
◆凄いこと(相手を殺す、相手の子供を殺すなど)をすることもある

のです。




実例6=<善人の”親切”>(2012年7月21日)の記事

上の記事の相談者である兄嫁の場合。
◇弟夫婦の気の利かなさには腹が立つが
それは表面的なことで本当は
◇自分がその場で、雰囲気を壊すのが嫌で取り繕ってしまったこと
が怒りの原因です。
では何故、兄嫁は取り繕ってしまったのでしょう?
◇結婚式を台無しにしたくない
かですが、では何故台無しにしたくないのでしょう?
◇台無しにしたら自分が総スカンを食らう
からですね。
つまり、やはり
◇自分が大事
だからです。

多くの人がこのレベルなのですが、
@自分が、周囲に与えるイメージ
を良くしようとするあまり
A自分の本当の気持ち
には気付かないことにしているのです。

この@とAを自覚していないのでワケが分からないがとにかく腹が立つ、
表面上は弟夫婦が原因ですから、その怒りは弟夫婦へ向いている、という構図です。
この兄嫁は常日頃から自分の本当の気持ちを隠して生きているので
気持ちを出す訓練が出来ていない。
覚悟が出来て無いと言っても良い。
(※私のように大抵のことは自分の気持ちを出すようにしていても
    この場合のように咄嗟の時は「え?」となってしまって思考できないから
   多分、この兄嫁のように、なんだか分からないがケーキカットしとくか!となる可能性が高い)


咄嗟のことなので、そうなってしまうのも無理は無いから良いのだが
あまりにも自分の本心を隠して生きていると、
その後のフォロー(自分が自分の気持ちをフォローする)が無い。
それで苦しむわけです。
この兄嫁が怒った真の理由は
◇自分が常日頃から本心を隠して生きていること
◇他人から嫌われたくないと思っていること

と言って良いでしょう。
(※私が同じ目に遭ったら「くそ、やっちまったい」と思って、後で弟夫婦に嫌味を言って気分を晴らす。
   それに対して弟夫婦が「そんな心の狭い姉とは絶交だ!」と思えば
   「ああ、そうかい、上等じゃねえか!二度と顔見せんじゃねえ!」となって終了。
   相手がバカだと知っていれば、諦めて何も言わない。
    面倒なので言わない場合が多いです)




真の理由を見つけられないと、往々にしてこうなります。
物事の原因、理由は通常陰に隠れているものです。
それを自覚して生きた方が感情の動きも減り、人生が楽になりますよ。


私などはさぬきですから、嫌なことは我慢しないので不満が溜まることは無いのですが
(それでも少しでも我慢することがあれば、それが嫌で嫌で我慢して貯めていたエネルギーがが爆発します)
アワな人は気をつけましょう。
気をつけるというのは、常に自分の心を見ることです。
「真の理由」(原因)を探りつつ、分かりつつ生きないと不味いことになりますよ。




<感覚と価値観>(2012年7月17日)


<さしでがましい人>シリーズで、義母と、義母の娘とが
同じ感覚で同じ価値観なので、私は「同居するなら娘とが良い」と勧めたのです。
義母にとってはそれが一番気楽なのですが
義母の頭は「長男と同居するものだ」という感覚であり、価値観なので
私の提案が理解出来ない上に、トンデモ無い発言、意地悪だと受け取っているかもしれない。
それが「感覚の違い」「価値観の違い」です。



感覚の違いはいかんともし難く、直すとか、治るとかそういうものでも無いのです。
どちらが良いとか悪いでも無い、ただ「違う」だけなのです。
この違いは重大です。


感覚が違うと
片方の喜び=片方の苦痛
片方の重大事件=片方の取るに足らないこと
片方の怒り=片方の笑い

とかね。
これでもし、同居していたら大変ですね。



感覚は同じ年代でも性格によって違うが、世代の違いから来る差は大きい。
それでこのようなことになります。

若い嫁さんにとっては苦痛のこと=義母世代にとっては喜び、褒め言葉

これでは意志の疎通は難しい。
若い嫁にとって言われたら最も嫌な言葉を、老人世代は嫌がらせではなく、
思いやりの褒め言葉として使っているのだから、面倒です。




しかし、同じ年代でも性格によって、或いはその当人の感覚によっては
若いのに老人世代と同一
という例も有るのでコトが複雑に。
たとえば私は兄弟の一番上のせいか、自分よりも若い人達の感覚、価値観と似ていますが
主人の妹は兄弟の一番下であること、老人世代に認められようとする性格、
真面目な性格、自分はきちんとやっている、という意識のせいかなんだか分からないが
若い(と、言っても50代だよ)世代=老人世代の感覚
なのです。




人は誰でも自分の感覚を捨て去ることはしない。
努力をして真剣になったら可能かもしれないが。
しかし、そこまでして、普通はやらないものです。

知識や情報は上書き出来ますが、感覚はいかんともし難い。
何も考えないで同居をしてしまう、若い嫁さんが居ますが、
う〜〜〜ん、これは自業自得の部類ですね。
同居する際に自分は何を思っていたのか、本心を見ることが必要ですね。
(※本心とは・・・いい嫁と思われたい、とか、モメたくない、彼に喜んでもらいたい、とか、です)


<他力本願な人>(2012年7月16日)


自力あっての他力である、ということ。
まず、自力を尽くせ。
その後、手の打ちようがなくなったら他を頼れと、いうのが良いと思うが
最初から他力だけを当てにする人って・・・多いですよね。
精神が未発達な人はそうなりますね。




「日月神示とともに」にその事例が載っています。
大変参考になります。


また、霊能者と言えども肝心なのは判断力であることは普通の人と同じです。
しかし判断力を備えた霊能者が少ないのも普通の人と同じです。
大事なのは霊能(才能)であhなく、物事が分かる判断力、能力である、ということです。




<さしでがましい事例1>


下の記事<さしでがましい1〜3>までの続き。
と、いうワケで(笑)善人が善意から何も考えず(考えないということは動物次元ってこと)
「良いこと」をした結果、事態を非常に不味いものにします。
周囲を不快にさせ混乱させるだけで何一つ解決しません。
ところが本人はそれが「分からない」のです。



実例を挙げてみます。
主人の母が病気になり手術をしました。
私達夫婦は、義母はもう高齢なんだし
転移すると言っても時間が掛かるし、その前に寿命が来るだろうし
手術することには反対でしたが、義母の世代(80代)は
立場が上の人から言われるとそれに盲従する傾向があり
医師が手術の説明をしたら「お願いします」と即答してしまった。




本人の身体なので好きにすればいいのでOKです。

本当は手術はしない方が良いが、本人が手術をすれば「治る=完治する」と思っているので
本人の人生だし身体だし、本人の意思でやれば良いとおもう。
本人が「手術をすれば治るのだ」と信じているので仕方ない。
病気は本人が意識を変えれば治る(軽減する)と思うが(病は気から)
それが出来ない人は確かにいるので仕方ない。

○病気にならないために、本人が意識を変える=上のやり方
●病気にならないために、意識を変えることが出来ないので、信心に向かう
(手術をすれば治る、というのは信心です)
世の中の人は○か●なので、二つのやり方が厳然として存在しています。
○の人ならどうってことないこと、解決出来ること、意識を変えられることでも
●の人にはどうやっても不可能、というのが有ります。
世の中にはその両方の人のためにあらゆるものが用意されています。




「情熱惑星」の<病気>(2012年7月11日)という記事は真実です。

病気になるのは
肉体を持っている私たちに気づかせるために魂が病気にさせる・・

■肉体を酷使していると
「身体が悲鳴をあげているよ、少し休みなさい」と病気という形でお休みを与えられる・

そうでもしないと、休めない、休まないから・・

もう一つ

■肉体を持ってこの世に生まれてきたけれど
魂が望んでいることとかけ離れた言動で他者に迷惑をかけている場合・
やはり「違うでしょう? それでいいのかい? はよ、気づかんかい!」と
病気という形で気づかせようとする・・

もう一つ

■自分を認めてもらいたい・
自分の方を向いてもらいたい、かまってもらいたい・・・
そういう心の状態が病気を引き起こす・

(以下略)




義母などは完全にコレでした。
手術前は泣いていたのですが、私達夫婦(一家)は義母に「しっかりしなさい」と言うだけなので
それなら、と手術したようです。
勿論本人は無意識(何も考えて無い)です。

人を巻き込み自分が主役になることが嬉しいような楽しいような感じでした。
看護士と「トモダチ」のようになり、病院内で手を振ったりしている様子を見たら
私は呆れましたがそういう精神構造なのだなぁ、と思った。
本人にとっては「それが楽しく」「それが嬉しく」「それが生きがい」「それが天国」なのです。
天国、地獄は本人の意識が決めています。
義母がそのレベル(小学生レベル)に居ることは老人だから仕方ない。
それぞれが「自分が楽しい」と思うことをすれば良い。


<さしでがましい事例2>


さて義母が退院したら我が家へ来たいと言うので「どうぞどうぞ」と答えた。
退院してすぐ一人暮らしは不可能だから、喜んで協力します。

ところが義母は消化器を切除したので普通の食事が食べられないというので
私が病院に呼ばれて管理栄養士から説明を聞いた。
要するに
×刺激物
×塩辛いもの
×油っこいもの
×硬いもの
×一度に大量
がダメ、ということ。
私はこれらを頭に入れました。
義母が退院して我が家へ来たが主人の妹が「気を利かして」
消化器の手術をした人用のメニュー本を買ったそうで、義母がそれを持って来た。




食事は一日5回に分けて食べるのが良い、というが
食事と食事の間は部屋で寝ているので、まさか叩き起こして食べさせるわけにはいかないので
お腹が空いたら食べれば良い、と思う私。
そしてメニュー本に載っている様々なおいしそうなご馳走を作る必要は無いと考える。
どうせ作っても少量しか食べられないのだから。
それより私のような思考回路の人間は栄養士が述べた禁忌食物以外の食べ物を
用意すれば良いのだ、とインプット。
手術後なのだから欲は控えて静養第一と考える。


義母はメニュー本のようなご馳走が出ないことにはガッカリしたかもしれないが
至れり尽くせり、をすると25さんじゃないが
「優しくしてもらうために病気になる」
ということを人間はやるんです。
勿論無意識で。
それを意識化して乗り越えるのが大人(50の坂を越えた人)です。
子供なんか簡単に病気になります。
(25さんも登校拒否について書いているが、子供本人は本当にアチコチ痛くなるので
  仮病では無い。だから始末に悪い)


<さしでがましい事例3>


またその間義母には説明をしました。
義母がこれから取る道は大きく分けて三つある。
@今まで通り自宅に一人で住む
A我が家に来て同居
B県外の娘の所へ行く

この三つの方法はそれぞれ長所と短所がある。
@長所=周囲に同年輩の知り合いが居て会話出来る
      一人暮らしだと友人知人が気楽に来られる
      本人も気楽である
  短所=一人暮らしは寂しい、物騒でもある
       何か有った場合困る(電話である程度防げるが)
A長所=安全、安心、賑やか
  短所=話し相手が居ない(愚痴は聞かないと宣言したので)
       我が家のやり方は個人主義で自主独立、自立、責任を持つ生き方をしている
       義母がそれを学べないと苦しいことになる
       義母の友人知人が気楽に訪れることが出来ない、気兼ねする、遠慮する
B長所=義母と娘は感覚、価値観が等しいので楽である
  短所=県外なので友人、知人から離れてしまい、同年輩の話し相手が居ない


「お義母さん、このどれかから択ばなくてはなりませんよ」
と言うと義母は
「長男と同居するのが当たり前だと周囲の人間は皆、言う」
「娘の家は苗字が違う」と昔風のことを言うので
「今はそういう時代では無い」ことを説明。

この説明が理解できないと苦しむのは本人なので私は義務として説明して終了。

相手に分からせることは不可能。
本人が分かるしか無い。




ずいぶん冷たいな、思いやりは無いのか、と思われそうだが
これ(整序すること)が私の思いやりなのです。
脳内が混乱していてマトモに思考できない人に、思考のお手伝いをすることが私が発揮する思いやり。
思いやり、親切、優しさ、冗談、本気、一生懸命、努力、良い悪い・・・その他ありとあらゆる物事には
レベルとタイプ(サヌキアワ)が有ります。
千差万別って奴です。


<さしでがましい事例4>


「お義母さんにとって一番幸せなのは同じ感覚、価値観を持った娘と同居することですよ」
アドバイスしたが、義母の頭の中は「長男と同居するものだ」「娘は他家に行った者だ」という
古い頑なな思考が有るために、どうしても理解(同意)出来ない。
(理解出来ないことは苦痛を生みます。
  それを理解すればなんてことは無いのですが、理解できず
  その境地に留まること=苦痛、です。
  これは義母に限ったことではなく万人に当てはまる)




それから退院して我が家に来た当日義母に「今月いっぱい居てください」と宣言しました。
その前に主人に「お義母さんにはいつまで居てもらう?」と訊いたら
「一週間」と答えたので「いや、いくらなんでも短いから二週間にしよう」と言った。
なので義母には「二週間(今月いっぱい)居てください。後は様子を見ましょう」と宣言。

もし義母がウチに住みたいのなら、至れり尽くせりは出来ません。
普段通りに生活をしてもらってそれでもいいなら、それで良い。
それが嫌ならそれでも良い。
我が家なので我が家のやり方について来られるならそれで良い。
それが嫌だと言うなら好きにして欲しい。
というのが私と主人の考えです。
これは相談したわけではなく、価値観が似ているので一致しただけです。
主人の方が心が狭くて細かいがw
同居を前提としたらきれいごとを言っていては済まない。
普段からきれいごとは言わない私ですが、お義母さんには本気で覚悟をしてもらわないとなりません。
とことん考えに考え抜いて結論を出してもらいたい。




今までの人生で殆ど真剣に考えてこなかった人が「考えろ」という環境に入ったために義母が
非常にまごついたのは仕方ない。
我が家には当人が何も考えて無い場合、誰もフォローしない、という暗黙の了解が有る。
そのように育てたからです。
本人の思考言動行動の責任は本人が取るのがウチのやり方です。
他人(家族も含む)をフォローする場合はハッキリと「フォローする」と意識します。
そうじゃないと無意識無自覚に一日中毎日一年中一生、他人に
「要らぬ親切」(お節介、余計なこと、差し出がましい)を発揮することになる。
その結果が良いものでは無い、ということはもう説明しましたね?


<さしでがましい事例5>


要するに「自分の思考言動行動を自覚せよ」ということ。
これが出来る人は殆ど居ないのですが、自分と周囲の人のために我が家ではやっています。
(自分なりにやっている、という意味ですよ)

また多くの人が
「自分は本当は何が好きか」を考えたことも無い。
知らない、分からない、それでいて平気で生きているのです。
義母の例で言えば
「長男と同居すること」が良いことだと思っているので、そうしたいのですが
本当は感覚と価値観が等しい自分の娘と同居することが、義母にとっては心地良いはず。
ところがそれが分からない、考えたことも無い、私から説明されても理解出来ない。
これではどうやっても幸せにはなれない。
幸せを感じる主体である、自分の意識が定まらないからです。

だからそういう人に対しては優しく親切にしてやればいい。

という意見が普通だと思うが、いや、もし、それをしても本人の意識が定まらないので
何をどうしても心の姿勢が「不平不満を見つけては愚痴る」というものになり
本人は不幸な上に(本人が本人の意識の持ち方の結果不幸を感じるのは当然だが)
周囲の人間を不快にさせることが問題なのです。




たとえば義母のコミュニケーションの方法は「愚痴を言って相手の賛同を得て満足する」というものです。
なので親戚自分の娘に長電話をしては愚痴り満足を得ている。
その結果娘(主人の妹)から不愉快な電話が来る。
私はそれを主人に知らせないようにはしていたが、バカなのか何なのか
義妹か義母か分からないが主人に話しが筒抜けになり
その結果主人がどんどんへそを曲げる・・ということに。


義妹がさしでがましい口をきいた結果です。
もし義妹が何も言わなければまだ良いのですが、「良い」と思って
自分の義兄のケースなどを持ち出す。
私としては他人が何をしようと生きようと死のうと全く関係無いと思うので
義妹が持ち出す、第三者の実例を聞いても「何故?」と思うだけ。
何も良い結果が出ずむしろ事態を拗らすだけなのでした。

というわけで私よりも心が狭い主人の母と妹への態度はどんどん硬化して行きました。
「(母親と妹には)一切関わりたくない」「勝手にしろ」状態になってしまった。



私も義妹の差し出がましさには怒りを覚えたので、入院前に義母に忠告しておきました。
「あのバカ女、差し出がましい口を聞くもんじゃない。
 ○○の兄が何をしようと我が家には何の関係も無い。
 もしこれ以上差し出がましい口を聞くようならこちらにも考えが有る。
 一戦交えるのは
(この通りの性格なので)全く平気だ。
 お義母さんの手前今まで黙っていたが、次回また同じようなことが有ればいつでもやりますよ」

これから手術をする義母の心身に堪えたことでしょうが仕方ない。
私は今、このような意識に有ります、と義母に分かってもらいました。




それからは義妹から電話は有りませんw

義妹は今度は二番目の兄(主人の弟)に電話をしてぐじぐじと文句めいたことを言ったそうだ。
すると普段は明るくてとても温厚なこの弟が怒り狂い
「そんなに言うならテメエがやれっ!」と怒鳴ったので、聞いていた奥さんのH子さんは驚いたそうだ。
私とH子さんは間違っても文句をぐじぐじ言わないのです。
文句言うときは「般若顔で怒鳴る」のです(〜〜;)
たまに手に凶器を持っていることも有ります(@@)

(結婚は自分の家族とは正反対の相手とするようです。
  それをやることによって家系に修正を加えているのだ、としか思えない)
(なのでうちの主人も主人の弟も、結婚してから女房の反応が実家と逆なので驚いていた。
  が、何度も刺激を与えることによって(頭頂部とかに)ようやく
  ぐじぐじ言わない女も居るんだ、と悟ったようだ)


<さしでがましい実例6>


親の面倒を見ようとする人、実際に最小限では有るが自分なりに面倒を見ている人に対して
差し出がましい口を聞くなら「自分がやれ」と誰もが思う。
思わないのはおかしいw
温厚な主人と弟がキレてしまったのは非常に不味いです。
バカな妹のさしでがましい口ききで事態は悪化してしまったのです。
義母が愚痴を言ったことが原因です。
さらに「愚痴がコミュニケーションになっている」義母の無意識無自覚な性格が原因です。
人は誰でも自分が出したモノの結果を受け取るのです。
本人には悪気は全く無いので気の毒だなぁとは思うが、ここに情状酌量は入らない。
物理なので冷厳なものなのです。




このように思考力(判断力)が乏しいと他人の忠告も理解出来ず
無用な苦しみを生み出す。

たとえば「娘と同居するのが一番幸せですよ」と私から言われてもそれが理解できない。
お義母さんにとって最も幸せな方法をアドバイスしているのですが
「一番幸せな方法」なんて考えたこともなく、世の慣習に従って長男と同居するものだ、と思っている。
本人の意識としては世の慣習に従うのが「良い」と思っているが
それを越える「良い」が有ることには気付かない。
自分の中に矛盾を持っている人はどうやったって幸せにはなれないのです。

精神世界で様々な方法、道具が有りますね?
あれは簡単に言うと
「自分の本心に気付く」ことを目的としていますね。
世の多くの人が自分の本心に気付かず逆のことや向いて無いこと望んで無いことをやっているので苦しいのです。
だから苦しみを無くす(減らす)ためには「自分の本心」に気付けば良いので
世の中にはいろんなモノが用意されているわけですよ。




方法(セッション、占いなど)や道具(エッセンスやぐっず)を使ってまでも
自分の本心を探り気付き受け入れる(納得する)ことが流行っていますが
必要有ってのことなんですね。
それほど人は生まれてから今日(こんにち)まで様々な洗脳をされている、と言えます。
そこから抜け出るのは容易では無い、金と時間と労力がかかるのだ、ということ。


時間は掛かります。
十年くらい掛かると思う。
私のお客さんの中には6年以上前からお客さんをやってくれている人が何人もいます。
当時のお客さんの大部分がよそへ行ったようですw
理由は様々でしょうが。
その中でまだ諦めずにお客さんをしてくれている人達が
なかなか悟らず同じ場所に居るのです。
だから多くの人は嫌になって去って行ったのですが、同じ場所に居続けながら
なおもお客さんで居てくれる人達が居る。
素直で良いが・・・う〜〜〜ん・・・それくらい、分かるということは難しいということですね。

<さしでがましい事例7>


改善したい、知りたい、分かりたい、という人でもこのような状態ですから
◇老人で
◇精神世界の知識が無い
人なら尚更何も分からない。
義母は私がこのような話をすると楽しそうに聞いていて、面白い、もっと聞きたいと言うが
それは「たとえどのような手段(会話の内容)でもいいから、会話したい」
「相手をして欲しい」ということなのだ、と私が悟りました。
(こう言ってはナンですがお客さんの中にもこのレベルの人は居ます。
  たとえば「私は分かるようになりました」と報告してくれる人など。
  こういう人は何も分かっちゃいない、ということが分かる。
  他人が分かろうと分かるまいと、それと私にどのような関係が有るのでしょう?
  分かる人はそれが分かるので、「分かるようになった」という報告はしない)




義母はとても性格が良いのだが、無意識に自分の我を通す、ということをするので
敏感な人、うちの娘などには見抜かれお荷物扱いになっています。
それでも私は義母がウチに住みたいと言えば「OK」なんですよ。
義母が今までのような、考えるような考えないような無意識で夢の中で生きている状態を止めるなら、という条件つきです。
そして生きているのは「今」なんだから必死になって「今」の時代を理解して
置いていかれないよう、努力すること。
当然、愚痴をコミュニケーションの手段にしないこと。
(しかし義母は自分の携帯電話であちこちに電話をしては愚痴っているようだ)
(と、いうことは同居するならケイタイは取り上げるが、いいな?)




さらに具体的な条件も有るがそれは省略する。

このようにあくまでも条件付きですが私は同居OKなんです。
義母の年金をあてにもしていません。
義母にも「私は金要らない。自由が欲しい」と言いました。


義母が居れば自由が制限されるが、高齢者だから面倒を見ても良いので
こちらの条件を飲むならOKです。
同居は嫌だとは言いません、覚悟しますよ。
でも主人が自分の母親との同居が嫌なようです。
義母は退院後我が家へ来て数日で、或る日突然「姉の家に行く」「お喋りしたいから」と言い出した。
その日は義母が食べたいと言うものを買いに行ったのに、
その数時間後に言い出す。
何の脈絡も無く段取りも無くその時の気分で言うので驚いたが
本人の意思を尊重するので「どうぞ」と答えた。
ただしタクシーを呼んで行ってもらった。
(その前の前の日にはウチで義母が立ちくらみになった。
  部屋へ行って寝ているのかな、と思ったら自分で病院に電話をして
  これから病院へ行く、と勝手に約束。
   私の娘に送って欲しいと言うので、作業中だったから「ちょっと待って」と言ったら
  「タクシーを呼んでもらうかしら」と言う。
  孫の車か、タクシーかどっちか決めろ、決めたら動かすな!
  それで私が説教。
  5分待てないのか!と。
  義母は毎日私に叱られるのが嫌になったようでw姉の家に行って泊り込みました)




娘も呆れ果てたようだ。
老人だから或る程度は仕方ないので諦めているが程度問題。
それから人を振り回すのも義母は無意識でやるので周囲は困る。
同居した場合、毎日私から説教をされることになる。
それでも改善しな場合は私から怒鳴られることになる。
それが明らかなのです。


<さしでがましい事例8>


と、いうわけで、同居5日で義母は姉の家に避難したわけですが(笑)
自分の人生だから好きにすれば良いと思うのでOKです。

私と娘は約束の二週間が過ぎた頃旅行に行きました。
その間、義母は姉の家に宿泊していた。
で私が旅行から帰って来たら、義母から「自宅に戻った」という電話が有った。
他の件の電話だったが。




その時私は「またウチに来ますか?」と言わなかった。
主人と相談しないと私一人では決められない。
主人に「お義母さんには今月いっぱいウチに居てもらうかい?」と訊いたら嫌なんですと。
もう関わりたくないのだそうです。
(母親の入院などで、自分は会社を休んで都合をつけて何度も行ったりした挙句
  妹から非難がましいことを言われたらバカらしくなったようだ)


私はそれを聞いて「そっか」と答えた。
本人が嫌がっているものを無理やり押し通しても結果は決して良いものにはならない。
(「祟る」のです)
だから同居の件は義母から相談されたら答えようと思っています。

義母は主人に「在宅介護を頼んだ」と言ったそうだ。
主人は「頼みゃあいいじゃねえか」「好きにしろ」と実に冷たい。

義母と義妹が普通にしていれば、温厚な二人の息子(主人と弟)は
いくらでも親孝行するのに、義妹が他人を持ち出したり、世間一般のやり方を例に取ったり
自分が思うところの「正しいやり方」を兄達に押し付けた結果がコレです。
義妹は何も言うべきでは無かった、と思いますね。
腹は立たないが
(いや、腹を立てているのは向こうだろうがw)
自分は自分が思う通りにやれば良いと思う。
それを他人に押し付けるな、と思う。
押し付ける場合(たとえば義母が我が家に同居した場合は、我が家のやり方に従ってもらう、とか)は
ハッキリと自覚しろ、と思う。
全てを無意識無自覚で行うので事態は悪化するのです。




主人が自分の母親の思考、言動、行動を本気で嫌がっているので
これ以上主人のヘソを曲げさせないために、私が毎日義母の考え無しを改善しようと
会話で相手をしていたが、義母にとってはそれが苦痛だったのだと思う。
しかしそれをして義母が改善しない限り、あんたの息子は決して同居しないんですよ、と
言わなかったので多分真意は全然通じて無いなw
物事の裏や奥のことが全く見えない人・・・これが世間一般の人、老人の姿ですね。


そしてこのように物事が分からなくて不必要な思考と感情を抱く人は病気になるのです。
特に腹が悪い(思考と感情の質が悪い)人は腹を切って(手術をして)腸(はらわた)を晒すことになる。
これでこの話しの最初に戻りましたね。

上にも書いたがこういうタイプとレベルの人にはそれに相応しいものが用意されている。
それが宗教です。
宗教でなくても信心するものが世の中には沢山ある。
(病院の医師なども信仰の対象です)
信心して安心を得る人は居ても良い。
が、そういう人は同波長の人と一緒に居るのが自分の精神にとって一番幸せなのです。
残念ながら義母にとっては我が家はそうでは無いのです。
義母が「自分はどうしたら一番心地良いのか」悟ってくれるといいな、と本気で思う。
心地良いこと=罪悪
になっているフシが世の多くの人には有る。


<さしでがましい事例まとめ>


さて、長々と書いて来ましたが、要するに簡単な言葉で言うと

幸せになりたいのなら「我」を捨てよ

ってこと。
捨てられないのなら

「我」のレベルを上げよ

ってこと。


非常に難しいが。



そして差し出がましい口をきく人は
◆モノを知らない
◆思考力が無い、乏しい
◆自己中心

です。
これが迷惑でなくて何でありましょうか?




さらに言うと「さしでがましい口を決してきくな」とは言わないのです。
きいても良いのです。
その場合は自覚して言え、ってこと。
喧嘩や誤解覚悟で言え、という意味です。
覚悟しろ、ということです。



<さしでがましい3>(2012年7月13日)


差し出がましい口をきく人の多くは(殆どは)
自分が差し出がましいなどとは夢にも思わず
何の疑いも無く「良いこと」と思っているか
或いは無意識無自覚に「良いこと」と思っているものです。
差し出がましいくちをきく人は大抵(殆ど、99%が)
無意識無自覚なため、或いは意識的に「自分は良いことをしている」と思っているために
あちこちで問題を起こす。

さしでがましい口をきく場合は自覚していれば良いのです。
差し出がましい口をきいてはいかん、と言っているのでは無い。
自覚した上でなら基本的に合法的には「何をやっても良い」「何を言っても良い」と思う。

無意識無自覚である、ということが問題です。
要するに考え無し、低次元、ということだからです。




低次元、判断力の無い人に問題を解決することは出来ない。
従って差し出がましい口をきく人には何一つ解決は出来ない。
解決出来ないのだから口など挟むものでは無いが、
当人には「自分には問題を解決する能力は無い」ということが
分かってないため(思考力、判断力が低いため)
余計な口を出しては物事を拗らせる。

この場合、聞くほうの人間が適当にあしらえれば良いのだが
差し出がましいくちをきく人間と聞くほうの人間が同レベルだった場合は
同じレベル(次元)で意見が一致するとか
感情的に波長が同じために、事態が混乱する。
こういう人同士が親しくすれば良い、と私は思う。
そうでは無い人、異波長の人はそこ(その交友関係など)から離れるのが良いと思う。
たとえ家族親族であっても、このような関係は不毛だと私は考える。
勿論、「そうは言っても家族だから」と思う人はそれで良い。
不満を抱きつつ付き合えば(同居すれば)良いと思う。
誰も止めやしません。



<多分善意>(2012年7月11日)


この人も多分善意の塊なのだと思う。
でも私はこの人の顔が嫌いだ。
http://ny-blog.org/

この人は事業をするより、自分の意識を直視したほうが良いのだが
こういうタイプの人は多分そんなことは思わないだろう。




ここだけの話し。
或るお笑い芸人でタンメンを食べるのに不自由している人だったか、
そういう人が居たが、私はあの人が最初から大嫌いだった。
理由は無いのだがとにかく嫌いでTVに映ると吐き気がするほど嫌いだったのです。
特に意味は有りませんが。




<さしでがましい人2>(2012年7月11日)


下の記事<さしでがましい人1>に登場する、ご主人の姉の夫のような
賢くて冷静な人は滅多にいません。
お姉さんも根は良い人なんだそうです。
でも「良いこと」を意図するあまり、周囲、奥、裏、真実が見えなくなっていたのです。
そしてこういう人は本当に多い。
そうでは無い人を見つけるのに苦労します。




人間、悪いことをする時は
□これをしたら不味いのではないか、と考える
□これをしたら周囲の人から非難され、攻撃され、仲間外れにされる可能性が有ると考える
□これをしたらK札に捕まるかもしれない、と考える
□これをしたら、自分の人生終了するかもしれない、と考える




なのに「良いこと」をする時は
そういったことを一切考えないのです。
だから問題だ。


良いことをする時も、悪いことをする時と同じくらい、
いや、それ以上、この行動の結果どうなるかを予想しなくてはならない。




<さしでがましい人1>(2012年7月9日)


先日、ウチに来たご夫婦から聞いた話。

ご主人は次男ですが長男が独身のため(他にも理由が有るが)
親との同居が出来ない。
それでご主人のお姉さんに頼まれて、親(母親)と同居することになった。

このお母さん、性格は良いがやはり昔の人なので
今の大人とは思考回路が違う。
コミュニケーション能力も乏しい。

コミュニケーションなんてのは、戦後になってから新しい教育方針の下で
重要だとされたものです。
昔は「年長者の言うことには黙って従う」ものだったので
コミュニケーションとは「はい」と言うことだった、と言っても過言では無いだろう)
で、「はい」と言えない場合は

@口では「はい」と言うが頭では理解せず心では納得していない
Aなので「はい」と言わされた(誰も強制していないが、自分はちゃんと生きているので「はい」と言った)
Bしかし頭では理解してないし、心では納得していないので
Cその不平不満が発生するが
Dそれを言語化することが難しい
  何故なら言語化の訓練をしていないから
Eしかし心には不平不満が溜まるので
Fこの苦しい状況から逃れたい、心が満足したいという欲求が発生する
  かなり切実な欲求である
Gその結果、相手構わず、自分の苦しい胸のウチを曝け出し
H相槌を打ってもらいたくなる
Iつまり「愚痴を言う」という行動になる


ようです。




自分の感想、意見をハッキリと述べることの出来る性格の持ち主か
意見を言える立場にある人は、愚痴は言わない。
老人でもそうです。
ただ、そういう老人は例外的に少ない。

従ってこのご主人のお母さんも世の多くの老人同様「愚痴を言う」ことになる。
相手は「お母さんと同居してやっておくれ」と弟(次男)に頼んだ姉(母から見たら娘)です。




子供と同居したからには(第一、その家は息子が建てたもの)
何が有ろうと息子に対して「はい」と言っていれば良いのです。
この息子夫婦は性格温厚で並み外れてマトモだし良い人なのですが
それでも老母は不平不満が溜まる。
それは「心の姿勢」がそうなっているからです。

○現状に満足して生きる。得点を数えて生きる(70点取れたね、良かった)
●現状に不満で生きる。足りない点を数え上げる(満点にはまだ30点足りない)


通常は下の生き方を択んでいるようです。
このお母さんも例外ではなく、日頃の何でも無いことに不満を感じてしまう。
また、こういう人は他人とのコミュニケーションの取り方は
「愚痴を言う」というカタチになっているために、
誰かと会話する場合、「愚痴から入る」のです。
会話の仕方が「愚痴から入り」「愚痴を語り」「愚痴に終わる」のだから
そういうのは厳密に言うと会話では無いが、この年代の人(若い人にも居ますよ)には
それしか他人と会話する手段が無い。




本当ならこんな良く出来た嫁がいるのだし
息子が家を新築して自分を引き取ってくれたのだから
毎日感謝して生きるべきなのですが
上に書いた通り、このお母さんのコミュニケーションは
「他人に自分の愚痴を聞いてもらう」というものなので口から出るのは愚痴ばかり。
近所にいる、自分と同年輩(かちょっと若い世代の婆さん)に「愚痴を聞いてもらう」
とか(この場合、相手もこのお母さんに愚痴を言っているはずですw
だってお互いのコミュニケーションの仕方が「愚痴を言う」というものだからです)
近所のおばさんに愚痴を言っても足りないので
(飽くことを知らない、際限が無い、キリが無い。
  それだけ心は膨大でエネルギーは無限なのだろう)
遠くに住んでいる自分の娘に電話をするわけです。
そして愚痴を言う。




娘(このご主人の姉)は母親の愚痴をまとも受け取り、弟に怒って電話を掛けて来ました。
「お母さんに出て行けとは何事だ!」
この「出て行け」発言ですが、お母さんがあまりにも毎日キリも無く
愚痴と文句を言うのでこのご主人が「そんなにウチが嫌なら出て行っていいんだよ」と
答えたもの。
その言葉をお母さんが自分の立場で
◆勝手に脚色
◆自分に都合の悪い場面は削除
して、娘に伝えたのでした。




このお姉さんのような「愚」をやらかす人が多い、というか「普通」では無いでしょうかね。
事実の調査をせず一方の言い分だけを聞いて感情的になる人。
非常に不味いです。
この一件(出て行け発言)はご主人の奥さんが電話で説明をして解決しましたが
この奥さんの人間性が高いから良かった。
もし私くらいだったら(普通だと思うが)
「そうですか。ではお姉さん、あなたが面倒を見てください」と言って
婆さんを追い出していたことでしょう。
私から見たらこの奥さんは神様級の良い人です。
素晴らしい。
こんな素晴らしい人と同居出来ても、それでも「足りない点を数える、探す」という心の姿勢なので
毎日不平不満が溜まる。
原因は他にはなく、本人(だからこの婆さん)に有ります。




さて、このお姉さんも良い人だそうです。
母親の愚痴をまともに受け止めた点は短慮でしたが
この程度の短慮は当たり前、普通です。
あくまでも冷静に思考する人なんてのは滅多に居ません。
だから良いとしましょう。
で、このお姉さんは一時的に弟一家が自分の母をないがしろにしている、と思ってしまったのですが
その時お姉さんのご主人が言いました。
「放っておけ。
 もしここでウチが介入すれば、ウチが責任を取ることになる。
 (つまりお母さんを引き取ること)
  その覚悟が無いのなら何も言うな」
その通りです。

私もそのように考えます。
だから他人がどうしようとそれはその人達の問題であるので自由にやってもらう。

しかしこれが出来る人(だから何もしない人)は少ない。
多くの人が「良かれ」と思って介入します。

介入したからには責任も生じるのだ、という当たり前のことが分かってない。
分かってないから気楽に(善意で、正義感で)実行するのです。




一連の話を聞いてやはりこのご主人の血筋の人達、その配偶者は
かなり性格が良いし賢いな、と思いました。
もしそうで無かったら一族全員巻き込まれ
解決不能な面倒なことになっていました。
一番の問題はこのお母さんなのです。
しかしこのお母さんはこれからマットウになることは99%無いでしょう。
だったら周囲の人間が意識を変え(つまり愚痴を取り合わないなど)るしか有りません。




人は往々にして「善意から」さしでがましい口をききます。
私などはそういう口を聞く人が居たら「その人が引き受けろ」と思っています。
理詰めがどうしても理解できない人。
理屈は分かるが心が納得できない人が居るのは重々承知です。
だったらそういう人は自分の心が満足するよう、母親を引き取ればよいのです。
誰も止めやしません。



<50の坂を越えられそうに無い人>(2012年7月6日)


下の方の記事<感想1>(2012年6月21日)の人は、若い頃の意識のまま、
年を取ったら50の坂は越えられませんでした。
途中で人生の方向転換をしたようで
だから、今、「昔の自分の考え」を客観視出来る。
この人が若い頃のまま年齢を重ねたら
未来は「50の坂を越えられなかったおばさん」になっていたはずです。




今、50歳以上の人で「50の坂を越えられなかった人」は
若い頃からそういう意識で生きてきたからです。
若い頃はマットウだったのに、50歳を過ぎてからいきなり変になったのでは無いのです。
だから私が今、ここで「50の坂」について語ることは
「今、若い人達の中で50の坂を越えられる人は少ないですよ」と言いたいだけ。




復習のようになりますが、主人の妹は今50代ですが
この人は50代になってからいきなりわからずやのおばさんになったのでは無い。
若い頃から「50の坂が越えられないような意識で生きて来た」のです。




ではその「50の坂が越えられない意識」とは何か?といえば
答えは様々あるでしょうが、そのうちの一つは
@自分独自の意見は無い
A世間の意見が自分の意見である
B世間の意見は「数が多い」というそれだけのことなのに
Cそのことに気付かず(だって思考しないから)
D自分は世間の意見の通りに生きているので
Eだったら勝手に生きれば良いものを
Fコトもあろうに、それを他人に強要する
のでした。

<感想1>の方は若い頃、そういう意識で生きていたのでした。
その後、学習したようで、そこ(その意識レベル、次元、波動)から抜け出ることが出来て良かったです。
もし、そうでなかったら「兄と兄嫁に余計なことを言い」
「その反動で兄夫婦から忌み嫌われ」
「それでも自分が悪いとは夢にも思わず」
「兄夫婦を恨み嫌っていた」ことでしょう。
これ、その必要は何も無いのです。
最初からこの方が兄夫婦に何も言わなければ良いのでした。



このように多くの善人の方が妙な思考回路に陥っては
他人を不快にさせ、自分も不快になり、物事は決して解決せず
自分の周囲に地獄を作り出す。

言っておきますが、コレ全て「善人」がやっていることですよ。




困った五十代のおばさん達。
彼女らは悪いことをしている自覚はさらさら無く
むしろ「自分は良いことをしている」「自分だけが良いことをしている」と思っているのです。
そういう人が「50の坂を越えられなかった人」で、世の8割以上はそうなのではないかと思います。




老婆心ながら申し上げますと、感想の人は兄夫婦に、若い頃の自分の発言を謝罪した方が良い。
兄はともかく兄嫁はこの方の発言を決して忘れていません。
兄嫁が許してくれようとくれないと、謝罪は自分の義務として
詫びておくことを勧めます。




<50代のおばさん/感想1>(2012年6月26日)


「情熱惑星」の25(ふうこ)さんから感想が来ました。

<イマイマにキを入れる7(事例)>(2012年6月26日)を読みました。

こういうことありますね。
この事例の人は少々おつむが足りない?・・・と思いましたが
そうではなく、自分はしたくない、表立たない方が都合の良い時
独り言のように「◯◯よねぇ?」「◯◯したらいいのよ・・」とか
相手が行動を起こすべき方向へ仕向ける人がいます。
そこで一番利を得るのは、もちろんその独り言の人なのですが。

そして誰かが行動を起こして良くなった場合、
「私がアドバイスした」ように言って、
いいとこ取りをします

私も、そういう人の癖?をだんだん分かってきましたので
仕向けられてもあらぬ正義感で動くことはなくなりました

25さんも学習しましたね。
私も日々学習しています。
50代になっても日々学ぶことは有ると思っているのです。
そういう人が「50の坂」を越えられた人です。
というか、そういう人だから「50の坂」が越えられたのです。




こういうことを悪知恵が働くというのか、
たんなる賢いと捉えるのか分かりませんが
私は人を利用する「ずるい人間」と観ています。

無自覚な人も、それが癖な人も
(癖は無自覚ですね?)

癖(くせ)は無自覚の最たるものですね。

同じことを繰り返しますね。

自覚しないと一生やります。
そして無自覚なので自覚することは難しい。
まず自力では気付けない。


こういうことに出くわすと
「私はどう?」と、自分自身に問い掛けるときです。

「他山の石」ですね。
他山の石の意味が変に伝わっているらしい。
他山の石=アタシには関係無い
とかね。
でも本当は
他山の石=他人のことを自分のことの参考にすること
です。
日本なら
「他人(ひと)の振り見て我が振り直せ」
と言います。



「他人と比較してはいけない」
「他人と比較しない方がいい」
と良く言います。
それってとても口当たりの良い言葉です。
一見、とても良い。
しかし「違う」と思いますよ。
他人と自分を冷静に感情を入れないで、優劣をつけないで比較すればよい。
そうじゃないと人間は学べません。
他を知らないと「井の中のかわず、大海を知らず」になってしまいます。
他人と自分を比較する必要が無いのなら
世界に人間は自分ひとりでコト足りる。

他人と自分を比較するな
という言葉は
比較=優劣をつけること、勝敗がつくこと、劣等感を持つこと、妬むこと、憎むこと
になってしまうような意識レベルの人には有効です。

世の中に流布していてそれが定説のようになっているものは
意識レベルが低い人向けである場合が多いです。


何事も意識して生きたら退屈どころかこれもまた勉強です。
行動を起こす前に人も状況もよ~く観察することがだいじだと思います。

本当にその通りです。
25さんは私より年上のお姉さま(わらい)です。
人間を良く観察し、的確な判断を出しています。


いつも勉強させていただいています。
ありがとうございました。

私こそ25さんの観察眼と判断力にはいつも感心しています。

25(ふ〜こ)



<50代のおばさん/感想2>(2012年6月26日)


がちさんのブログ「人は叶う夢を見る」の記事より。



必要な言葉は 其の2

人生に役立つサイト Pにっ 見たままをしゃべる人がっ!

どうも 職場の50代の方が 「○○さんは仕事のここが抜けているからどうしよう」みたいな
事をえんえんと喋る 「そういうことはいけない事だ」とえんえんとしゃべる

私に  ○○さんではなく私に

○○さんの仕事の抜けは私の仕事に影響なければ知ったことではないのだが

教室全体として業務が滞るのは問題 若しくは私が嫌なので 
私が報告する事も在る

私が報告すると その人も報告する

うれしそうに 私もやっといたよ〜という


全く 訳が判らないのですが

最初の頃は 自分自身 業務の種類も把握できてなくて ちょっと戸惑った事もあったけれど
出来ることはやっちまえば静かで済むし そんな難しい仕事はしてないし

他の方のその50代の方への仕事の伝達の仕方は 「○○ 終了 ○○はお願いします」
と報告と指示を細かく書き 更に 「メモがあります」と本人にメールすると速やか
らしいと気が付き

他の先生のメモの書き方をえぐりこむようにして覚える


仕事は見て覚えろも場合によっては真実

Pの記事を読む前は 「なんでこの人は こうなんだろう」とも思う気持は残っていたが

記事を読んだことで納得 どうしようもないし どうする気もないと自分自身についても判り

梅雨の晴れ間のようにすっきり! Ifさんと体験談を送った方どうもありがとうございます

すっごい役にたちました



がちさんの職場にも似たような50代のおばさんが居たんですね。
若い人達が全国で苦労しています。
人は自分に苦労をさせる人を基本的に好かないのです。
自分が楽が出来る相手を好む。
(優しくて自分を甘やかしてくれる人とか、自分の言うことを理解してくれる人とか、です)

私が友人のPさんに背中を何度もどやしつけて注意したのは
「あんた、今悟らないと若い人から相手にされないよ!」
という意味でした。
背中をバンバン叩いて説教しました。
叩いた理由は
私の言葉の意味が分からなくても私が本気で怒っていることが伝わるからです。

私は基本的に「他人がどう生きようとアタシには関係無い」という態度を貫いています。
何をどう思おうと、何をしようとそれはその人の自由です。
私に危害が及ばなければ。
でも明らかに不味いと思うときは特例として注意します。



<感想1>(2012年6月21日)


いちいち感想を言わんでもいいのですが‥
わたしは69さんと反対の義妹の立場ですから勉強になります。

私も若い20代のころ、親が同居の兄達でなく何かあると私を呼ぶので
「もっと面倒見ろ」と兄に怒ったことがありますw
今は何も言いませんが
問題は親ですよね。

そうです。
親自身がしっかりすれば何も問題は無いのです。
あなたはお兄さんに説教めいたことを言う資格は無く、
親に対して「自分を呼ぶな。私は忙しい」と言えば良かったのです。
親に対しては「兄が面倒を見ると言ってるんだから、おとなしく面倒を見られていろ。」
「それが不満なら、さっさとあの世へ逝くか、施設に入れ」と提案するべきでした。
若いから知恵が無くて出来なかったのは分かるので責めてはいませんが。


兄弟間に亀裂をつくる元も親。
私も世間の常識、長男が親を見るに染まっていました

でしょ?でしょ?
その根拠ってのは「昔からそうだから」という実にあやふやな、実体の無いものです。
でも多くの人がそれを固く信じているのです。


よく考えれば、私も若く親から開放されたかったんです。
たぶん兄達も解放されたかった。
親世代は戦争時代、人の生死を身近に見てきたので、人に執着があり
だから多くの親は子供を手放せないのかなと思います。
(意識の高い人は別)
そして自分の気持ちより世間体を気にする。
後、物(土地とか家とか金)がからんでくる。
うちの母(痴呆)も、次兄や私たちが行くとよく転びました。
病気になれば面倒を見てくれる、やさしくしてくれると無意識(意識)に転ぶのです
よ。
(すぐにはわからなかったが)

そうです。
怪我や病気は「もっと自分の面倒を見ろ」「自分を保護しろ」「自分に注目しろ」という意味です。
それってコドモがやりますよねw
老人になると子供になるのだと思う。
こどもに帰ってもいいが、その場合、「コドモとして扱うがそれでもいいな?」と念を押します。
私なら。

或る介護系の大学だか何かで
「寝たきり、垂れ流し、言葉が言えない、他人の言葉を理解しない、歩行出来ない」
こういう人をどう思いますか?
と教授が学生に質問したそうだ。
学生は「ダメだ」「絶望的」「回復の見込み無し」と答えたら、その教授
「実はこれ、赤ちゃんです。赤ちゃんに対して、皆さんはそう思いますか?」と訊いたそうだ。
で、学生は多いに反省したそうだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、いう話を聞いて「ばかじゃねえのか!」と思ったのは何を隠そうこの私です。
教授はロジックによって寝たきり老人を赤ん坊の如く慈しめ、みたいなことを言おうとしたのだろうが
「ざけんじゃねえや」と私なら思う。
何故そう思うかは各人で考えて欲しいw


でもそうなる前に
自分の心に正直に生き、世間の常識なんか気にしなければ
呆けもしなかった
と思います。
多くの人が面倒を先回りしてみることを善とする世の中ですよね。
実家の近所のおばさん(私の顔もよくわからない人)が、
わざわざ私の職場に来てケアハウスにいる母が
可哀想だからになんとかしろみたいなことを
いいにきたことがありました。
親切なつもりできたのかな、すごいお節介に感じ怒りさえわきました。
それぞれ事情があるのに。

そういう時は「はあああああああ?てめえ、何言ってんだ?」と言ってやりましょう。

69さんの「今までここではちょっと言わないでおこうと発言しないで‥‥不味い
ことになるということが多々あったので学習した」
は、私も改めてそうだそうだと思います。
心にとめておきます。
日本人の場の空気読めるのが、逆にわざわいしますね。

69さん別居してるのにやることはやってて偉いと思いますよ。



<50代のおばさん1>(2012年6月21日)


私は50代なので皆さんから
「50代のおばさん(の考え方、発言、行動)がヒドい」
「50代なのに何も考えて無い」
「50代なのに何も分かってない」

というメールをしょっちゅうもらいます。

私の年代には
◆自分の親(70〜80代)などの年輩の世代と同化している人
◆自分より年下の弟妹や子供などの若い世代と同化している人

とがいます。
問題なのは多分
◆自分の親(70〜80代)などの年輩の世代と同化している人
こちらの方ではないかと。




自分が生まれてから成長し大人になるまでの期間
世の中の主流は自分より年輩の世代だった。
当たり前。
で、年輩世代と同化している人は当然のことながら年輩から受けが良い。

こういう人の頭の中は
「年輩者の言うことは間違い無い」
「年配者の言うことをきいておけば誉められる」
「年輩者の言うことをきいておけば年輩者から認めてもらえる」
そして
「世界(世間)=年輩者である」
と、無意識に思っている。



従って無意識に「自分は正しい」「自分は間違って無い」と思っている。

で、自分の考え(考えと呼べる代物は無いがその人の頭の中では無意識的にでも、そうなっている)
は世の多くの年配者側についているので
何を血迷っているのか、自分の考えが正しいのだし、他人はそれに従うものだ、と
やはりこれも無意識に思っているのです。

そういう人は自分が年輩者が作った世の中に従って生きて来たので
(本人は無自覚だが)
自分のように他人も世の中に従うべきだし、
自分の発言は世の中の主流の意見であるから
従ってオマエは私の意見に従うべきだ、とこれまた無意識に思っている。


こんな態度で居られたら周囲はたまったモンじゃありませんね。




50代より上の世代は良いのか、と言えばそんなことはないし
40代も相当悪いです。
(※以前、私より若い当時40代の人がそういう態度を、自分よりも若い人に対してとっていたので
   驚きました。
   なんか礼儀に関することで説教したようだ。
   しかしその場では年齢を問わず、皆、ネットで知り合った友人だし立場は対等なんだから
   そこでいきなり礼儀を持ち出すのはおかしいのです。
   そんなことは会社とか三次元でやれと私は思う)


何も考えて無いのに分かったような口をきく点では同じ。
さらに30代も同様です。

では何故50代の人、主におばさんがそれより下の世代から嫌われるのか
考えてみました。
ところが私の周囲、友人には良い人しかいない。
わからずやであっても性格が良いので嫌な人ではない。
たしかに50代で嫌な奴はいますが、そういう人とは親しくないので
(アレが職場にいたら嫌だろうなあ)とは思うがあまり実感が無い。



さらに、50代のおばさんの「何が」そんなに嫌で、周囲の人にとっては気に障るのか
分からなかったのですが、最近
(あ、コレかあ!)と思ったことが有りました。
(※上に書いたこと、年輩者に気に入られようとする人については
   最近、あ、コレかあ、と思ってから自分なりに考えた結論です)


主人の母が最近手術をしました。
散々、
「手術をしても無駄」「心が原因だから心を変えない限り治らない」
私から言われていた義母は、医師から
「では○月○日に手術をしましょう」と言われたら
何も考えないで
「お願いします」と言ってしまった。
義母が自分で手術をするという以上は本人の自由にしてもらうしかない。
もしここで義母の気持ちを説得によって変更させたら
病気が悪化した場合
「○○が手術するなと言ったから」ということになり
その「責任」を問われてしまう。
だから周囲の者としては説得はするが命令はしないのです。
(若い人なら必死で説得して強引に止めさせるかもしれないがそれは禍根を残します。
  つまり、「手術をすれば治ったのに、しなかったから転移してしまった」みたいな?
  こういうことが前もって分かっているのがおじさん、おばさん世代です。
  勿論この世代でもこういう知恵が無い人もいます)




あれだけ説明をしても理解できないのでその言葉は耳を素通りするのだろうし
家族(自分の子ども)に
「手術はしない方が良い」と言われても
そんな素人の言葉より(患部を切りたくてしかたない)外科医の言うことを信じる・・・のが
老人世代ですかね。
本人が自分の意思と責任で択んだのだから、それを周囲はとやかく言うことはなく
本当に自由にしてもらっています。

そこまではいい。



<50代のおばさん2>


私は基本的に「自分の人生は自分の好き(自由)に生きれば良い」と思っているので
手術したいのなら
「すれば」と思います。
勿論自己責任で。

他人
(この場合の他人とは赤の他人という意味ではなくて、自分では無い人、という意味です)
が決定し自主的に活動するなら、協力は惜しまない私。
私に出来ることは喜んで(文句を言わず)協力しています。


「喜んで協力する」という言葉の意味は
「そのためにはまず本人が意思を持って決定し、何をしたら良いか明確にせよ」
という意味です。
決して
「本人の意思が無いのに周囲の者があれこれと先回りをして面倒を見る」
という意味ではありません。

赤ちゃん〜幼児〜小学生なら、それも仕方ないが
中学生以上になったら、「本人の意思を無視して周囲が勝手にコトを運ぶ」というのは有り得ません。
ましてや大人に対してそれはやりません。




何か変な風潮があるようです。

先回りをして面倒を見ること=良いこと

と、思って疑わない人がいます。

先回りをして面倒を見るのも良いが、その場合「本人の意思を無視している」というマイナス面を自覚した上なら良いと思う。
だから決して「先回りをして面倒を見てはいけない」と言うのでは無いのです。
やってもいいから「その行動を分かれ」
(先回りは良いとは決まってない、悪い面も有るのだ、と分かること)ってことです。

相手の様子を見つつ「先回りしても良いか」「今なら先回りをするべきか」「先回りをした結果はどうなるか」を
分かった上なら先回りをしてもよいと思う。



それ(思考すること)無しに「先回り=良いこと」と決め付けている人が多く
世の中の平均値、大多数がそのようになっているので私のようなのは少数派です。
すると今度は

少数=悪い

と思考する人が居るのです・・・というか、多い。

私などはこの世の中のどこから手をつけたら良いのか途方に暮れますが
今の時点では放置するしか無いですね。
大多数の人はそこまで考えて生きてない。
それでコト足りています。
コト足りているんだから、そこに違う考えなど入る余地は無い。
(※若い人もそういう考えに毒されてはいるが
   中年以上の人ほど洗脳が効いて無いので、まだ良い。
   また「私には分からないことは無い」と中年以上の人は無意識に思っているが
   若い人にはまだそれが無いか、少ない。
   若いと言っても35歳くらいになると、
   大抵の人は思考方法が中年と似たようなものになっているようですが)




<50代のおばさん3>


さて、自分の意思で手術を決めた義母。
入院前に付き添いが必要だったらしい。
病院は義母の家から近いし、義母は車を運転するのでいくらでも自分で行けるのです。
もし、付き添いが必要なら「付き添ってくれ」と言えばよい。
別に冷たいわけではなく、第一いつ病院に行くのか、私達家族は知らない。
知らないものはやれない。



その前。
入院を決定する前に義母は我が家に2週間以上泊まっていましたが
昼間は自宅に帰り、他県に住む娘に毎日電話をしては泣いていたそうで
それを知った主人が激怒。
私が普通の嫁なら義母の行動に傷ついて「二度とうちに来ないでください」くらいは言うのではないかと思うが
幸いなことに普通では無いので(わらい)
(あ〜〜あ)と思っただけでした。

半人前で思考が滅茶苦茶な人と付き合うのは面倒なので
こちらから余計な口出しはしません。
(※相手が半人前なら、面倒を見てやれ、という考え方も有るが私はそれを採用しない。
   そういう行動を採りたい人が採ればよいことです。
   先回りをして面倒を見てしまうと、今度は先回りをしてくれない、ということが原因で
   不平不満が生じるだけなのです。
   だったらまずは人生の主人公である本人がしっかりして
   意思を明確にすればよいことです)
(※相手が半人前の場合。
   そういう人の面倒を見たい人=希望、面倒を見られる人=状況
   が面倒を見れば良いと思う。
   その人が最も相応しい人です)




さて、入院前の手続きや相談に、私について行って欲しいという要請が無かったのです。
(※普通の嫁なら「何でアタシに言ってくれないの!」となるかもしれないが
   私はそういう風に考えることはありません。
   全て、本人の好きなように自由にやってください、と思うだけ)


他県に住む義母の娘が付き添ったのですが、
義母は不安が高じて多分気が動転しているのだと思うが
看護士とのやり取りなどは、相手(看護士)の言うことを殆ど聞いて無いようで
会話がちぐはぐだったそうです。
それで義妹から
「今度病院に付き添ってあげて」と言われたので
要請があれば、それが可能なら喜んで協力するので
「いいよ」と答えました。
その後、検査入院とかで2回ほど付き添いました。



<50代のおばさん4>


その後、検査結果が出たが、それは結果を聞くだけだから本人が行けば良いと私は思っていたので
義母に一人で行ってもらった。
その前に義母から
「一緒に行って欲しい」と頼まれましたが
「結果を聞くだけだから一人で行けますよね」と私は答えたからです。
(※義母が「行って欲しい」と要望を出したのは、要望があったら言ってくれ、
   言われないのに私達は先回りして面倒を見ることはしません、と宣言したからです。
   義母はそれを理解したのでこの点は良かった。
   しかし、要請されても私がそれを不要と見なせば、やりません)




で、義母は一人で病院に検査結果を聞きに行ったのですが
結果はナントカ腫瘍だった、ということで放置すると転移する可能性が高い、と医師から言われたそうです。

私と主人はガンはいじらないほうがいい、という意見なので
どのような結果が出ようといじらなければ良いと思っています。
でも結果はナントカ腫瘍だった。
で、転移すると脅されて義母は怖くなってしまった。
多分娘に電話をして泣いたのでしょう。
娘から私の家に電話が有りました。



私は私のやり方でやっているのですが、娘(私からみたら義妹)から見ると気に入らないようです。
ようです、と言うのはハッキリと「気に入らない」と言わないからですw
それで遠まわしに言うのですが、要点は
◇もっと面倒を見てやれ
◇義妹の旦那の兄は、自分の母を面倒を見ている(別居しているが)

と、いうことを言いたいようだ。

これを聞いて私はやっと50代のおばさんが若い人に嫌われる理由が分かったのです。
(あ、コレかあ!)

◇面倒を見てやれ

これ、義妹の意見ですよね?
面倒を見てやれ、と発言した人が見てやればよいのであって、他人に言うことでは無いと思う。
面倒を見たいのなら思う存分見れば良い。
私には私の考えが有る。
私は私の考えに則って行動している。
私も私なりの定義で面倒を見ているのです。
他人の定義で行動するというのは変じゃないですか?

◇義妹の旦那の兄は、自分の母の面倒を見ている

これ、私には関係ないですよね?
誰が何をしようと、私には何ら関係がなく、ここで唐突に他人の例を挙げられても
私としては困る。
その兄とやらが何をしようと私には一切、関係ない。



電話で喧嘩するのも面倒なので適当にあしらっておいたがムカついたw

50代のおばさんは

◇世の中の大多数を占めるであろうと、本人が勝手に推測した「虚像」を
  金科玉条の如く振りかざす。
  自分の後ろには世の中の「常識」が有ると思っているので自分の言動を疑わない。

◇自分に都合の良い、他人の例を持ち出し、それで説得出来ると思っている。
 
 (説得出来る?そんなことは有りません。
   無いのですが本人にとっては都合の良いサンプルです)


ああ、実に面倒臭い。



<50代のおばさん5>


この義妹は
「長男が面倒を見るべき」ということを何度も遠まわしに言いたいようだ。
「○○(地名)のお兄さんは(自分の)お母さんをよく面倒を見ている」と言うので
「面倒見の良い人は居るだろうね」と答えたら
「面倒見が良いという話では無い」みたいなことを言うので
「へえ、そうなんだ」
「いろんな人がいるからね」

と答えておいたw

私が義妹の言うことに賛成せず、異論を唱えたことが気に入らないようだ。
私も他人からとやかく言われる筋あいでは無いので気分が悪化。
喧嘩しなかったけどw



ああ、50代のおばさんの嫌らしさってコレのことかあ!と発見したので面白かったです。

ですが、この義妹、50代になってから急にこうなったのではないのです。
昔からそうなんですよ。
ずっと若い頃からそういう思考回路で生きていたのです。
なので私は
「そういう人なんだな」と思って来たのですが
皆さんから
「50代のおばさんは最悪」という情報が沢山来ていたので
それとコレとがようやく一致した、というわけです。

だから
50代の困ったおばさんは
今まで困った点がなくていきなり50代になって困った人間に変身したのではなく
若い頃からそういう人だった
のだ、ということを言いたいのです。
そのためにこんなにも文字を費やしてしまった。



だから今、50代のおばさんについて批判している若い人も
今の困った50代のおばさんと同様になる要素が有る人が居ると思う。
「年齢では無い」と私が何度も書いているのは、そこを言いたいのです。



<50代のおばさん6>


さて、私は他人から誉められようとか認められようとは思わない。
私は私にとって最も気持ちの良いことをするだけです。
それが一番快適なのです。



私は他人が何を発言しようが行動しようが構わないのです。
(※例外的に、その人が向上したいと宣言した後で、その決意と反対のことをしていれば指摘します)

義妹などは自分が考える
「常識有る人間」の範疇から
私やH子さんが外れていると思い、それが気に入らないのだろう。
私やH子さんにはそれぞれ
「自分の考え」が有るのだ、と分からない。
「世の常識から外れた考え」は存在してはならないかのような思考回路に陥っている。
というか、その程度のわからずやが
「有りもしない、世の”常識”」を振りかざすわけです。
(※こう言ってはナンですが、今の老人世代が作り上げた「世の常識」は
   老人が死ぬにつれてどんどん減っていくような代物ですよ。
   つまり、これからを生きる人には「無用」なものであると、私は思います)




私は他人が何をしようと構わない。
H子さんは
「私は●●家の嫁だが、その前に○○家の娘であり、○○家に入り跡を取っている。
旦那は●●家から○○家に婿入りしたのだ」
という意識でいること、
従って義母のことは
「お義兄さん(うちの旦那のこと)に全面的に任せる」という意識でいることは
行動から推測できます。
私はそれで良いと思っていますからH子さんには何の不満も有りません。
いいんじゃないですかね、潔くて。

本当は関わりたくないのだが批判を恐れて、関わるそぶりを見せはするが
本音は
「アタシは関係無い」と思っているのがバレバレだ、というのだったら
それを見たら気持ちが悪くなるが、そうでは無いから清清しいとすら思います。



それに引き換え義妹の方はなんとか私をマットウな嫁にしようと
遠まわしに批判めいた言動を送ってくるので、私は一気に気分が悪化します。
「検査結果を聞く際に母を一人で病院に行かせた」という点を
義妹から遠まわしに批判された主人は激怒。
「だったら自分が行けばいい。オレは仕事で忙しいんだ」



さて、手術の前に義母が
「入院中毎日お見舞いに来て欲しい」と要望したので
入院中は外部との連絡などが必要だから、勿論行きますよ、と答えた。
でも私は忙しくて行けないから娘を送る、と約束。
(※お見舞いはうちの子にとって通常の任務では無いので、一回千円で行かせた)

可哀想に思う気持ちは無いのか?

と、思われそうだが「本人が自分の意思で行うこと」に周囲が可哀想と思うのがおかしい、と私は思う。

病気になったのは可哀想ではないのか?

はい、全然可哀想では無いです。
本人の心の姿勢の結果がそうなんだから、それも本人の自由意志です。

冷たいんですね。

いや、冷静なんです。



まぁ、私などは感情が動かないタチだからいいのですが
もし、個人の自由意思で病気になったものを可哀想などと見当外れの感想を持てば
今度は
「病気になったら同情してもらえる」「病気になったら優しくしてもらえる」
思考力の無い人なら思ってしまう。

この
「〜〜してもらえる」「〜〜してくれない」という思考方法は、TQ霊に特有のものだと思っているのです。

人間なら「〜〜してあげる」と思うのが「普通」(私が考えるところの「普通」という意味)だろうと、思う。

じゃあ、オマエは「〜〜してあげない」のだから普通じゃないな?

いえ。
だから何度も書いている通り、してあげていると
「それが普通になってしまい」「それをされないと苦痛を感じるようになる」
のでそれを予防しているのです。
してあげるのは簡単ですが、その結果は良いものにはならないのです。
してあげて良いことと悪いこととをハッキリとコト分けているのですが
それが見えない人の方が多い。
私は私なりの「してあげる方法」を採っているだけです。
(※私が何をしてあげているか・・・様々なことをしています。
   貧乏な人を応援したり、夢を叶えたい人を応援したり。
   波動を上げたい人に協力したり、とか)




「〜〜してくれない」という苦しみを自分で作りだし、自分の幻想で苦しむのがTQ霊
です。
とは言え、そういう人の方が圧倒的に多いのだし、別に軽蔑はしません。
それが「普通」
(大多数である、という意味)だから。



<50代のおばさん7>


ああ、本当に面倒臭いですね。

死んでから天国に逝ったりジゴクに逝ったりはしません。
死んだら必ず自分の波動の世界へ逝くのでそこは「天国」なのです。
ただしそこは他人から見たら「地獄」なだけです。
が、死後は他の世界は通常見ることは無いので、
死んだら目の前に展開するのは自分の心のままの世界、つまり「天国」しか無いのです。



天国と地獄と、両方見られるのは「この世」に居る間だけ、と私は思います。

私だけの意見ですが、人は「自分の天国」を作るために生まれて来て、生きているのだ、と思う。
自分にとって「何が天国か」分からない人は多分、気持ちが悪いのではないかと思う。
(※たとえば本当は兄嫁と仲良くしたくない、嫌いだ・・・でも、付き合わないわけにはいかない、
   だって親戚だから仲良くしなくてはならない、もしそれをしないと親戚から批判される、
   だから仲良くしよう。
   でも本当は嫌いだから仲良くすることは苦痛だ。
   でも、仲良くしないと親戚から批判される、それは嫌だ。
   だから仲良くしなくてはならない。
   でも仲良くすると・・・・本当は嫌いなので仲が良い振りをするだけだけど、とても嫌だ・・・

   この人はいったい何をしたいのでしょう?

   この人、ジゴクを生きていませんかね)




私は
◇自分が気持ちの良いと思うことをします
◇それによって周囲から批判されようと認められなかろうと
◇そんなことは、自分が気持ちの良いことをする上では二の次です

以上は一つを採用すれば他方が不可能になる、二律背反の例ですが
勿論
◇自分が気持ちの良いことをして
◇それによって周囲から認められる
場合も多い。
それは結構
です。



この世で天国を生きたいのなら
◇自分が本当に好きなこと、望むことを明確にする
◇他人から認められよう、誉められようとしないこと

です。

大多数の人にそれが出来ないのは
生まれてから今日(こんにち)に至るまで、毎日家庭と学校と社会に洗脳されたからです。
洗脳って解くのは容易じゃないそうだ。
一時的な洗脳だって解くのは容易では無いのだから
生まれてから今日までの洗脳を解くなんて、ほぼ不可能に近いくらい困難だ、ということは分かりますね?



私はこの「
洗脳から解けること」がアセンションの一面であると思っています。
アセンションって物理とか魂とかいろいろな見方が出来ますが
精神面から見たら、コレ(洗脳から解けること)だと思いますが、如何ですかね。



<50代のおばさん8>


と、いうことで(何が?)
人間、生まれてから50年も経つと、多くの人が義妹のようになってしまうのではないか。
元々そういう素質
(世の常識というあやふやなものを背景にして、自分の言動行動こそが善であり正しいと思っている)
が有るからそうなってしまうわけですが。
(※しかしそうじしょうには「五十の坂」という言葉が有り、
   殆どの人がこの坂を越えられないそうなので
   義妹のような人の方が主流であると思われます)




私だってこんなオバと会話するとムカついて嫌なんだから
若い人だったらさぞかし嫌でしょうねw
あははh!
大変ですね。



さて、話しを手術前に戻します。
義母が
「入院中、毎日来て欲しい」と要望したので「はいはい」と了解しました。
そして義母が「退院後、長男(うちの旦那)の家に来たい」と言うので
「それは当然です、良い考えだ、はい了解」と答えました。
義母の人生の主役は義母なので、義母自身に考えてもらいました。
その決定に関しては我が家は総力を挙げて協力します。



ここで私達から
「うちへ来ませんか」と提案するのもいいが、
実を言うと、正直言って我が家(あたしと旦那)はそこまで考えていないのです。
相手(義母)は子供では無いので、立派な大人なんだから、自分で思考し決定するものだ、と思っているので。
義妹の考えはそうではなく
「母は老人なんだから長男一家が面倒を見るべき」なのですが
えっと我が家も
「面倒を見る」つもりでいますよ。

ただ、
◇私と主人が考えている「面倒を見る」の定義
◇義妹が考えている「面倒を見る」の定義

が違うだけです。

言葉は同じでも内容(定義)が違う。
感覚が違うと言ってよい。
感覚とは人によって千差万別なので同じものは一つとして無いと思う。
似通った感覚は有るだろうが。

だから、
或る人の言葉の定義と、もう一人の言葉の定義とは「違う」ということを考慮しないと
ただの自己中心になってしまうのです。
会話する際にはその言葉をいったいどのような感覚、定義で使っているのかを
確認しつつ進める必要が有ります。
(※まあ、どうでも良い会話の時にいちいちそれはやらないが)
(※しかし、このどうでも良い会話・・・・という言葉自体にも人はそれぞれ違う感覚と定義を持っているのです)
(※だから性格や感覚がかけ離れていると、会話をすればするほどお互いの感覚の違いが表面化して
   どんどん気分が悪化したりします。これをジゴクと言います)




私とH子さんとは性格と感覚が似ているので、
そりゃあ理解不可能なことも多々ありますが(笑)
会話は普通で楽しく問題は有りません。
H子さんは他人に
「世の常識を背景にして、コレコレこうしろ」とは言わないんです。
「私の意見はコレコレだ」とハッキリ言うので分かり易い。
義妹のように自分の意見はハッキリ言わず遠まわしに世間の意見を臭わせるみたいな
そういう回りくどい方法を取られると、時間を浪費するだけなので
「いったい、何が言いたい!」と思ってしまう。

H子さんのわれよし、自己中心、わからずやは私から見ると愛嬌の範囲内です。
H子さんとそのご主人が義母の入院の件で関わろうとしなくても私はそれでOKです。
H子さんにはH子さんの考えが有り、それに則って行動しているので何も問題は有りません。
(この件に関しては、ね)



<50代のおばさん9>


しかし多分ですが、義妹はH子さんとその夫(義妹の兄)については
自分が考えるところの「常識」から外れている点が不満なのではないかと思います。
義妹は兄二人と兄嫁二人については多分「かなり、不満」なのではないかと。
笑っちゃいますがw
それ、自分で必要のない考えを抱いているのだとしか言いようが無い。
ジゴク発生ですね。
自分でジゴクを作っているのので、そういう人は
「ジゴク発生装置」なのです。



義妹がこのジゴクから抜け出すには
◇人には人の考え、やり方があるのだ
◇人は自由なのだ
◇他人が何をしようとそれはその人の自由なのだ
◇自分は自分がしたいことをすればいいのだ
◇それでいいのだ

と、悟ることです。

ジゴクの原因は他人にはなく、全て己の心で生み出しているのです。
ご苦労様です。



さて、また話しが脱線しました。
と、いうわけで義母が「退院後は長男の家に泊まりたい」と言うので
「はいはい、了解」と答えた。
義母はしょっちゅう我が家に泊まっているので慣れたところが良いだろうし。

ただ・・・

コレだけは言っておく。

「お義母さん、○子ちゃんのことだけど」

「○子ちゃんは私に電話で『○○のお義兄さんは、もっと親の面倒を見ている』と言ったけど
  ハッキリ言って、○○のお義兄さんは我が家には関係ない。
  関係の無いことを持ち出す○子はおかしい。
  この間の電話では他にもいろいろ言っていたが、私は超ムカついた。
  言っては悪いが○子ちゃんのことは『あのバカ女』としか言いようが無い。
  ざけんな、って感じです。
  そんなに面倒見たけりゃ自分で見ろって感じ?」

「うちの主人も私も『自分で出来る範囲内』でお義母さんに協力している。
  協力して、と言われて嫌な顔をしたこと無いでしょ?
  それで文句を言われるのなら、いっそ『一切協力しない』という方法を採ってもいいんですよ。
  ○○さん(うちの旦那)は滅茶苦茶怒ってますよ。
 
 (さっさと死んでくれ、と毎日言っていることは伏せた)
  実に面倒臭い!」


これから手術〜入院する人に対して酷な発言ですが
一応頭に入れておいてもらいました。
義母は娘が余計なことを言ったことを詫びていました。

(※義妹は多分あれこれと忠告をすれば、私達夫婦が恐れ入るとでも思っているのだろう。
   ところが私達夫婦は、自分達が悪ければ謝るが、
   自分達にとってやりやすい方法で協力していることに注文されても
   「はああああああ?」となるだけです。
   お義母さんが気の毒で老人だから、お義母さんに関しては大目に見ているのに
    それを分からなくて外野から口を出せば、
    こちらとしても態度を硬化させるのは簡単・・・というか、それを待っているフシ有りw
   つまり義妹がさらにおかしなことを言い、それに対してこちらが
   「じゃあオマエが面倒を見ろ」と宣言するとか)




うちの主人も妹から(間接的に)
「検査入院の結果を、兄が母と一緒に聞きに行けば、こんな面倒なことにはならなかったのに」他を
義妹から言われて相当頭に来ていたのです。
それも義母に言ったら義母は主人にも謝っていました。
何故、義母が息子に謝ることになったのか?
それは自分がしっかりしないからです。
自分がしっかりしない、腹を括れないので、娘に電話を掛けて、泣き言を言ったので
娘が
「それならアタシが言ってやる」と正義感を発揮したのです。
人は誰でも「自分が生み出したものの結果を受け取る」のです。
自業自得、と言います。



ことわっておきますが、私は義母に謝らせたいのではないのです。
謝罪など要求していません。
私は私の思うことを言ったまで。
私としては謝ることより、少しでもモノを考えてくれ、と願っています。



<50代のおばさん10>


さらに義母は次男夫婦、つまりH子さんとその旦那が今回の件(も、その前の件も全ての件で)
「私達には関係無い」という態度をしている点が不満なようです。

「それからH子さんと○○さん(H子の旦那)は、あれはあれでいいと思います。
  自分達がやりたいことをやりたいようにやっているので」
「そうかねえ・・・(不満そう)」
「だって自分の意思でやっているんだからいいじゃないですか。
  コレコレこういうことをしなくてはならないという決まりなど、有りません」
「・・・・・・・・・(不満そう)」
「H子さんは自分もやらないが、他人に指図しないからいいんです。
  
(あんたの娘は他人に指図するから、いつか私から怒鳴られる羽目になるけどいいかな?)
「・・・・・・・・・・・・・・」


一緒になってH子さんとその旦那の悪口を言いたいのかもしれないがそうはいかない。
私はH子さんには何の不満も無い。
なのでこの会話は打ち切り。



病気だから、老人だから、落ち込んでいるから・・・と容赦し続けていると
結局、最期まで何もいえなくなるので、そういう場面設定は無視して発言することにしました。
(今までは「ここではちょっと言わないでおこう」と発言しないでいて
  それが結局後々不味いことになる、ということが多々あったので私も学習した)




その後義母は手術〜入院。
毎日一回、ウチの娘か息子か、主人が病院に行きました。
娘などは特に話すことも無いので「2分で帰って」来たこともあるが、それもOKです。
自由にしてもらった。

ここで普通の50代のおばさんだったら
「お祖母ちゃんを慰めたり励ましたりしなくちゃダメでしょ」
「2分で帰るってどういうことよ?」
「そんな『お見舞い』聞いたことが無いわ」

とか言うかもしれないが、私は言わない。
お見舞い
(内容はお見舞いではなくて、連絡業務ですが)に毎日一度行く、というのは大変です。
一日の作業の中でその時間を確保しなくてはならない。
面倒ですよ。
行くだけで偉いと思います。
見舞いとは何か、そんなことは重々承知しているのです。
その上で、自分が最も取りたい行動を選択したのだから、その意思を尊重します。



娘はお見舞いに行くのを嫌がっていたのです。
お祖母ちゃんの話しは内容がなくて意味不明全然面白く無いし
知らない他人の噂話しや愚痴ばかり。
これで
「話し相手になれ」というのが無理で、
もし、そういうことを言う人が居たなら
「その人が話し相手になれ」と思います。
「お祖母ちゃんが(いつものようにつまらない)話しを始めたら嫌だな」と言うので
「会話しなくていいよ。
 愚痴が始まったら『愚痴は聞かない!』と言って即、帰って来い」
と言いました。
なので滞在時間は2分なのです。
これで十分です。



<50代のおばさん11>


義母が退院して我が家に来ました。
今まで息子の部屋だったところを大掃除。
大変でした〜

義母が来るにあたっては私は期限を区切ろうと思ったので主人に
「お義母さんにはどのくらい居てもらう?」と訊いたら
「1週間」と答えたので「ちょっと短いから今月一杯、二週間居てもらおう」と言った。
それをお義母さんに最初に言いました。
「○○さんは1週間と言っているけど、キリの良いところで今月いっぱい居てください」

お義母さんは活動的で自宅にいれば毎日車で出かけて忙しいのです。
友人知人と会ってお喋りをするのが一番好きなのだと思う。
観察の結果。



私は義母に以前にも言ったこと
「娘の所に行くのがお義母さんと感覚や価値観が同じなので、一番楽ですよ」
「私の所にいたら毎日厳しい目に遭いますよ」

と言いました。

義母は「娘の所にはいけない、だって苗字が違うもの」と言うので
「はあああああああああああ?」と言いました。
苗字なんて今、そんなことを言う人は老人世代くらいです。
苗字が違う親と同居している人(つまり女房の親)なんて普通にいます。
と、説明した。



その数日後「娘が旦那の親と同居することになった」と言うのです。
多分娘に「69が娘と同居するのが一番良い、と言っている」と電話で言ったのでしょう。
こうして毎日電話をしては入れ知恵されているのでしょう。
なので
「両方の親と同居している人なんて普通にいますよ」と言いましたw

義母が言うには周囲の人に訊くと「長男と同居するのが当たり前だ」と皆、言うそうだ。
なので
「お義母さん、だって周囲の人は皆老人でしょ?
  古い考えをする人達なんだから、そう言うのに決まってますよ」

と答えました。
「でも、その人達が責任を持ってくれますか?ただ言ってるだけでしょう?」
こういう話になると義母の理解力を超えているのか分かったような分からないような顔。
つまり
「利害関係の無い、何も関係の無い人達の言うことを、何故、あなたは採用するのですか?」
と訊いているのです。



<50代のおばさん12>(2012年6月22日〜23日)

まあ・・・・ね。
老人は殆どが昔の人間で昔の学校教育を受けた人なので
理論的に考える訓練なんかしたことが無いんだから
理屈が分かるはずが無いのです。

でも義母は頭は良い。
だから決して自分を馬鹿だとは思ってない。
面倒です。
が、性格がいいから、ま、いっか。



問題は50代のおばさんの方でした。

知恵ぶくろなどには「独身で居ること」について「あら、可哀想」とか「何故結婚しないの」とか
「人間は家庭を持って一人前であり」「結婚していない人間はどこか欠陥が有る」と
信じて疑わず、頼まれもしないのにそれを「改良しようとする」おばさん、50代以上の人、特に女について
相談者はとても不愉快であり困っている、と書いています。

本当に余計なお世話ですよねw

このように50代の「正しいおばさん」(笑)は、
世の人全てを自分の価値観に当てはめないと気がすまないようです。
こういうおばさんが近所や職場に居たら
「うっせ===!」
と言ってやれば良い。
驚いて二度と「親切」をしなくなるでしょう。

まぁ、おばさんが(婆さんも)自分の気にいらないことがあると
面と向かっては反論しないが、よそで悪口陰口をたたきますよね。
でも言わせておけば良いとおもう。
悪口を言えば言うほど、本人の精神と健康を蝕みますからね。



話題の義妹ですが、子供が一人なのに帝王切開二回。
(一人は死産)
その後二十年近く経ってから、子宮関係でまた腹を切っています。
私は手術をしたことが有りません。
ああ、「正しいおばさん」でなくて良かったw
そういえば、自己中でわからずやのH子さんも腹を切ったことは有りません。
わがままですが愛嬌があり単純なので付き合うのに全然嫌では無い。



思うに腹を切ることになる人は・・・
◆自分は正しいと思っているので切腹をしなくてはならない羽目になる
◆自分の悪想念を自分の中の中の自分・・・潜在意識は知っているので
  自分を罰するために腹を切ることになる
◆口と腹が違うので、「実は本当は腹はこんなです〜」と腹を切って中を曝け出すことになる

のではないか?
(他にも原因は有るだろうが)
いくら隠しても隠せないってことではないかな。




まあ、私も相
当腹黒いんですけどね。
切らずに済んでいる理由は「自分が腹黒いことを自覚している」からだとしか、言いようが無い。
自覚してさえ居れば良いと思う。

「居直る、その態度は如何なものか」

ま、そうですけど。
本当は腹黒いのを改善して
「心清い人間」になればいいとは思いますよ、そりゃ。
でも難しいんだなあ、それが。

「怠けてないで、やれよ」

あんたに言われなくたってやりますよ!
あんたに言われる筋合いは有りません!
(態度悪〜)←あ、また一つ「自分の悪想念」に気付いてしまった。素晴らしいな自分♪



えへへ〜



えへへh〜〜〜



えへっへへ〜〜〜〜



とにかく。
人間は生きていれば毎日のように悪想念が沸いてしまうものです。
勿論そのようなものが沸かないのに越したことは有りません。
しかし沸いてしまったらのならとりあえずでもそれに気付けば良いのではないだろうか?
悪想念を抱いているのに、それを「悪想念である」と分からない感受性の鈍さと判断力の乏しさ(勘違い)
これが切腹の原因だと思いますよ。
だからこう言ってはナンですが『善人』ほど切腹(他の手術)をするのではないだろうか?
(※本人の意識では悪想念を抱いていても気付かず、むしろ「良い」と思って、勘違いをしている。
   そしてその勘違いを基に今度は「正義感」を発揮する。
   その「正義感」とはその人だけの正義である。
   50代以上のおばさんが毎日のように発揮している「正義感」は殆どがコレではないでしょうか?
   独りよがりの正義感を発揮されたほうとしては、たまったモンじゃありません)
 (※それに気付かせるための病気です。
    特に開腹手術は、そうだと思っています。
    でもそれでも気付かない人が殆どですけどねw)