hinoatarubasyo     人間のいろいろを書いていきます。記事は上に追加されますモアイ




<この一年>(2010年6月5日)


私のお客さん(男性)は毎年この時期になると絵を依頼してくれます。
それを見て自分の今の状態を知るため、らしい。
以下はメールのやりとりで、濃い文字がMさんです。




おお、Mさん、絵の依頼、ありがとう御座います!
もう一年経ったかぁ・・・早いですね。
 
全体的に速くなってるので、この世の時間的には1年は1年に変わりはないので、
 感覚的には確かにあっても、そういうことを研究したり、公表したりする人がいないですよね。
 高速道路のスピード感覚と同じで、一緒に走る隣の車線の車も同じスピードなのでわかんないのですね。
 そう思っている人は相当たくさんいるはずなのですが。
 
一年ごとにどうでしょうね?
世の中はどんな感じに変化して行っているように見えますか?
 
全体が早回しだから、世の中の変化も急でしかも極端ですよね。
 
・異常気象(極端な寒暖差、大雨、地震頻発など)
 ここ数年、観測史上初めてという異常気象の報道が多いですね。
 観測といっても明治からでしょうから、たかだか100年程度なので、
 もっと長い地球の歴史でみれば、こんなこともあったんでしょう。
 
 しかし、四季がなくなってきているというか気候が変化していることは間違いないです。
 世の中的には一応、地球温暖化のせいにしてますが、それはあまり関係ないような感じもします。
 地球(神)というくらいですから、人間的な力で壊れるほど地球はやわではないのではと思います。
 それよりも大きな宇宙全体の変化の中のひとコマにすぎないのではと思います。
 
・伝染病(新型インフルエンザ、口蹄疫)
 どこからきたんですかね。
 中国から黄砂にのってきたという話もありますね。
 実際、中国の工場の大気汚染が飛んできて、光化学スモッグが出ているそうですね。
 光化学スモッグなんて私が子供のころの話ですが、それがまた発生しているそうです。
 最近そういえば、空を見ると見かけないような変な筋雲もよくみます。
 ケム・トレイル(chem trail)といって、化学物質などを空中噴霧することによって生じる飛行機雲のような航跡
 かもしれません。なんか実験しているのかもしれません。
 69さんが書いておられるように、四足は食べてはいけないということを、神は示されているのでしょう。 
 
・政治・経済の混乱
 政権が一年もたない状態がここ何年も続くというのは、世界からみてどうなんでしょうかね。
 足の引っ張りあいなので、誰がやっても今のままでは同じですね。
 国民の意識の表れなので誰が悪いといえばそういう政治家を選ぶ国民みんなの責任なわけです。
 しかし、上が変わるたびに方針や政策がころころ変わると、下々も右往左往して混乱する当然の結果ですね。
 巨大なトレーラーやタンカーなどは急に大きく舵をきると転倒したり沈没してしまいますが、
 日本はそんな風にも見えます。

 話が飛躍しますが、国民の意識がまだ高まっていないので、こういうときは、
 美しい日本だとか友愛だとか精神的な抽象的なことをいっても政治になりません。
 こういうことは宗教家にまかせるべきです。
 政治家は日本にとって損か得かだけでひたすら動く、またそういうわかりやすい人を選ぶべきでしょう。
 小■一郎などはこういう大乱世に適任だと思います。(個人的には傲慢、剛腕なタイプは大嫌いですが)
 理想は、政祭一致、高い意識のもとで人々がまとまるのが理想だし自然かと個人的には思います。
 (古代ギリシャ、邪馬台国。。。古くは政祭一致で政教分離なんて近代になってからですからね。
 ただし、そう●●”っ●い のようなものを肯定するものではありません。宗教というより高い意識という意味です)
 
「スターマン」の感想・・Mさんらしい読みですね!
私が一番感動したのは最後にアメリカの軍隊の上に「超巨大な球形宇宙船」が現れて
ヘリコプター達が一斉に着陸する場面。
あれには感動します。
地球人の予想をはるかに超えたとてつもない文明があるんですよ、
それを知りなさい、みたいな気がする場面です。
 

→「地球人は知性はあるのに野蛮だ」とスターマンが言ってましたが、地球人の予想をはるかに超えた文明はあると思います。
 それは物質的にも意識レベルでも高いものだと思います。  



示唆に富んだお話、ありがとう御座いました。



<肉が食べられなくなった>(2010年6月3日)


OTさんより。

先日 こんな事があったので それを書かせて頂きます。
先月11日の夜、3連休が取れたから・・といって大阪で仕事をしている娘が遊びに来る予定でしたので
朝から家の掃除をしたり、バタバタと用事をこなし 大好きな「肉じゃが」を作りました。
ただ、この日は蒸し暑かったし、張り切りすぎたせいか 私は夜になって熱が出始め 娘が来るまで横になっていました。
娘が無事到着、久しぶりに3人で囲む夕食、私はあまり食欲はなかったのですがとりあえず席に着きました。
主人も娘もとても美味しいと言って食べてくれるのですが
私は一口食べただけでとても気分が悪くなり ほとんど手をつけられなかったのです。
 
翌日、熱は下がりましたが気分の悪さは続き 娘と車で遠出をしたりしましたが最悪の体調でした。
その日の夜は娘のオーダーで焼肉でしたが これもまったく受け付けず、野菜ばかりを食べていました。
そしてその後、ひどい下痢に襲われほとんどトイレから出られない状態・・・
そんな事が14日まで続きました。
それ以後は 大好きだったお肉が食べたいと思わなくなり 今は野菜中心の毎日となりました。
今思えば お肉を食べていた時より 体調が良いように思います。
同じような事 あるんだなぁ と思いました。


人間は本当は獣の肉を食べなくても良いように出来ている。
肉食をするとOTさんのように身体の具合が悪化するのが正常なのです。
でも、世の中では肉を食べることが何か高級なことのように”常識”が作られています。

私が子供の頃、漫画やテレビでは「うわあ!今夜はすき焼きかあ!ご馳走だぁ!」みたいな
表現がされていました。
私は肉が好きではなかったので、それが不思議でした。
それからン十年。
テレビや漫画の「すき焼き=ご馳走」は洗脳だったんだ・・・と分かりました。
当時の大人の純粋な素直な気持ちだったのかもしれません。
当時の大人は戦争中、戦後はロクなものが食べられなかったので、
すき焼き=ご馳走、だったのかもしれません。

なので、戦後20年も経った頃、やっと肉食が出きるようになったので、
純粋に素直に「肉食=ご馳走」と感じたのでしょう。
当時の大人は今は爺さんです。
この世代をご存知の方は多分「何も通じない世代である」と感じるのではないでしょうか?

肉に関する問題が数年前(十年以上前?)からどんどん出て来ていますね。
今の爺さんの世代が作った、この仮想現実を「仮想である」と分かり、
そこから抜け出ることが求められているのだと思いますよ。



<ちょっといい話/コペンハーゲン>(2010年5月20日)



<口蹄疫>(2010年5月22日)


YYさんから。

さて宮崎県の口蹄疫ですが、ものすごいことになっていますね。

一時的にしろ、恒久的にしろ、
和牛ブランドの衰退は避けられないと思います。

下手したら、今の形の畜産はもう終わりなのではないでしょうか?

でも私自身は、もしかしたらそれでいいのではないだろうか、とも思っています。

もちろん当事者の皆さんたちの苦しみは余りある物ですが、
この事態は畜産業、ひいては「四つ足を食べること」について
想定できるリスクの内に入るもので、(国がここまで役立たずなリスクは入ってないかもしれませんが)
その原因には「考えても仕方ない」「そんなことは言っていられない」という諦めで
直視してこなかった『ある問題』があるはずです。

それは簡単に言えば
「本当に牛豚を殺して金を得たいか」
「本当に牛豚を大量に食べる必要があるのか」
「『牛豚を自分では殺せないが、人に殺してもらって食べている』とはどういうことか」
などです。
(もっとたくさんありますが、3つだけ挙げてみました。)

日月神が
「四つ足を食べてはならん」というのはなぜか、
その理由にもつながっていく問題だと思います。



ともあれ、
みんながみんなして見ないようにしてきたリスク(恐れ)が表に出たから、
やっと「畜産業(四つ足を食べること)のカルマ」という問題を直視する環境が整った。

(口蹄疫の惨状は地獄絵図ですが、そもそもその前から地獄で、それがやっと表に出た。)


今、私たちにとって、
宮崎の畜産業の方々を各々の出来る方法で助けると同時に、
一人一人が今の畜産業の形について考えなければならない時期が来たといえると思います。

しかし、それでも直視したくない人はしていません
ね。

ここでも2極化ですね。



私は牛や豚を食べるのを、口蹄疫が始まる少し前に止めていました。

家畜がすし詰めになってトサツ場へ向かっていくトラックを見るたびに
「やっぱりなんかおかしい」と感じる気持ちを、
とうとう無視できなくなったからです。

四つ足を食べるのも自由、食べないのも自由だと思っていますが、
パックで売られている肉の塊がどういうふうに出来たのか知らずに食べられる・食べさせられる現状は
ものすごく大きな葛藤を生んでいることでしょう。


この事件は、

「これからも食べるか」「食べないか」

『続けるか』『続けないか』


そんなことは考えたことがないという人たちにとって、
自分の姿勢を決める最後のチャンスだと感じています。
(「肉食べないから高次元」とかじゃなくて、どういうふうにあるかを決める)


だから、69さんの「この事態は(大きく見れば)神の慈悲」という意見に賛成です。

今の形の畜産業からは速やかに変わったほうが良いと思っています。
「家畜がかわいそうだから」という理由だけではなく、間違っているから。




同感です。
今、宮崎県で起こっている問題と肉食の是非は別問題なので、きちんと分けて考えることが出きるはずです。

@まず、日本人は肉食を止めようではないか
A現在の畜産業は、今生きている家畜を最後に廃業
B畜産業の人達には他のことに従事してもらう。勿論補償金は出す。
  子供手当てなどというバカげたモノに使う金が有るくらいなので、全国の畜産業者に払う金は勿論あると思う。

単純なことですが、実行は難しい。
でも、やる意味と価値はあります。




また、コトは畜産業だけに留まらず、全ての面での見直しが必要であることは言うまでもありません。



<PTA>(2010年4月24日)


がちさんからメールが来ました。


69様こんばんは
 
お久しぶりです 蓮月龍ことがちです
 
いつも為になる記事ありがとうございます
 
最近800を読んでPTAでお悩みの御父兄が多いのにびっくりで
思わず自分の体験談をメールします
 
私達はドドドドド田舎にIターンして来た変人なんで しかも移住して
息子が障碍有って判ったのもあって
お祭り関係やら 消防団関係やらPTAは進んで一通りやってます
(子供が受け入れてもらうにはまず親が地域に貢献せねばと思ってです)
 
そこで学んだのは
人の嫌がることをやるという事は
「文句があるんだったら 来年は私の立場にオタクらを指名するので私以上の
活躍を期待するっす よろしくメカ゛ト゛ック゛!」

と言える(脅してない・・・つもりです・・・)権利を取得することだと思います
それだけと言えばそれだけですが。(もちろん子供の為を思って与えられた仕
事を一生懸命活動するのは大前提ですが)
 
上の文言を「言ってやる〜」「言っちゃった〜」位の心構えの御父兄だったら
(ええもちろん 私は言っちゃった〜の人です 波動低!)
PTA活動は意外と苦にならないと思いますと、自分の経験を伝えたくメールしました。
 
一緒に活動してみると、選ばれて嫌々なのかなって思ってた人が実は子供の為
に活動している人を知る機会にもなりますし
 
でもアセンションしたら真っ先になくなるものの1つはPTAだと私も思ってます

この場合の「人の嫌がること」というのは、それをやると他人が迷惑を蒙ることではなく、
他人がやりたがらない義務、という意味ですね。
がちさん、参考になるのでこれを掲載させてね。


おはようございます がちです
参考になりますか?それは良かったです
 
子供の為にした事は子供の良い笑顔で
還って来るので絶対報われると思います

 
この私でも出来るからたいした事ないと
皆さんの気が楽になりますように




<波動の違いを感じる人/PTA>(2010年4月20日)この記事の下にもう一つ記事を掲載しました


Hさんから。


その後、早速PTAの役員選考があり、選ばれてしましました。
やられました・・・。
 
こちらでは市立幼稚園があり、ほとんどのお子さんが幼稚園からごっそり入学してきます。
そのほかは保育園や私立幼稚園のお子さんです。
 
・・・で。
 
うちは保育園から入学ですので、お子さんもお母さん方もほとんど知りません。
25名のクラスメートのうち、知ってるのはたった一人でした。
そんな中で、くじびきならまだしも、投票での選出です・・・。
 
幼稚園のママたちが結託したらしく、ものすごい得票数で選ばれてしまいました。
2名選出で、もう一人のママも保育園の方でした・・・。

(※TQ霊はこういうコトを何の罪の意識も無く、やりますね。むしろ得意になってやります。
   自分達がやっていることがTQなことなのだ、と分からないのです。
   TQ霊とは生きている人間のことであり、思考力の無い人達のことです。
   勿論死んでいるTQ霊もいます)
 
まーしかし、これも潜在意識が学ぶために引き寄せた現象であるだろうし、
なんぞ(魂にとって)ええことあるんちゃうか?とPTAの全体引き継ぎの集会へ行ってきました。

 

そしたらまぁ、波動の低いこと!!
 
しかたないですね。
ほとんどの方が嫌々選ばれた人なうえ、PTAそのものが予算もないのに、
こういう決まりだからやらねばならないって感じで活動しているみたいだし。
 
子どものためなどといいつつ、ちっとも子どものためではないですね。
親のエゴだらけです・・・。
 
少し前、800で「なくなるもの」というクイズ企画(笑)がありましたが、PTAもアセンションしたらなくなりますね。確実に。
 
(※日月の神が許さないモノは何一つ存在できなくなるそうです)

もっと心から子どもたちのためになることを直感的に察知して、自発的に活動するでしょうね。
同波長のママたちが集まって。
 
まぁそんなことを思いつつ、頭痛くなって帰ってきました・・・。

 

800のセミナーの記事にあったように、波動は高いところから低いところへ流れますが、
全体が低いと高くてもやられちゃいますね。
一人が低くて周りが高くても、同じみたいですし。
 
いろいろな意味で、新一年生でいきなりPTA役員になったことも、何かの学びといいますか、
経験として大切なことなんだろうと思います。
 
パソコンができるので、庶務をやらせていただくことにしました。
とりあえず、できることから進んでやってけばよいか、と。


(※PTAはどこもそんな感じです。実にTQなのです。何故なら「今の世の人の8割は獣の入れ物」と
   日月神が言う通り、圧倒的に獣の入れ物の方が多いのです。
   バカや悪質なもの、タチの悪い者が上にいるのです。それをピラミッド予言では「逆様の時代」と言います)




しかしHさんのように汚い手を使って役員を押し付けられても、それを良い方に解釈していける人ならOK。
他人に集団で役員を押し付けた人達には多分年内か来年には、その報いが来るでしょう。
何故そんなにすぐなのか・・・そうじゃないとそれが原因である、ということが分からないからですよ。
押し付けた主婦が20人居たとしましょう。
その20人が年内にまずいことになれば?嫌でも気づくでしょう?
「そういえばAさんも」「あら、ヤだ、Bさんもよ!」「うっそ===!Cさんも!」みたいな?
ほらね、実に分かり易いw

(※具体的には本人の怪我、大怪我、病気、入院、子供の怪我、大怪我、100万人に一人の奇病に罹り入院
   ご主人の怪我、大怪我、病気、入院、
   ご主人の会社の倒産、ご主人の失業、家出、浮気、暴力、本人及び家族が交通事故、火事、破産、詐欺に遭う、
   親が倒れる→入院→看病→退院→在宅治療→夫婦喧嘩→一家離散→子供は施設、旦那は蒸発、
   盗難に遭う、電車でスラれる、電車で痴漢に間違われる、本人が道を歩いていたら、人間違いで顔を殴られる→鼻の骨を折る
   自転車に乗っていたら道に穴が空いていた→穴に落ちて転ぶ→顔面骨折、
   子供が級友と遊びに行き、その人の子供だけが怪我をする、打ちどころが悪くて下半身が不随になり、奥さんは一生看病。
   隣の家が敷地のことで文句を言って来る、今まで15年間何も言わなかったのに、急に思い出したようだ。
   高速道路の側道を走行中、高速道路からコンクリートミキサー車が何故かその人の車に落ちて来る、
   普通にショッピングセンターを歩いていたら、なんと通り魔が出現!刃物を振り回し、喚きながらこちらに走って来るので
   慌てて近所の店に入ったら通り魔はその店に入って来て、その奥さんを追いかける、逃げ道が無い・・・・

   とか。

   異常、いや以上、少しだけ例を挙げてみました)


報いの内容はその人達に相応しいモノが寄って来る。
その波動に見合うほどの何か、です。
Hさん、経過報告の方、よろしくお願いします。




<揺さぶられる人/息子の同級生>(2010年4月20日)


息子が小学1年生になり、友達はどんどん自分で見つけてくる
ようになりました。昨日は、新しい友人の一人が我が家に勝手
に入ってきて息子を叩くわ、触るなと言ったものを触るわ、帰
れと言っても逃げ隠れして帰らないわ、親を呼びだしたら叱れ
ない親のようで、うちの玄関の前で30分号泣させっぱなしだわ
で、またあいつが来たらどうやって追い返してやろうと思って
怒りで眠れませんでした。

ちょうど今朝、kanchamaさんの記事の紹介を読んで、

(※「トムピリビと一緒に」の記事のこと)

自分が揺さぶられ過ぎな事に気が付きました。

quote-------
個人的な感覚としては「ゆさぶり」にご用心です。
他人の心を揺さぶって不安を維持しては、何かをぶん取ろう、
という存在がいます。
旧勢力というか、、、。説明は割愛しますが悪気はないんでし
ょうけどね。

その時に一緒に動揺すると、そういった勢力にエネルギーを盗
まれますので
(ただでさえ疲れるのに迷惑ですよね)なるべく動揺しないよ
うに
コアをしっかりと持って、、、逃げるが勝ちかな?という気が
します。

unquote-----

これからもこんな事は増えるんでしょうけど、腹を据えて家庭
を守っていきたいと思います。




そうですよ。
家庭の主婦の最も大きな任務がそれです。
家族の中心になり(セントラル・サン)、中心なんだからズレてはいけない。
四方八方に目配り気配りをし、管理するのが任務です。
家事労働はそれに比べたらつけたしのようなものです。
それが見えない旦那じゃダメですが、殆どの旦那にはそれが見えて無いのですが
それでも旦那を捨てないで太陽の如く、見返りを求めず輝いているのが主婦w

(※でも、たまには、分からずやの旦那に天罰を与える、と)




<感受性の話4・・・天国と地獄>
(2010年4月16日)


下の記事のように、人が違うと感受性もかなり違ってきます。
なので人間関係において、感受性が違い過ぎると様々なことが起きます。

たとえば一方が大雑把で寛容、細かいことを気にしない性格なのに
一方は細かいことを気にすることが楽しく喜びである場合。
気にする方の人はそんな自分を「やたら細かいことに拘る小さい奴」などとは思っていません。
「こんなコトにも気づく自分って凄い」と思っているフシもある。

このように感受性がかけ離れてしまうと、一緒に行動する際に問題が生じることがある。
それはお互いが自分の我を発揮して譲らないからです。
つまり、相手を認めない。
ところが感受性が違い過ぎる同士がお互いに相手の長所を認めあったらどうでしょう?
そうすればお互いの欠点を補いあい、仕事でも何でも完璧に近くやれますね。

ほんのちょっとした、心の向け方の差によって
片方の場合(お互いに相手を認めない)は地獄となり、
片方の場合(お互いに相手の長所を認めあう)は天国となります。

天国と地獄はこのように、ほんのちょっとした作業(心の向け方、有り方を変えること)で生じます。

よく、あの世に天国と地獄があるのではない、この世にあるのだ、と言います。
それはこの世で地獄的に生きて来た人(我を張る人)は死んでからも地獄的な世界へ逝くし、
この世で天国的に生きて来た人(我を引っ込める人)は死んでからも天国的な世界が続く、というわけです。

本当に天国と地獄は(日月神は、そういう世界は無く、そのような状態があるだけ、と言いますが)
紙一重(かみひとえ)であり、単純であり、難しいのです。




相手は人間に限らず、全てにおいて、それはいえます。

たとえば下の記事<落ち葉>で言えば、
同じモノを目の前にして一人の婆さんは呪い、一人の婆さんは感謝しています。
これほどの差が出る。


ある調査によれば人類が発する想念の98%は否定的なものだそうです。
日月神は「世は八分通り獣の入れ物」と言います。
それくらい、今天国的な想念で生きるのは難しい。
ちょっと心を変えるだけのことがとてつもなく難しいと言えます。

心は急には変わらないので、日頃からほんのちょっとでもいいから、
想念を良いモノにするよう、心掛けて生きないと時間が勿体無い。
「私は悪くない、相手が悪い」ということが多々あるのは分かりますが、
相手がバカ野郎、バカ女なのはよおおおおおおく分かりますが、
そのために心を曇らすのはいかにも勿体無いので、そういう場合はなるべく早く自分の心が明るくなるよう、
努力(様々な手段を用いること)しましょう。




<感受性の話3・・・落ち葉>(2010年4月9日)


昔読んだ本に載っていた実話です。

秋になるとお寺の境内に紅葉の落ち葉が沢山落ちる。
(※元の話が寺だったのか神社だったのか忘れましたが、ここでは寺としますね)
毎日沢山落ちるのでそれを掃除するお婆さんを雇ったのか、
特に落ち葉掃除と限定していないが、手伝いのお婆さんが居た。

一人のお婆さんは毎日毎日キリも無く落ちている落ち葉を掃きながら愚痴を言っていた。
「まったく掃いても掃いても落ち葉が落ちてきてキリが無いったらありゃしない。
こんなことやりたくない。嫌で嫌でしょうがない」


この寺とは違う寺のお婆さんは
「毎年こうやって落ち葉を掃いてますが、私もトシなので今年で最後かな、と思うと
 こうやって落ち葉を掃いて暮らせることが有り難くて仕方ないです」




同じ現象を前にして感じることがこうも違うのか・・・という事例でした。
これが感受性の違いです。
天と地ほども違いますね。
人間は見かけがだいぶ違うけど、中身はもっと違う・・・というのが、体験から得た私の意見です。




<感受性の話2・・・アメリカ人の話>(2010年4月5日)


昔読んだアメリカ人の体験談。

その男性は自動車事故で臨死体験をした。
魂(幽体?)が身体から離れ、事故現場から浮遊しました。
事故の現場から後ろに車が何十台も停まっているのが見えました。
驚いたことに魂(幽体)だけになった彼には他人が考えていることが分かったのです。

車を停められた運転手の殆どの意識はこうでした。
「ちっくしょう、なんてこったい!」
「いったい何をしているの?早くしてよ!」
「ちっ!事故を起こしやがって!どこの馬鹿野郎だ!」
「冗談じゃないわ、全く!」
「おい早くしてくれよ=、オレは忙しいんだ!」
「あ====!もう、嫌になっちゃう!」


人類の思い、考え、意識の98%がマイナスの想念なんですと。
この情報の出所は一箇所ではありません。

マイナス想念(怒り、呪い、軽蔑など)が渦巻く中でたった一人、
或る女性が事故を起こした彼のために祈っていたのが分かったそうです。
彼はその想念に引き寄せられます。
その女性は
「ああ、神様、どうか事故に遭った方をお救いください!」と真剣に祈っていたそうです。

その後彼は救急車で運ばれ九死に一生を得ました(
実際は一度死んでましたw)
生き返って怪我も癒えた彼はあの事故の時、祈ってくれていた女性を見つけ、お礼を言ったそうです。
(多分臨死体験中に女性の情報を知ることが出来たのでしょう)



さて、何が言いたいのかというと。
人間は本人が考えることそのものである、ということです。
この世の98%の人はマイナスのこと、低波動のこと、自分の得、我良しなのだ、ということです
たった2%の人がプラスのこと、高波動のこと、他人のため、を思っているのです。
普段は良い人でもこういう時にマイナスな想念を抱いてしまうのは分かります。
急いでいるときとかね。
でも、そういう時でも他人のために真剣に祈ることが出来る人がアメリカ人にいる、のです。




良いことを思え、と言うのは簡単、聞くのも簡単です。
しかしそれを実行するとなると大変困難です。
たった2%の人がマットウな想念ではない、という情報はヒドい事態だな、と思いますが。




<感受性の話1・・・ダレン・シャン>(2010年4月1日)


今日映画を見て来ました。
あまり興味が無かった「ダレン・シャン」という映画です。
これは子供(十代)向けの映画ですかね。
まあ面白かったです。




映画のネタバレになっちゃいますが、書きますね。
主人公はダレンという高校生です。
ダレンの親友のスティーブは家庭に問題が有り、問題児に成長してしまった。
ダレンは両親と妹がいる、ごく普通の典型的な平凡な幸せな家庭に育ったこともあり、
高校生としては真面目で素直なのです。


ダレンは親友の命を救うために半分ヴァンパイヤになります。
苦渋の決断です。
ところが親友のスティーブが本当はヴァンパイヤになりたいと望んでいたのです。
彼は強者となって人類を膝まづかせたかったのです。
ダレンは親友のスティーブがそのような野望を持っていることなど知らず、
親友の命を助けたいために自分が犠牲になる道を選びますが、
スティーブはそのダレンの行動の結果を妬ましく思い、恨みます。




ダレンをD、スティーブをSとしますね。

Dは物事の見方がとても素直です。
真心があるし、大事な人のために犠牲になることも厭わない。
家族を愛し大事に思っています。
自分はヴァンパイヤになってしまいますが、血を飲むのを拒否します。
自分がヴァンパイヤになったのは親友の命を救うためで、それ以外には無い。

それに対しSの方は家庭も学校も面白くない。
物の見方が偏っていて、自分さえ良ければ良いという態度。

彼はヴァンパイヤになりたいのですが、その理由は弱い人類の上に君臨したいからでした。



彼らは高校の親友でしたが、モノの見方が正反対なのです。
同じモノを見ても感じるものが180度違う、対極にいます。

たとえばヴァンパイヤを殺す、ヴァンパイヤの中でも邪悪な存在がいますが、
Sは自ら進んで彼らの仲間になる。
その邪悪なヴァンパイヤが死ぬ時、魔術によって醜い生き物にされてしまうのを見たら
普通なら「そんなことは止めろ」と思うのですが、Sは感受性がおかしくなっているので
その魔術をオレも使いたい、教えてくれ、と頼むのでした。




この映画は単純な正邪の映画でもありますが、大事なことを教えてくれました。
何が正で何が邪なのか。
それは感受性の違いです。

正の方は感受性が素直で明るく、行動の規範は「他人の為」です。
邪の方は感受性が歪んでいて暗く、行動の規範は「我よし」なのでした。
それを分かり易く描いてくれたハリウッド映画でした。




「人間とは考えること、そのものである」とは西洋の賢い人の言葉です。
考えることは感じること、としても良いでしょう。
つまり感受性がその人間そのものである、と言えます。

同じ物事を見ても感じることは千差万別。
それによって自分の魂が住んでいる(所属している)階層が違ってくる
のですが、
このことを理解する人はいるでしょうか。
これこそが最も大事なことなんですけどね。




あまり興味が無かった映画「ダレン・シャン」ですが、このことを考えさせるために
見させられたかな、と思っています。
ついでに渡辺謙の演技、良かったですよw
ハリウッド映画の中で全然浮いていませんでした。




<三盆選考>(2010年3月29日)


タイトルは当て字です、夜露死苦!

三盆選考を提唱している人がいます。
アクセス数が桁違いに多くとても人気があり本まで出している。
ところが三盆選考をするとまずいことが起こるそうです。
あの世、四次元に彷徨っている良からぬモノが三盆選考が作る入り口というか、出口から「出てくる」そうです。



選考だけなら良いのだろうが、何か言葉を唱えさせるそうです。
選考と言葉によって召還するのでしょう。
呼ばれて出て来るらしい。

三盆の選考で作る三角形が入り口になるんでしょうね。
神道系の或る人達は決まった石で三角形を作るとそこから異次元のモノが出て来るそうです。
こちらから「行く」ことも出来るそうです。

なので三角形はあの世とこの世の間にある出入り口である、と言えそうです。
たしか或る古墳に三角形が描かれていたような気がします。
これも出入り口を表しているんでしょうかね。




友人のNさんから聞いたのですが、Nさんは楽器を習っている。
その楽器の先生がスピリチュアルなことが好きで、Nさんとトンデモな話をしては盛り上がっていたそうです。
ところが或る日、その先生が三盆選考を信じ始めた。
Nさんは「それはヤバイっすよ」と言ったところ、先生は三盆選考が良いものと信じて疑わないので
Nさんが説得すればするほど感情的になり、拗れてしまったそうです。


もう一人、Mさんの話では以前はとても仲が良く話が通じていた友人と
久しぶりに会話したら生気が無いような感じで話は全く面白く無く、いったいどうしたのだろうと思ったら
その友人、三盆選考を実践していたそうです。
Mさんは以前その友人に「それはヤバイ」と教えたのに、その友人は「心が落ち着く」のだそうで
こうなったら説得は無駄と悟り、口をつぐんだそうです。




このように以前は気が合って会話も弾んだ間柄でも、三盆選考をするかしないかによって
話が噛みあわない、ちっとも楽しくない、という程までに距離が出来てしまう。
会話して楽しくない、話が噛みあわないのは異波長である、ということですから
三盆選考をするかしないかが、大きな分かれ目になっているようです。
@三盆選考を胡散臭く感じ、「あれはヤバイ」という情報をすんなり理解できる
A三盆選考を良いものと感じ、すればするほど心が落ち着く

この二つの距離はこれから縮まることは考えられず間がどんどん離れて行くことでしょう。



いくら善意でも、頭も心も使わなければ結果は決して良いものにはならない・・・というサトリが
普通の人には無いので、だから「何も考えずに行動する」。
その姿は頭と心を使う人からは見えるが、彼らには自分の姿が見えてない。
(いや、見えているんです、自分なりに。でも、自分なりにしか「見えてない」ので、私はそれを「見えてない」と言います)



三盆選考の道を歩んで行く人は、何もしない人よりもまずい、ということはお分かりですね?
そんなことをするくらいなら何もしない方がマシです。
「触らぬ神に祟り無し」と言いますよね?
自分がやるべきことだけを地道に行っていれば良いものを良かれと思ってやってしまう。
提唱している張本人も三盆選考を良いものと信じているのでしょうかね、分からないけど。

このような落とし穴はあちこちに空いてます。
思考力、判断力と常識があれば「分かる」のにそれが乏しいために、そのようなものに引っかかってしまう。
日月神も
「慢心と取り違え、多いのぞ」と警告しています。
提唱している張本人が生かされているのは、その人にもお役目があるからです。
日々何も考えない生きているくせに「何かやりたい人」「他人の忠告を理解出来ない人」「感受性が鈍りきった人」
「素直さが無い人」「自分の本分に専念できない人」「特殊なことを求める人」など、間違った生き方をしている人を
引っ掛け、連れて行くという役目です。
神はこれを
「悪の御用」と言ってます。
必要な役目なんですと。



これだけでなくあちこちに落とし穴はあります。
提唱者の本を読んだ人、サイトを見た人が言うには「当たり前のことが書いてあるだけ」「あちこちから引用した言葉の羅列」だそうです。
こういうのに引っかかる人は精神世界の知識が乏しいのでしょう。
本物を知っていれば偽者に騙されることは無いのに、本物を知らないから騙される。

私は若い頃高橋信次の著作を読んだので、霊については或る程度の知識がある。
なのでちょっとした霊能者などには騙されることが無くなった。
どうせ読むなら高橋信次の著作を読めば良いのに、と思います。



高橋信次の著作は10冊くらいあるでしょうか。
「心の発見」数冊「心の指針」数冊「悪霊」二冊・・・などとても面白く参考になります。




<安心立命(あんじんりゅうめい)>(2010年3月26日)


あんしんりつめいとも読みます。

下の記事<そんなに恐いか他人の念>の続きです。
念には大きく分けて三種類あるそうです。(シュタイナーの理論)

@自分がなんとなく発した念で、本人の周囲を漂っている
A誰かを目掛けて一直線に矢のように飛んで行く
B特定の人向けではなく、本人から四方八方に放射される




念の形状については下の本が参考になります。



上の本には邪悪な念も載っています。
カタチは釣り針や鉤のようで、想念の邪悪さを表しているし、色は汚くて想念の汚さを表しています。




念というのはたしかにあるものだし、邪悪な念が特定の人から私達に向けられることもあるでしょう。
また、四方八方に拡散した念がたまたま自分の所へやって来ることもあるし、
邪念を発した人が去った後、たまたまそこを通りかかって、その念の中に入ってしまうこともあるでしょう。


私はそこらへんが鈍いので何も感じませんが、敏感な人は感じるのでしょう。
が、ただ体調が悪くなったことを邪念のせいにしたりするのはまずいのでは?と思うのと、
まぁ、念のせいにしてもいいが、恐がるのはどうよ?と、言っているのです。

念が来ているのか来ていないのか、それはどういった性質のものか。
@の場合なのかAなのか。
@なら誰の念なのか?調べたら良いと思うんです。
ペンジュラム・トランプ・サイコロ・カードで調べられます。

そしてはっきり念が来ていると分かったら、防御すれば良いことです。
この一連の作業の中に「恐がる」という感情は必要無い。
ぶっちゃけ言うと来てたっていいんですよ。
防げばw

それをせず徒(いたずら)に怯える、その心の方がヤバイと思いますよ。




念などという見えないものが何故そんなに恐いのか、理解に苦しむ。
と言ってる私も去年いきなり凄い腹痛を起こし、3日間寝込みましたが、原因は死霊の障りだったそうです。
が、それを知っても全く恐くありません。
それならそうで、原因が分かって良かった。
対処法を学んで次回からは防いでやるさ、と思っただけです。

「思いは生きている」という本には重要なことが書いてある。
他人からの念が恐いというレベルの人はぜひ読んで欲しい。
他人からの念を跳ね返すほど意識を上げれば良い、と書いてある。
それが出来てこそ「安心立命」と言える。
そうなるためのスピリチャルなのではないだろうか?
それが出来なくてスピリチュアルなどと言えば、おこがましい。




<そんなに怖いか他人の念>(2010年3月25日)


昨日市内に住むAさんからメールが入りました。
絵の依頼も来てないし「明日遊びにおいで」と返信したら「いいんですか?」と喜んでいます。
今日はあいにくの雨でしたが、Aさんはバスで我が家の近所の大型店にやって来ました。
届いたルーンで占いをしながらAさんの相談に乗ってました。

Aさんは念を受け易いと本人が思っているので、それが体調にも表れてしまっている。

◆その人達がAさんに念を送っていることは考えられない。
  何故ならその人達にとってあなたは何でも無い人だから。
  多分眼中に無い。
  あなたがその中心人物に気に入られたら、皆から嫉妬の念が来るがそうでは無い。
  あなたの体調が悪いのは自分がそこに居たのが耐えられなくて嫌になったからです。

  と、アドバイスしました。
  Aさんは他人から念が来ていると思って、盛り塩をしたが効かなかったそうです。
  それは他人から念が来てない証拠です。
  全てはAさん本人が、その場所に居るのが嫌で拒否反応を起こしたのだ、と解説した。
  Aさんは良く考えたら、納得しました。



Aさんのようにやたら他人の念に怯えている人は結構います。
人は何かを思えば念が発生する。
自分も常に念を発生させているのです。
しかし、他人から悪想念が矢のように飛んで来たら塩他で浄化すればいいし、
そんな念を受け付けないほど、自分の念(精神)を鍛えれば良いことです。
「Aさん、しっかりしなさい。地に足をつけなさい」と言いました。


  
自分が発した怖がりの念が行き場が無くて(そりゃそうだ。自分で怖がっているんだから、相手が居ない)
自分の周囲を漂うのでしょう。
常に怖がっていれば常にその念が発生する。
自分が発した恐怖の念は最も相応しい場所=つまり「自分」=の周囲を漂い、そして自分を怖がらせる。
だから自分はその念によってさらに怖くなる・・・増幅します。

悪循環です。



これは恐怖の念だけでなく、まぁ、恐怖が元なんだろうが、疑念なども当てはまります。
自分が他人からヒドい目に遭った。
またあのような目に遭ってたまるか・・・・・と思う、その心が自分の周囲に漂う。
その念が自分の周囲を取り巻いているので、他人の何でも無い言葉も、親切な忠告も全てが疑念を発生させてしまう。
こういう人は実際にいました。
説得は不可能です。
だって、本人はそう感じてしまうんだから。




言っては悪いがこのような状態になった人を私は「生きてるTQ霊」と呼びます。
明るく優しく親身になる、TQ霊は多いのです。
そこを何とか気づかせようとしますが、本人は「念が来ている」と信じているので始末が悪い。

(※たとえ善意の人であろうと証拠も無く、自分の体調が悪いことを他人のせいにするのは、マットウな人がやることでは無い)
このような人がまず確認するべきなのは「自分の念」なのです
そりゃ他人からの念は来ているだろうから、アファメーションや塩などで防げば済むことです。
それをしてもまだ心が落ち着かないなら、それは他人からの念が原因ではなく、自分の想念が原因でしょう。


幸いにもAさんは私の説明を理解したので、症状は軽くて良かった。
一時的に気分が落ち込んでしまうことは良くあるので、AさんをTQ霊とは言いませんが、
その状態が常に続くようならまずいです。




<悟った話3>(2010年3月25日)

ロンドンにある「LIBERA」という少年合唱団が歌う「Stay With Me」



同じ曲ですがメンバーが映っているバージョン。
Libera Stay with Me+Do Not Stand at my Grave
LIBERA-NEW DAWN




SoundTown/LIBERA

リベラの音楽監督、ロバート・プライズマン氏はこう述べている。

少年の声にはある種の特質があります。
それが特にスピルチュアルな素材に適っていると考える人もいます。
歴史的にも少年の高音域のそうした特定の特徴は教会音楽の偉大な作曲家達を触発してきました。
そのような特徴は社会環境や教会の偏見との関わりの方が深かったと否定的にいう人もいるでしょう。
しかし声変わりする直前の数年間の少年の声には
特別な質があることを否定する人はほとんどいないでしょう。
それは早く花びらの散ってしまう花ほど一層美しく咲き誇るのに似ています。
リベラは、新しい商業的なアレンジとテクスチャーを追求する一方で、
常にそうした儚げな性質を取り上げ、
古来の音楽スタイルからインスピレーションを導き出そうと努めてきました。




私が子供の頃、ウイーン少年合唱団というのがしょっちゅう来日していました。
当時の少女達は彼らが大好きでファンになっていました。
私はそのような趣味はありませんでした。
音楽にはあまり興味が無かったのです。

それからン十年・・・
おばさんとなった私が再び少年合唱を聴いたら、これはとても良いものだと分かった。
何故少女ではなく少年の声なのか?
それを考えてみました。

リベラの音楽監督のロバートさんが書いてるように、男子は声変わりをします。
声が変わる前のたった数年間しか、ボーイソプラノは出せない。
リベラには7歳から入団して一年間訓練をして8歳からデビューするそうですが、
それ以前の子供は勿論ボーイソプラノが出ますが、歌を歌えるかというと、
それは幼児の歌になってしまうでしょう。
また歯が生え代わる時期でもあるので歯がちゃんと生えてからでないと歌うのはまずいですね。
息が漏れますから。

なのでボーイソプラノで歌えるのは7歳から14歳くらいまでなのです。
声変わりは個人差が大きく、早く声が変わってしまう男子もいるだろうし、
この期間はもっと短くなる子もいるわけです。
なので一生のうちのたった数年間しか出ないこの声は大変貴重なものです。

ということをおばさんとなった私は分かった。

さらに、周囲の大人達はこの貴重な声が宝物であることを知っている。
それを知りつつ少年達にほんの短い期間でも、歌を歌わせているのです。
この時期しか出ない声。
その時期を過ぎてしまえば、どんなに努力をしても金を積んでも二度とは戻らない声。
そういう事情、つまり周囲の人達の心を思って、私は感動したのです。
少年合唱の真価がやっと分かったのです。
それが嬉しい。



このように子供時代には全く見えなかった諸々のコトが見えてくるので
年を取るということは良いことだなぁ、と思うのです。
心が豊かになる。
いや、年を取っても心が豊かではない人もいるので、一概には言えませんが、
年を取ることが良いことだなぁ、という年の取り方をすれば良いのです。




<悟った話2>(2010年3月22日)


ロンドンの少年合唱団リベラの「アヴェ・マリア」です。



この曲を聴いていたら悟ったことがある。
イエス・キリストが何故殺され、母マリアが悲しむことになったのかが分かりました。

人類の歴史において、人々が苦労も悲しみも無く生きて来た時代はありません。
イエス・キリスト以降、一般の人達は苦労や悲しみがある時は
十字架に磔にされたイエスを思うのです。
すると「主イエスがあれだけの艱難に耐えたのだから」と思える。
また、何が一番悲しいと言って自分の子供を亡くすことが一番悲しい。
世界には自分の子供を病気や戦争で亡くす母が沢山います。
その時聖母マリアも自分の子を亡くしたのだ、、、と、母親は慰められる。

そのためにあの親子はあのような艱難にあったのだろうな、と分かったのです。
その後の人類の艱難の道を少しでも慰め、勇気づけるために犠牲になったのだと。
こういうことは魂が神と同等でないと出来ないことです。




悟ると言っても私が使っているのは相似象で言うところのサトルです。
つまり「分かる」というほどの意味で宗教的な意味はありません。

悟るのは、頭でいくら考えても無理なのです。
悟る前に分かりたいと思えば、いつかひょんなことから悟れる。
その時、理屈(頭)ではなくて身体(感覚)が悟りの手助けをする。
見る・聞く・味わう・香り・熱い寒いなど皮膚感覚などです。




たとえば味覚。
味を言語(頭)で表現するのは大変難しい。
味覚は身体の分野です。
明治時代の文豪夏目漱石はイギリスに滞在中、紅茶を飲みながらスコーンか何かを食べた。
すると過去の記憶がまざまざと蘇った、と書いてます。
これも味を身体が覚えていて、その時本人が思ったこともついでに思い出させたのでした。
(ところがこの体験をイギリス人に言ったところ、イギリス人は「そんなことは無い」と答えた。
  こういうのはやはり心有る日本人でないと分からない感覚なのかもしれません)




イエス・キリストについては、あのような姿(磔刑)を世界に晒しているのは、本人は嫌なのだ、という
霊視もあります(「宇宙神」という本)。
それを読んで(そうかなぁ)と思っていました。
それから数年。
少年合唱団が歌う「アヴェ・マリア」を聴いて(そうではない)と、悟ったのでした。
ただしこれはあくまでも私のサトリです。
これが正しいとか主張する気はなく、ただ、「悟った話」の一例になるかな、とここで紹介しました。




<「人は鏡」考2>(2010年3月16日)


私が考える「人は鏡」とは、自分を客観視するための方法です。
「相手を見ている自分」の意識を見ることが、喩えて言うなら「鏡」のようである、ということ。
自分が相手をどう見ているか、その意識を見れば「自分が分かる」という意味です。



<「人は鏡」考1>(2010年3月15日)


話がそれてしまいましたが、
人の言葉や 考えを あたかも自分が経験してきたかのように言い。
その人の存在が大きければ大きいほど 絶対に間違ってはいないと どんどん勘違いする。
自分のオリジナルがないひと。
私はそういう人が 気に障るのではなく 「早く気づいて 早く 違うんだよ 道はこっちだよ。」
と 声をかけるべきかどうか でも やはり 自分で気づくのが一番の近道かなあとも思ったり。
葛藤します。 
 
 
 
どちらでも良いと思いますよ。
 
その人があなたの言うことを理解する可能性は「低い」。
そして反応は人それぞれです。
その様々な反応を見て、学べるなら「言ってあげる」のも良いし、
「反応」に対してこちらが感情的になるなら、黙っていればいいし。
では、自分はどちらなんだ?と思いますよね?
 
それが分かってないなら、他人に忠告するのはおこがましいですかね。
 
まず、知るべきなのは「自分」(の、反応)だから。



「人は鏡」と言いますね。
でもその言葉の意味の解釈の仕方は、受け取る側の判断力に相当しています。
つまり、皆、「自分で分かる範囲内」でしか「理解出来ない」のです。
私もそうです。
この言葉について、私なりに考えたことを書いてみますね。




通常「人は鏡」と言う場合、こういう用法で使っているのではないでしょうか。

「相手が悪く見えるのは、自分も同じだからだ」とか、なんとか。
これ、違うのではないだろうか?
勿論、そういう場合もありますよ。
しかし全てがそうでは無いと思います。




<悟った話1>


私のサイトで人間のいろいろな心、考えに関する情報を読んだ皆さんが、
自分なりに何事かを悟るようで、良いことだと思います。
感情的になるのではなく、「そこでひと考えする」人になる方向に生きることが私の目的の一つです。


失職して色々なものを無くし、
その後に得た仕事はバカみたいに簡単・収入は割高です。

はじめは、経験を活かせないことが苦痛でしたし、
かつての自分に似た人を職場で見ると感情が暴れてきつかったです。

そんな中で、以前の自分の「頑張る病」「私を認めて病」を客観視→不要と意識した結果、
かつて失った職務と高評価と雇用の継続を得てしまいました。

ところが、かつてあんなに執着したはずなのに、
今更受ける気は起きず、過去の自分がいかにアンバランスだったか、
能力ややる気を利用されただけだったかに驚いています。

何らかの欠乏感(主に女性)や劣等感(主に男性)に起因する行動は、
決して個人の幸福には結びつかないし、ハタ迷惑だったのですね。


「認められたい」という想いは汚いものですね。
(一般にはあまりそうと思われてませんが)




そうですね。
汚いとは思わないけど不要な思いです。

他人に認められたい人が多いことに驚きます。
普通はそうなんでしょうかね。
私の場合は、母が「他人になど認められようと思ってない人」だったので、私も自動的にそうなりました。
私の努力はゼロです。

ここで一つ考えてみましょう。

◆他人に認められるといいますが他人は皆、意見が違います。
  なので他人の全員から認められることは不可能です。
  なので他人から認められたいという願望が不可能なのであり、従ってそのような願望を抱いても
  叶えられることは有り得ませんから、願望は叶いません。
  つまり「他人に認められたい」と願望することはそのまま「叶わない願望を抱いて、時間と労力を浪費する」ことになるのです



<或る会合>(2010年3月8日)


私ごとですがどうも世の”常識”からどんどん外れて来たような気がします。
ところが私とメールのやり取りをしている方の多くが私と同じような経験をし、同じような感想を持つようです。
その中の或る方から報告がありました。
仮にQさんとします。




サイトにピラミッドのお話がありましたね。
先日或る会合にあまり深く考えずに参加してみたら、ピラミッドにがっつりはまっている方々たちが多くてびっくりしました。
 
それは、Xさんの『◆◆の法則』の内容を中心に、日々実践している人たちが集まる会でした。
私は去年末にその本を一度読んだだけで、たまたま近くでやるということと、子どもを連れて行ってもOKということで、
どんな人たちが来るのだろ?と全くの興味で行ったのです。
 
で、私ともう一人の女性が初参加として行ったようで、他の人たちはXさんの本、講演会、セミナー、DVDなどでかなり
知識だけびっしりという方々でした。
遠い地方の講演会も参加しているみたいでした。
 
場の雰囲気も暗くて「しまった!」という感じだったのですが、話しはじめたら違うのかな?って思ったのですが、やっぱり
なんか暗いんですよね。
 
Xさんの情報を妄信してしまっているようで、それをマニュアル化してしまっているので、想定外だらけの実生活で
戸惑っているのがよくわかりました。
 
食べ物ひとつとっても、Xさんが「白米の方が玄米より波動が高いから僕は白米を食べる」と発言したことを受けて、
「いや、どう考えても玄米の方が波動が高いだろう!」と戸惑う男性・・・。
 
そんなことより、食べたい物を食べればいいのに、そんなことでは毎日さぞかししんどいだろうなって思うんですよね。
だからみんな元気がなくて暗い。
Xさんはそこらへんを含んで発言しているかもしれないのに、思考力がないとはこういうことかな?と。
 
その会を主催している女性がいるのですが、ある男性はその方を「○○さんがいてくれれば大丈夫です!彼女は灯台です。
周りを照らしてくれるから!」とか言ってて、引いてしまいました。
 
初参加のもう一人の女性も終始キョトンとしていました。
 
あとは、感謝度とかなんとかやたらと数値にこだわる人とか・・・。
本の知識だけ詰め込んでて、専門用語だけ並べてペラペラよくしゃべる人とか・・・。
 
ある意味いい勉強にはなったとおもいます。
「波動」「感謝」「シェア」とかいう言葉だけで、テンションだけが上がってしまう低波動の人々がとても多いんですね。
 
もう行きません。




Qさん、貴重な報告ありがとうございました。
そういうのを相似象では
「陶酔次元」と言います。
本当には理解していないのだけど、雰囲気と感覚で良い気持ちになれる人のことです。
そうでは無い人が見たら感心しないのですが、当人達は陶酔しているのです。

創始者のX氏は何も皆に、自分の言うことを頭から信じて欲しいと思っていたのではないと思うのです。
彼はきっと皆が自分で考えるための、手段(素材)を提供しただけだ、と思っているのではないか。
ところが世の多くの人はQさんが目撃した通り陶酔次元(=信者タイプ)ですから、
彼が残した思想を本当に理解する人は殆どいなくて、彼を奉る人ばかりになってしまった。
なかなか真意は通じないものです。
残念ですが。




Xさんは、「本は読むけど実践できてない人が多い」ということも再三言っているそうです。
でもそれを聞いて、自分のことだ思う人は少ないのですね。


そこなんですよ。
普通のひとには「知る」と「分かる」の違い、差が分からないんです。
知ったら、もう分かったと勘違いしているのです。
サトリが無いからです。
(知ると分かるの差を取れないということ)


しかしXさんの頭脳がどんなに良くても人格者でも「他人にモノを分からせること」は出来ません。
あくまでも「本人が分かること」だから
です。
他人は「分かるための」お手伝いは出来ますが、わかるのは本人なのだ、という意味です。




思想そものは何でも良いと思うのです。
その思想を「理解する頭と心」を自分で養うことが大事
なのです。
報告をしてくれたQさんはX氏の思想については素人で知識はありませんが、
物事を分かることに関してはその会合に居た誰よりも「上」だった。
なので彼らを客観視出来ました。
彼らが「学と知」の次元にいることを見抜いたのです。
その場所にX氏が居て、Qさんが彼と会話する機会があればX氏はQさんのことを「誰よりも理解している」と理解したことでしょう。
でも、Xさんてまだ生きてるのかな、私は知らないのですが。




<ワット数まとめ>(2010年3月3日〜4日)


2月末日でワット数調べを締め切りました。
これから調べて欲しい方は「天鳥船(amenotorifune)」のゆつさんに依頼してください。




2月末日までに40人のワット数が出ました。(数人足りなかったので私の家族も入れました)
結果は・・・


ワット数 世間一般の率 サイト閲覧者の率
5ワット 55% 3%
10ワット 30% 10%
20ワット 13% 27%
30ワット 2% 27%
30ワット超 33%

サイト閲覧者の率は小数点以下を修正してあります。

30ワットと30ワット超えを合わせて60%になりました。
これは世間の平均からすれば凄いことです。
30ワット超の人は50ワット、100ワットとあるようですが、世界的に見れば無数に居るのだそうで
私はメールの上で皆さんを知っているので、この結果には納得しています。




さて、ワット数というのは単なる「その人の光の明るさ」のようです。
明るい方が良い、とつい考えてしまいがちですが、ここで何事も「良い悪い」と考えるその傾向を矯正した方が良さそうです。
30ワットでわからずやの変な人もいるし、10ワットで物事を深く考える人もいます。
思考力(判断力)とも関係無さそうです。


では何なのかと考えてみたら、経験値ではないかと。
魂は神の分け御霊だといいます。
つまり人は全て神の魂から分かれたと言える。

古い時代に分かれて沢山の経験を積んでいれば光が多いのではないでしょうか。
反対に分かれた時期が新しい場合は、経験値が少ないので光が弱い。
魂を分けることも出来るようですよ。
分霊と言います。
よく「イエス・キリストの分霊」とか言います。
ワット数が少ない人は魂が若く新しいのだと思います。




<ワット数・・・Kさんの意見>(2010年2月18日)


「30ワットです」と出たKさん。
高すぎる数値に納得がいかなかったので自分なりに考えたようです。



あと、800の方を拝見していて、ワット数についてつらつら私なりに考えてみました。

私は、年齢のわりに思考力は低いほうです。
なにせ、世間知らず。
だから、カードをサイトでやってみようかなと思ったこともありましたが、
いかんせん値段設定、みやすさ、お客さんに
どうすればお徳感を感じてもらえるか(いわゆる私の付加価値)とか、具体的にまったくわからず。
普段の買い物からして、ほしいものは勢いで買ってしまう、というものですから。

でも私は30ワットあったし、読書中の
「あの世で裁判官〜」でも人間性で「あれ?」な人でもワット数が高い人がいるとあります。

そうなんですよ。
知り合いに物事を悪く受け取る人がいます。
思考力が無いんだけど、頭の先だけは良いので自分が思考力が無いなどとは夢にも思ってない。
そして自分なりのバカな価値判断で他人を裁いて得意になっている人がいます。
さぞかし「5ワット」だろうと思ったら「30ワット」だったので(え?)と。
つまり、ワット数には人間性は関係ないのですね。
エネルギーの大きさなんだろうと思います。
こういう人は生まれつき努力しなくても他人より勝るので無意識に他人を見下すようになってしまったのではないかな。
だとしたらせっかくの30ワットが裏目に出ているので、今世、さぞかし光を落としていることでしょう。
30ワットのエネルギーの人が明るい、と誰かが書いてましたが、そうでもないようなんです。
その光を輝かすも落とすも今世の生き方、意識の持ち方次第なのではないかと思います。




本来、すべての魂は輝いているものではないかなとなぜか思うのです。
それで、その魂の光を、洋服をきるみたいにさえぎるものがあるんじゃないかなとも。
それは、魂が人間や宇宙人やらのその魂の来し方によってできた、その魂のもつこだわり、執着、カルマかと。
では、私は当然カルマを背負っていますが、30ワットなのは、
「ああ、こういうところにこだわっちゃう自分=カルマ?がいるよね〜〜」って、
自分の魂の光をさえぎっちゃう「洋服部分」を自覚するようにしているからじゃないかなって思うんです。

アセンションとは、「気付き」だって聞きました。
身軽にならないと、アセンションはできない。
なら、その「厚着」を透明や脱ぐためには「脱ぐぞ!」という気持ちではなく、「こういう色の服きてるよね、さえぎってるよね!」って
気付くだけでいいんじゃないかと思います。
気付くだけって言葉でいっても、気が付かないものです。

その通りです。
気づくことがどんなに難しいか。
一度でもやってみれば分かります。
気づくと言っても特殊なことではないのです。
当たり前のことに気づくことが難しい。


暗い自分がいたとしたら「そうなんだよね、暗く考えちゃうくせがあるよね!」って
自分で自分を認定してあげれば、案外、そこから進んでいくんじゃないかって思いました。

それが意識すること、意識化ですね。

正しいかどうかはわからないけれど、判断力・思考力の乏しい私としてはそうでないと自分のワット数に納得がいかないというか・笑

いかがでしょうか。


これは数学ではなくて社会っぽい物理学のようなものなので、答えは○か×か、では無いと思いますね。
社会のテストでは模範解答はありますが、「惜しい!」という回答や「う〜〜〜ん、いまいち」という回答があります。
勿論「は?何書いてんだ?」という回答もあります。
つまり答えは○×式で出るのではなく、段階式で出る、ということを言いたいのです。



高校三年の時、世界史のテストの後で、毎回先生に「これでも正解ではないか」とか「もうちょっと点くれ」と
クレームをつけに行っていた私です。
同級生に一人面白いのが居て(今は大学病院の耳鼻科医)やはり遊びと冗談で世界史の先生にクレームをつけに行くんですよ。
屁理屈を言って1点でも加算させようとするわけです。
世界史の先生はお爺ちゃんで人柄温厚、半分呆けているのでそこに付け込んで悪戯(いたづら)していたわけで同級生は笑ってました。

このように社会科は回答が○×では出ないのです。
回答にはピンからキリまである。
(ピン=1、キリ=10だそうです。つまり1から10まで、という意味でこれも段階を表す言葉)
私達は良い良い回答、より真実に近い回答に達するよう、努力をすることが求められているのだと思う。
決して今の自分が出した回答が「これぞ真実」などと思ってはいけないのではないか。
それはあくまでも「今の自分が到達した回答」であり「それと真実とは別物である」という
最低限の謙虚さと知恵を持たなくては、本当の「真実」には到達しないのだと思います。




<ワット数/Oさんの意見>(2010年2月16日)


こんにちは、Oです!
ワット数、色々考えてみたんですが、
要素が一つ=ワット数と言うより、
要素×要素×要素、みたいな複合したもののように思います。
例えば当人の許容量×土地の素養×知恵×素直さ×…とか。
なので「例えるならワット数のような」ということなのかなー、とか、
このうちどれか一つずつでも磨くと全体の光量が上がる、という感じかなーと
思いました。
私は「器」と言うのは「起こることや人間に対する許容量」かなーと考えています。
私は「狭量」なので、つい「こうでなければならない」に考えがちですが、
「まあ、こういうもんだ」というのが「度量の広い」人なんじゃないかなーと。
ヤクザの親分さんだと、色んな境遇で色んな価値観の人に会うだろうから、
「まあコレも人間の範囲内だろう」という独自の枠が、一般より広いのが
69さまとの共通点ではないかなあと思ったり。


うん、良いところに気がついたと思います。
「純粋真っ直ぐ君」という言葉を小林よしのりが発明しました。
純粋で真っ直ぐな人は視野が狭く「悪」に対する抵抗力や「中間」に対する許容量が少ない、というような意味です。
普通の人なら多分「純粋真っ直ぐ君」を見て「人間が出来ている」とは思わないだろうから、
これって「器が小さい」と感じていると言えそうですね。




<某サイトの閲覧者は明るい>


私のサイトの閲覧者の皆さんの質の高さに驚くというか、救われるというか。
殆どの方が私より人間性が上です。
素直で明るく優しく親切。
そりゃ世の中にはたまにはそういう人もいるでしょうが、殆どの閲覧者がそうなのです。
それは前から分かっていて
(何でだろう?)と疑問でした。
しかし考えてもしょうがないので放っておきました。

元お客さん(閲覧者)だった方がネットのお店を開始した場合極力応援するためにサイトをリンクし、
記事を書いて紹介しています。
すると他のお客さんがそのサイトへ行ってサービスや品物を買っていますが、
殆どの場合嫌なお客、変なお客がいません。
(たまに未払いのお客さんが居るようで、その時は私にお店サイトの管理人さんから連絡が来ます。
 私からその未払いのお客さんにメールを入れて事情を訊いています。
 全て同じ人がやっています。先日、とうとう5件目になったので、一部伏字で某サイトで氏名を公表しました。
 5件目ですから常習犯とみなし、その方と、まだ被害に遭ってないサイトの管理人さんに向けて注意を促しました)

どのようなモノ、コトにも例外は憑き物です。
なのでたった一人しかこのような人が居ないということは素晴らしいことです。




さて、去年或る会合がありました。
会合に霊能者の先生を呼んで講習会をしました。
そこには某サイトの閲覧者と、主催者の関係者が参加しました。

主催者はAさんと言う男性です。
Aさんは優しいので、今苦しんでいる人困っている人気の毒な人の面倒を見たいので
集まる人はAさんの「なんとかしてあげたい」という思いに甘えて集まる人です。


まず、幸せになりたいなら「自分の身の回りに起こる事象の責任は自分にある」という厳しい法則を知らなくてはならない。
幸せになりたくないなら、そのようなことは考えなくてもよい。
ところが世の中の多くの人は
@幸せになりたい
Aでも自分で責任を持つのは嫌だ

と、無意識に思っているのです。



私のサイトの参加者は@とAを学習していてそこらへんをクリアしているのでとても明るい。
ところがAさんの関係者は、こういうコトを言ってはナンですが、暗いのでした。
表情や態度が暗い。
或る人などは途中から参加したが、会場の波動に嫌になり、すぐ帰った。
他には途中で帰った人が二名ほど居たそうです。

Aさんはこのような人脈を持っているのでした。
勿論Aさんは優しいのでその人達のためになんとかしたいのですが、
そういう人が幸せになるには知らなくてはならないことや、悟らなくてはならないことが沢山ある。
Aさんはそれは知っているが、その人達に訓練することは出来ないので彼らの波動を上げることが出来ません。




何度も書いてますが、自分の波動は「自分と異波長なものを不快に感じる」のです。
その会合では私のサイトの閲覧者さんは皆さんとても明るく輝いているのが分かりました。
ところがAさん関係の方は皆さん灰色〜黒に沈んでいた。
明らかに波動が違った。
Aさん関係の方たちは途中で帰りたくなるほど嫌になったようです。

ところがその会の講師を務めた先生は
「皆さん熱心でとても良かった」と言っているので特に異波長とは感じていません。
ということは、この先生と似ている波長は私のサイトの閲覧者の方々で
Aさん関係の方々は先生とは異波長だったのではないか?




波動の違いは見れば分かります。
一瞬で分かりますがさらに観察して確認する方法を取っています。
勿論メールでも分かります。

私の所にメールが沢山来ます。
中には(う〜〜〜ん)と言うのもありますが、今の波動が低くてもこれから上がれば良いのだからOKです。
(と、いうところが893の親分と似ているのかもしれません)


<ワット数と文章の明るさ>(2010年2月12日)


20ワットと出たTさんから。

30ワット以上の方のコメントを拝見するとやっぱりどこか楽しいですね。
見ていて・読んでいて感じる印象が「明るい」「楽しい」です。
自分のコメントに読み直してみます。


そうですね。
偶々(たまたま)かもしれないが、30ワットの人は自分が言いたいことをきちんと言うことが出来ているような気がします。
自分が何を言いたいのかワケが分からなくなってしまう人は多いのに。
(ちなみに子供を不登校にする方の全員ではないと思うが、自分の思考を整理することが出来ない人が多い)

自分の思考をちゃんと整理できるだけで人間は明るくなります。
明るいから整理できるのではなくて、整理できるから明るいのです。
だから、20ワットの方も10ワットの方も「思考を整理すること」が出来るようになれば
光(エネルギー)は増すと思います。

(勿論その事態が理解出来ずに落ち込んで暗くなっている30ワットの人もいます)



<ワット数と人間性、エネルギー>(2010年2月12日)


どうもワット数と人間性は関係ないようです。
ワット数とはただ、エネルギーの大きさを光で表したもののようです。
Yさんから感想が来ました。


30ワットを超えているとのこと、びっくりしました。
もっと低いと思っていたので。

このような高い結果になったのは●●(もう一つのサイト)のお蔭だと思います。
・・・というのも、昨年の秋ごろに横領されたことが発覚したのですが
その相手に対して猛烈に腹が立って
「こいつ、絶対潰してやる!!」などと、黒いことをずっと思っていました。
そんなときに●●のサイトに出会い、絵を依頼して
毎日少しずつ記事を読み進めていくうちに
自分が如何に低級かということに気付かされました。

●●に出会うまでは
毎朝神棚にお祈りするときにさえ
「○○を再起不能にしてください!」などと超低級なお願いをしていたので
神様も呆れておられたと思います(恥)。

> はははh!
> 笑った!
>
>
> 50ワット100ワット級の人は無数にいるんだって。
> とは言っても、50人に一人の30ワットよりはずっと少ないでしょうが。
> で、人間生まれて来る際には自分の能力より「ちょい上」を設定するんだって。
> だから人生は困難なのです。
> でも、それをしないと、クリアしないと、自分が向上できないんだって。
> で、人生で何もしないで努力もしないで死んでからあの世へ帰ると
> 「あ、こんなはずではなかった」「失敗した」と思うんだって。
>
> なので、楽チンな人生を生きていることが既に失敗している、と言えるんですよ。
>
> あなたはもともとのワット数が高いんですよ。
> ワット数と、判断力があるとか、明るいとか、あまり関係ないようです。
> ただ、「魂の光が強い」というだけなんです。
>
> でも、光が強いので、こうしてすぐさま立ち直りましたね。
> 笑える。


それからは相手を呪うのではなく
「仕返しは天にお任せする、神様にお任せする」と考えるようにしました。
きっと神様は見ておられると思うので
悪い奴にはきっと何らかのペナルティが下ると思うのです。

そうですよ。
放っておけばそういう人は必ず自分で自分に罰を当てます。


手遅れにならないうちに、自分の低級さに気付けて本当に良かったと感謝しています。
●●のお蔭です。
せっかく高い結果が出たので、これを維持できるように
日々努力したいと思います。




もう一人、30ワットと出たAさん。

結果有難うございます。
ワット数=エネルギーは納得がいきます。
ジュネさんに潜在意識を受けた際にもエネルギーの強さのことを言われたので。


その大きなエネルギーを使う方向を間違うとまずいことになります。
やはり心のこと、(宇宙の)法則などを学ぶべきですね。


それから光は生まれてからの精進次第で増えるそうです。
というか、潜在的に持っていた光の量を一人一人が増やすこと=この世を良くすること(天国化)だそうです。
そのために生まれて来るんですと。


どうやったら光が増えるのか。
毎日天使のことを思っていれば増えるのか。
私はそうではないと思います。
自分の実力よりちょっと上の困難、苦労を克服して人間を一回り大きくしていく。
物事の理解を深める。

物事は表面だけ見ても理解は出来ません。
愛情を持って見ないと何も見えない、ということになる。
そこがモノが見えない人には「見えてない」。
見えてないのに自分では分かっているつもりになりますから、何も悟ることはなく、
周囲を誤解して生きているのにそれにも気づかず、一生を過ごす。
慢心と取り違えに陥った例です。
この状態を低級霊に憑かれた、とも言います。
獣の入れ物と成りている、とも言います。
30ワットの人もそうなります。

いい気になると落とし穴が落ち込みます。
苦労に負けても失敗するし、慢心しても失敗する。
その中間を淡々と進まなくてはならないので難しい。
偏らないようにするために、心を訓練する必要があり、そのために苦労や困難がある。




さて。
今日の時点で30人のワット数を見てみました。
30人に少し足りなかったので家族などを調べて30人にしました。
分母が整数の方が計算し易いのでね。

その結果は驚くべきものでした。
本にあった「世間一般の率」も書きました。


ワット数 世間一般の率 サイト閲覧者の率
5ワット 55%
10ワット 30% 13%
20ワット 13% 23%
30ワット 2% 30%
30ワット超 34%

※%では表せないが、世界を見れば50ワットや100ワットは無数にいる



ワット数を調べながら(5ワットって出たらどうしよう)とちょっとだけ心配していましたが
今日(2010年2月12日)までその数値の方は居ません。




<ワット数と器(うつわ)>(2010年2月7日)


Oさんから情報が来ました。

ワット数のお話でなんとなく思い出しましたが、確か新渡戸稲三の伝記だったかなあ、
稲造のお爺さんが「この子はとんでもない悪党か、すごい大物になる」って言って、
稲造には「二合徳利でも満ちれば空の一升徳利に勝る」と言い聞かせてたとかなんとか。
生まれつきの器のサイズっぽい感じですね。
私は器があんまり大きいとイヤだなあ〜と思っていたので、ちょっとホっとしました。
小心者の怠け者だからー!規模の小さいところを管理する方が好きです。
一合のを磨いたりこまめに詰め替えたりする方が好きだ!!


私もワット数とは器だと思います。
大物、小物という感じですかね。
善悪や良し悪しとは関係無いんですね。
大きければ良いってものではなくて、893の親分なんかかなりの大物ではないでしょうか。
そうでないと組をまとめることが出来ません。
この間、何かで私と●●組の親分さんに共通点があることを発見し、驚きました。
内容は忘れましたが・・・

器の大きさではなくてガラの悪さが一致していたのか。。。



<心境の変化>(2010年2月6日)


Yさんから。

余談ですが、最近2年越しの「何故?」の理由が
わかった、というか、また頭にあったものが
おなかに降りて来た、腑に落ちた、という表現が
ぴったりだったんですが、そんなことがありまして。
何事も自分が世界(というか環境)を紡ぎ出している
ので、身の回りで起こるすべての出来事は
自分の責任である、と強烈に思った時を境に、
本当に一瞬で周囲の環境が変わっちゃいました・・・(いい方向に)
ますます、自分がいたらなかったせいなんだ、と
自覚せざるを得ず、心からへこみましたが、それにしても我を折るのは
本当に大変なんだなとしみじみ思った出来事でもありました。




Yさんの依頼を受けてカモワンで見てみました。
すると「30ワットです」と出た。
そのときのカモワンがとてもすっきりしていたので、紹介します。
過去=審判
現在=斉王
未来=世界

カードは、未来の位置に出た世界の女性が左隣の斉王を見ていて、
斉王はさらに左の審判を見ています。

勉強家努力家(斉王)のYさんが過去の時点で何か精神的なことで悟ったことがある、と言う意味です。
それを未来の位置の世界の女性が見ていて、Yさんの世界、精神世界が完成の方向に順調に進んでいることを示す。

これはそのままYさんが教えてくれた、Yさんの気づきの体験談のことです。
面白いですね。


<ワット数とパワー>(2010年2月6日)


ワット数の記事を読んで、私も調べてもらおうかなーと思いましたが、
一方、たとえワット数が明るくても暗くても、自分の想念を良くすることや
判断力を上げる努力をすることには変わりないので、頼むのをやめました。

<ワット数と心>の内容にはまったく同感です。
エネルギーが高い人が拗ねたり方向を間違えると
それだけネガティブな反動がすごいでしょうね
私、ジュネさんに「パワーがすごく強い」と言われたので
何のパワーですか?と聞いたら「生命力とか全部」との事でした。
だったらいつもポジティブで建設的な面にフォーカスしていればいいんだ!と単純なことに気がつきました。
いまさらながら‥ですが(^^)



<ワット数と心>(2010年2月5日)


下の記事<ワット数と心の姿勢>に書きましたが、どうも違うようです。
ワット数が大きいのは、パワーが大きいのではないか。
判断力や悟り、意識レベルとは関係無いようです。



そう言うには根拠があります。
或る人がいます。
この人は才能豊かですが、思考力が乏しい。
乏しいのに頭の先は良いので、無意識に他人をバカにしていました。
当人にはその自覚がありません。
語る内容も、私から見ると呆れてしまうような愚にもつかない論理。

さぞかしワット数は低いだろうと思ったら、30ワットだったのです。
これは慢心と取り違えに陥った例です。



ワット数が大きいということはパワーが大きいだけですね。
そのことと判断力とは関係無いのではないかな。
たとえば大天使。
彼らでさえ、地上に降りると本来の自分とはかけ離れた人生を送ってしまうらしい。
あまりにも地上の環境が厳しいので、どんどん堕ちるそうです。



それからワット数が大きいと、あの世(四次元)の存在から狙われるようです。
苦難と誘惑で堕とされます。
ここで判断力があれば、何とか持ちこたえることが出来るが、判断力が無いと判断できずに堕ちます。
最初に語った方は明らかに経験不足で慢心し、堕ちてしまいました。
そういう人に忠告をしてももともと判断力が乏しいので言葉の意味を理解しません。
感情的になってしまった。
これを獣次元と言います。




それから30ワット以上ある人でも、長いこと判断力の無さから落ち込んでいた人がいます。
せっかく大きなパワーを持っているのに、思考力が無いので簡単に堕ち、そのまま何年も堕ち続ける。
珍しくありません。




なのでワット数は単にその霊のパワーを表すだけだと思うのです。
善悪は関係ありません。




<ワット数と心の姿勢>(2010年2月2日)


或る方がワット数について考えたことを送ってくれました。

30Wは元々考え方が明るくて、周囲にもまれても明るいまま
20Wは元々考え方は明るいのに、周囲にもまれてたまに暗くなる
10Wは元々考え方は明るいのに、周囲にもまれて暗くなりやすい
5Wは元々考え方は明るいのに、周囲にもまれて暗いことの方が多い


いいセン行ってると思います。




<異波長=吐き気>(2010年2月2日)


下の下の記事<同波長3・・・光>(2010年2月1日)に閲覧者の方が
友人に私のサイトを紹介したら「●との会話」を読んで吐き気がした、と書きました。

その友人の方は子育ての勘が乏しくて子供を不登校にさせてしまったそうです。
「●との会話」を読んで笑えるようなら不登校など治ってしまうと思うのですが・・・



それはいいとして、吐き気がした、という事実。
その原因は異波長にあります。
自分と異波長のモノに対して人は気分が悪くなり、吐き気を催すのです。



「未来からの生還」」という本の中に、霊界のような場所の描写があります。



著者が霊界のようなところへ行く。
そこで、自分の目の前には自分の守護霊のようなのが居た。
下を見ると自分よりも暗い霊達がうごめいているのが見えた。
(自分の波動よりも低い波動の霊達)
見ていたら気分が悪くなった。
次に自分よりも上にいる霊達を見た。
光が眩(まぶ)しくて、気分が悪くなった。
(自分の波動よりも高い波動の霊達)
次に自分の目の前の守護霊のようなのを見た。
すると、とても心地良い。
(自分と同波長の霊)
つまり、自分と同波長のモノが最も心地よいのです。



霊界に行かなくても身近なところにも事例はありますよ。

妊娠すると悪阻(つわり)が始まるのは、自分とお腹の赤ちゃんとの波長が違うから。
親子と言えども全く同波長という場合は稀で、大抵は波長は似てはいてもイコールではありませんから
どんな妊婦も悪阻が始まって気分が悪くなり、吐き気を催すものです。
赤ちゃんの霊はヂゴクから来るのではなくて、霊界からやってくるので、
ある程度クリーニングされている。清められています。
なのでその清められた波動を異波長と感じるのは、厳しい地上を生きている母親なら当然ですね。

中には悪阻がヒドくて食べ物が食べられなくなり入院して点滴する人もいます。
そういう場合、姑が
「悪阻がヒドいのはわがままだから」なんて本当のことを言ってしまいますが、
我侭=低波動とすれば、その意地悪な発言にもある程度の真実が込められているのです。




<光は増える>(2010年2月2日)


下の記事<同波長・・・光>の続編です。
ワット数を調べた方から
「ワット数は上がるのか?」という質問がありましたが、
私には即答できませんでした。
しかし、他の方からの報告「
生まれてくるときに霊界での仲間たち(グループソウル)に
ワット数を上げて帰ってきますと約束して出てくるそうです。」とあるので、光は増すのだと思います。



では、どのようにしたら増すのだろうか?
私は光=波動量だと思っています。
と、思ったけど違いました。
光=潜在アワ量かもしれません。相似象でこれが解けるかどうか、分かりません。


ワット数調べの依頼がまた数件来ました。
その中で30ワットを超えている、と出た方がいます。
この方は数年前まで非常に苦しく厳しい状況で生きていました。
数年間苦しんでいたようです。
でも私のサイトへ来て遊んで(読んで)いるうちに、何かを悟りました。
そしたら苦しみが消えた。
というか、苦しみを乗り越えた。
というか、以前感じていた苦しみを、苦しみと感じなくなった。
つまり、一段階意識が居る場所が上がったのではないかと、私は思うのです。

この方がこの世に生まれて順風満帆だったら、多分波動量(光)は上がらず変化無し、
向上無しだったのではないか?
苦しい状況に身を置き、それを乗り越え、上の境地に達したからこそ、波動が上がったのです。
これは私の思いつきですが多分こんなところです。




勿論困難に負けたら却って波動を落とす(光を減らす)のです。
そして殆どの霊(魂)はこの世のあまりの厳しさに負けて軒並み光を落として帰還するのでしょう。




ワット数を調べた他の方から「69さんのサイトのおかげです」と感謝されましたが、
私のサイトを読んでも波動は上がらないと思います。
しかし波動が堕ちるのを防ぐことは出来る。
多くの人にはマトモな思考力が無いために簡単に波動を落とす。
考えないで感情的になり、相手が悪いと恨んで終わる。
それをしない方法を説いています。




囲碁でも将棋でもオセロゲームでも「勝とう勝とう」と思うと負けます。
そうではなく「負けないよう」ゲームを進めると「勝つ」のです。
(私はよくPCで五目並べ」をやります。考えることが苦手なのでいつも「勝とう」と思って石を置いてます。
  すると、自分が勝つことばかり考えているので、相手の状況を見ていません。
  それで思いもしない場所に相手が石を並べていて、最後に石が5つ並んで相手が勝ってしまう。
  それも、一度で学習すれば良いものを、何度やっても同じことを繰り返し「あなたの負けです」と表示が出て
   「あ===っ!ちっくしょう!」「コンピューターの奴、きったねえ!」と、反省もせず怒ってしまう・・・こんな感じです)


人生も同じ。
自分のコトしか考えない人は事態が悪化してもそれに気づかず、最後に「こんな筈じゃなかった」ということに。




考えることが必要ですね。
とは言っても考えることが出来る人がそもそも少ない、とは相似象に書いてある。
困難に遭ってもそこで考える方向に、精神を立て直せる人がもともと少ないのだとも言えます。
「そんなのズルイ!」と、思うかもしれませんが、高波動の人は普通の意識が「他人のためになろう」モードになっています。
なのでそういう人、光が多い人は他人のために自分が持っている豊富な光を使うことが喜びなので
全然ズルくありません。


<同波長3・・・光>(2010年2月1日)




この本の中にあの世の霊魂彗星に乗っている魂1億人は、それぞれ固有の光を持っているとあります。
その光は頭上20センチくらいの所に球体で存在している。
光の色と強弱に個人差があり、分類すると
◆5ワットの人=55%
◆10ワットの人=30%
◆20ワットの人=13%
◆30ワットの人=2%

だそうです。

希望者に、タロットでどのワット数か調べますよ、と呼びかけたところ、10人くらいの方が応募してくれました。
私の予想では5ワットの人は居ないかもしれないが、10ワットが多いかなぁ、と思っていたのですが、
予想に反して30ワットの人が一番多かったのです。



30ワットの人は人口の2%ほど。
学校で言えば2クラスに一人はいる感じです。
2%と聞くとやけに少ないなぁ、と思いますが、2クラスに一人なら納得がいきます。
私のお客さんは何度も書いてますが、本当に頭も性格も良く、しっかりした人が多いのです。

その中の一人の方からこんなメールが来ました。


カモワン有難うございました ワット数 20ワット
少しホッとしました・・・ある人から聞いた話ですが
生まれてくるときに霊界での仲間たち(グループソウル)に
ワット数を上げて帰ってきますと約束して出てくるそうです。
でもたいていは下がって帰ってくるそうです。
するとグループそのものもワット数が下がるのでとても
恥ずかしい思いをするそうです。それだけこの現象界は厳しいのですね。
私も1ワットでも上がるようにがんばらなくてはと思います。

たしか紹介した本にもそのようなことが書かれていたような。
グループソウル全体の光(波動)が上がることが、地球の波動を上げることになるし、個人の精進が大事ですね。
霊界に居る時は地上に生まれたら必ず、自分の波動を上げ(光を増し)
世のため人のために働き、地上をより良くするという決意でいるそうです。
ところが、この地上は悪魔が牛耳っていますから(笑)使命を果たせない。
そればかりか、沢山の人が洗脳されているので多数派についてしまい、使命を忘れて光を落としてしまう(暗くなる)ようです。
私のサイトを読んでも光は増えないでしょうが、
頭と性格の良い人が、思考力が乏しいために堕ちてしまうのを防ぐ役目はあると思います。



69さん、早速結果を贈っていただきまして、
ありがとうございます。
すごく高いので、とても驚いています。
もし本当だとしたら、それは69さんのサイトのおかげだと思います。
高く生まれると身を持ち崩すことが多い、というのが気になるので、
本を入手して読んでみようと思います。


私のサイトを読んだので光が増えたということではないと思いますよ。
光が多いので私のサイトと同調できるのだと思う。
光が乏しい人には私のサイトは嫌なサイトだと思う。
或る人から聞いた(閲覧者からメールが来た)のですが、
その人が友人に私のサイトを教えたんだって。
その友人が私のサイトを見たら「何?あれ。気持ち悪い。●との会話を読んだら吐き気がした。」と言ったそうで、
閲覧者の方は驚いていたそうです。
その友人の人の子供が不登校なので、改善するために私のサイトを教えたらしいんですが。
●との会話を読んで吐き気がする人だから、子供が不登校になっているのでしょう。
(※子育てに遊び心がなく、子供に親が振り回されているから子供がまずいことになります)



これも同波長の事例ですね。
高い数値が出た方は多分いい気にならないと思います。
それが30ワットのレベルだと思うからです。

おお!ちょうどトイレの電球くらいですね!笑
5ワット以上あったんだ私・・・
せっせと夜中のトイレを照らせるよう精進します。


これからももっと光を増して世を照らすよう、精進してください。




<同波長2>(2010年1月27日〜28日)


下の<同波長1>は高いレベル同士の場合。
今度は低いレベル同士の場合の話です。
割合から言うと、こっちの場合の方がずっと多いはず。
日月神が
「世は八分通り獣の入れ物」と言っているので。



これから語ることは登場人物が多くて複雑なので、ABCという仮名では分かりづらいので動物に譬(たと)えますね。

私の友人ローランド(ローランド・ゴリラ)(男性)さんの知り合いにミーア(ミーア・キャット)(女性)さんがいます。
ミーアさんはここ数年でスピリチュアルにはまり、それを楽しんでいるのは良いがいかんせん、判断力が乏しい。
性格は良いのだが、判断力が乏しいためにスピリチュアルを「知っている」段階で止まっています。
勿論当人にはその自覚はありません。

ミーアさんは人を集めて何かすることが大好き。
ネットで名が知られているスカンクさん(男性)の講演会を主催してあげたり、いろいろやってます。
スカンクさんの講演会を開いた時は、スカンクさんの「スタッフ」だと言う人が沢山やって来た。
彼らはスカンクさんの「スタッフ」なので当然聴講料は払わない。
開催してあげたミーアさんも勿論スタッフなので払いません。
スカンクさんはそういうやり方をして全国を回っているようです。

(※スカンクさんは自分のサイトも持ってますが、臭いことが書いてあるだけなので私の興味を引きません。
   講演会に参加した方によれば、そこでも臭いことを言っているだけのようです)
 



さて、ローランドさんの知り合いにオオタカ(大鷹)さんという女性がいます。
スピリチュアルな仕事をしている方です。
ミーアさんもオオタカさんを知っているので、ミーアさんの地元でオオタカさんの講演会を開きました。

ミーアさんは自分が主催してあげているんだからと、自分たちの分 の聴講料はと払わなくても良いと思っていました。
共催者のローランドさんは、主催者ではあるがオオタカさんの講演 が聞けて自分たちの学びにもなるのだから、
「誠意を示す意味でも 払いましょう」とミーアさんに提案しましたが、ミーアさんには理 解出来ないようでした。
しかし、ローランドさんが自分の聴講料を払ったので、ミーアさん も不本意ながら自分の分と夫の分の聴講料を払いました。

(※ここで私の意見を言いますと、スタッフなんだから金を払わなくて良いと思います。
   が、ミーアさんがそのやり方を実行する根拠が「スカンクさんがそうやっているから」というのは変なのです。

  スカンクさんはスカンクさんのやり方をしているだけです。
   それは一つの参考にはなるだろうが、それが正解である、ということにはなりません。
   ミーアさんが「自分はスタッフなんだから、金は払いたくない」というのは良いが
   払わない理由を「スカンクさんがやっているから」ということを根拠にするのは間違いです。
   自分は自分のやり方を選べばよいのです。

   と、書くとミーアさんのやり方を支持しているように思われてしまいますね、もうちょっと説明します。
   ミーアさんが「自分が主催して苦労するんだから、参加費は無料でいいだろ」と思うのは良い。
   しかし、ご主人の分まで無料にするという点。

   そりゃご主人も手伝ったことでしょう。
   しかしそれを認めると、まずいことになるのでは?
   講演会は公民館のような場所を借りて開催したのだし、出席者はミーアさんの知り合いばかり。
   皆さん講演会のために何かしら手伝うと思うんですよ。
   その方達が「私も手伝ったから無料でいいでしょ?」なんて言い出したら・・・
   「私、受付します。だからタダね?」
   「私、お茶汲みしました。だからタダですよね?」
   「私、スリッパ揃えました。当然タダでしょ。」
   「私、先生を部屋まで案内しました。なので、タダになりますよね。」
   「私、先生に挨拶しました。だからタダだと思います。」
   このような素人が開催する集いなので、誰でも何かしら、手伝うと思うんです。
   すると全員「働いたから無料」となってしまう。
   これってどうよ?と思います。
   なので、ミーアさんのご主人も無料にしたかった、と言う点がかなり自分勝手な思考方法だと思うのです)
  



その後、ミーアさんはローランドさんの「スタッフでも参加費を払ったらどうか」という言葉が理解できないまま
半年以上過ぎた頃、オオタカさんにその件(スタッフはタダで聴講したっていいだろ)をメールした。
メールをもらったオオタカさんはそのようなことは思ってもみなかったので大変驚いた。
オオタカさんからすれば、聴講料の金額など考えたことも無かったのです。
多かろうがが少なかろうがどちらでも良い。
さらに聴講料金も自分が設定したことがありません。
自分はその場所へ行って「2時間喋る」だけなのです。
その際「お礼」として、交通費プラスαはいただきますが、金額などは常に相手にお任せだったのです。

(※オオタカさんはビジネスでやっているというより、世直し的な活動をしているのです。
   金銭に関しては「相手のお気持ちで」というスタンスをとっています。
   しかしこのスタンスはモノの分かった人同士なら良いが、相場などを知らない人、不慣れな人にとっては
   考えなくてはならないし、その際も何を基準にどう考えてよいのか皆目分からないのです。
   こういうコトをするには「お気持ち(謝礼)」で行くか「料金設定(ビジネス)」で行くか、二通りある。
   簡単なのはビジネスの方ですね。私ならそっちをとります。

   でもオオタカさんは年輩の方なので「謝礼」が良いのでしょうね。
   ビジネスでやっているのではない、という意識があるのでしょう。
   そういう場合はそれを補うために主催者がひと苦労して心と頭を使う必要がある。
   ローランドさんにはそれが出来るが、ミーアさんには出来ないのでしょう)


オオタカさんはいきなりミーアさんから恨みのメールを送られてびっくり仰天しました。
そしてローランドさんに相談したそうです。
ローランドさんにしてみれば、ミーアさんに「分かるかな」「分かって欲しいな」と思って説明したことが裏目に出たので驚きました。

(※私の意見では、スタッフなんだからタダで参加、でも良いと思う。
   しかしオオタカさんは講演料設定には何の関係も無いのだから、ミーアさんがオオタカさんを恨むのは筋違いです)




そんなワケでローランドさんはミーアさんには話をしてもあまり通じないなぁ、と悟った。
でも、相手の反応を見つつ、分かる範囲内で話して行こうと思っていました。



さて、私が或るサイトを久しぶりに閲覧したら、なんとそこにミーアさんが参加していたのです。
そのサイトはコブラさんと言う人が運営しています。
コブラさんは自分に近寄って来る人を良い気持ちにさせて、自分に協力させる、という方法を取っています。

たとえば、スパロウ(雀)さんと言う人に仕事を無料でさせる。
スパロウさんはコブラさんに協力しようと、その仕事を仕上げました。
するとコブラさんは出来上がったものをピーコック(孔雀)さんに「販売した」のです。
それを知ったスパロウさんは驚き悲しみ、裏切られたショックで身体の調子も悪くなるほどでした。
このようにコブラさんは自分を慕って来る、何も考えてない人を利用しています。
何の罪悪感もありません。
(※コブラさんの考えは多分こうです。
   もし、お金が欲しいなら最初から「これは●●円で引き受けます」と言えば良い。
   言わなかったということは「お金は要らない」ということだ。
   後から「お金が欲しかった」なんて言わないで欲しい、その場合は最初から言って欲しい。
   と、いう感じですかね。
   あまり人間味が感じられませんが、そういう人なのです)


コブラさんは他人の善意を利用してサイト運営をしていますが、そこに罪悪感はありません。
コブラさんの意識では「もしお金が欲しいのなら、最初から言えばいいのに」という感じですかね、
とてもドライでクールです・・・・蛇だから冷血なので仕方ないのです。
そういう人なのだ、と理解して付き合うしかありません。




コブラさんのサイト「コブラ・ツイスト」には、スパロウさんやピーコックさんを始め、
あまり物事を考えるのが得意では無い人が集まっています。
スパロウさんはこの一件で分かりましたが、殆どの人は自分がコブラさんに利用されているとわからない。
喜んでタダ働き、無料奉仕をしています。
(コブラさんに食い物にされているのですが、当人にはその自覚が無いのです。それでもいいと思いますが)
まぁ、それをやりたい人はやればいいので、私はいいと思いますが、
そんなサイトにミーアさんが参加しているのを発見して驚いたのでした。
それをローランドさんに知らせたら、ローランドさんは呆れてしまった。
ローランドさんが私に
「ライオンさん、彼女はもう、しょうがないですね。」と言うので
「いいんじゃないですか。自分の作品を販売してもらえるんだし。同波長の法則ですよ。」と言いました。


何が同波長か。
◆自分が主催する会なんだから、自分は聴講料金を払わなくて良いというミーアさん
◆自分が主催する集まりなんだから、自分は料金・代金を払わなくて良いというコブラさん
これが同波長です。そして
◆スカンクさんを取り巻いているスタッフも同波長です。


だからお互いに気が合うのでしょう。
それを「天国」と言います。
ミーアさんから見たら、説教臭い、自分には理解出来ないことを言うローランドさんはうっとおしいのです。
今、どんどん同波長の者同士が結集しているように見えます。




さて、そのサイト「コブラ・ツイスト」はさらに大きなサイト(サイトを集めているサイト)に参加しています。
そのサイトは「ビッグ・アナコンダ」(仮名)と言います。
そのサイトからリンクしているサイトの中に、私が知っている「ブラック・パイソン」(黒い大蛇)も発見し
やはり同波長の法則だなぁ、と思いました。
「ブラック・パイソン」の管理人さんも途中からワケが分からない人に変貌してしまったのでした。
(※中途半端に霊感がある人は、あの世から狙われます。決して霊能力自慢をしているレベルで居てはいけません。
   もし霊感があったら、それを上回る判断力を身につけないと、困ったことになります)



本当に「同質結集」「同波長の法則」というのはありますね。
同じ波長の者同士が惹きあうことです。
自分の波動を高いモノにしていないとなりません。
この言葉の意味が分からない人は、無意識無自覚で生きていて、知らないうちにどんどん波動が低下する。
(人間社会には嫌なこと、困ったことが多いので、それで意識が低下します。
 その時、感情的になるのではなく、そこでひと考えしなくてはならない。
 それが嫌ならどんどん低下していき、付き合う相手も波動もどんどん低下していきます。
 これが同波長の法則です)


これらのことを「同質結集」と言います。
なにも人間の魂だけの話ではなく、世の中を見ればそうであることが分かりますよ。




どのような波長、波動の場所であろうと、そこに居る人は楽しいのです。
そこが「天国」です。
自分と同波長だから、天国なのです。
だからそこに居ることが彼らの幸せなので、そこから抜けなさいなどと言われると非常に苦しい。
本人の好きにさせておくのが良いと思います。




と、いうようなこと、これが「同質結集」「同波長の法則」です。
「天国」とは「自分の波長と等しい場所」(心の居る場所)であり、「地獄」とは自分の波長と異波長の場所」のこと
です。



<同波長1>(2010年1月26日)


最近リンクしたブログがあります。
ここの管理人さんのことを以前から精神性が高い人だなぁ、と思っていました。
先月かその前か忘れましたがその方がブログをやってます、と教えてくれました。
行ってみたらレベルは高いと思うが、本やCDの紹介が多かったので私のサイトからリンクはしませんでした。
リンクしない理由も報告しました。
このブログの主旨は「自分の覚書」のようなものなので、特に誰かに見てもらおうと言う意識は無いのだから、
本やCDの紹介が多くても別にいいんですけど。

その後、再びその人のブログへ行ったら、お客さんが見ても面白いものに改善されていました。
なのでリンクしたのです。
すると、リンクした直後、この方のブログを見た方から感想のメールが来ました。




昨日リンクされたブログ素敵ですね。
特別な言葉を使わなくても
物事の明るいほうへ焦点をあわせ
心の中から楽しくて日々暮らしていけば
あんな風に文章を書いていけるのかなと思いました。
読んでるこちらまで楽しい気分になりました。
 
振り返って自分はどうなんだろう?
と考えたら思考力がないせいで
すぐ落ち込んでしまう。
コレでは自分の体にもよくないし
たとえ愚痴など言わなくても
他人にも悪い気を撒き散らすだけですね。

実は感想を送ってくれた方も、精神性(意識レベル)が高い人です。
(私よりずっと高い)(私が高いのは判断力)
そのブログの管理人さんと同じくらい高いと以前から思っていたので、この感想が来た時は驚きました。
やはり同波長なんだなぁ、と思ったのでした。




このように、自分と同波長のモノに人は快感を感じます。
つまりそれが「天国」なのです。
人間死んだら必ず「自分と同波長の世界」へ逝きますから、そこは例外なく「天国」なのです。

ところが、せっかく自分と同波長の天国へ逝きながら、そこを「地獄」と感じる死者もいるようです。
自分が何を好きで何を嫌いか、分からない。
自分が考えていることが分からない。
自分が何者かが分からない人は、目の前に展開する有様に驚くようです。

ということは。
生きている間は正直にしていた方が良い。




<天国と地獄>(2010年1月23日)


天国とは「同波長」で、地獄とは「異波長」のことですね。



<同じ平面をグルグルと・・・実例>(2010年1月5日)


同じ平面をグルグルと回っていた方から報告がありました。
Mさんと言います。
メールのやりとりを参考までに掲載します。


おはようございます。
今年もよろしくお願いします。
 
私が●●(800の、もう一つのサイト)と出会ったのは、2006年の暮れでした。
その時の精神状態は最悪で、ほとんど鬱でした。
エンジェルナンバーに興味を持ち、たまたま辿り着いた「数字のメッセージ」のページ。
ここだけを携帯に登録して、3けたを見るたびに確認しながらの毎日でした。
あるときにメインのTOPページがあると気づき、●●へたどり着いたときは
衝撃的でした。あのTOPの画像にガーン!となり
そこから読んで、読んで仕事もせずに1日中読みまくりました。
 
そして、絵のところでは衝動買いとでもいうように
注文メールをしていました。
 
それから4年。
私の歩みはとても遅いです。
すぐにぐるぐる状態にもなります。
でもやっぱり「わかりたい」が常にあり、何度も同じことを繰り返しながらも
少しづつですが、変化はあったと思ってます。
 
◆うん。
  Mさんの場合は、判断力がとても乏しい。
  だから今までのような人生があったのだ、と言えます。
  自分で分かりましたか?
 
何よりも、心がとても落ち着くようになりました。
まだまだですが、あきらめずに頑張りたいと思います。
 
◆Mさんのように、心はきれいなのに判断力が乏しいために
  やることが裏目に出る人がいます。
  そこを自覚しない限り、一生それを繰り返す。
  それは避けたいね。



69はずいぶん厳しいコト言うなぁ、と思われるかもしれません。
でも、もういい年をした大人のMさん(を、始め皆さん)に、言いたいことを言う人は居ません。
家庭でもご近所でも子どもの同級生の親も、職場の人も「この人に言ってあげなくては」などと
殊勝なコトを思ってくれる人など「居ません」。
従ってMさんのような人は誰からも言ってもらえず、一生何も分からず過ごすことになります。
そして物事は上手く運ばずヒドい目に遭い、挙句の果てには癌になったりして終わるのです。
そして殆どの日本人がこのような状況にあるのです。



Mさんは判断力が乏しい。
けれど心はきれいなので、もし分かるならなんとか力になろうと、私は思っています。
このメールで気分を害されようと、そのようなコトは私にとって何でも無いのです。
それより、このような良い人を放置した方が私にとっては後味が悪いのです。
この助言をどう解釈するかはMさんの感性にかかっています。
それはMさん固有のモノなので私の関知するところではありません。

だから何でも言える。

そして、こう言ってはナンですが。
相手の反応が怖くて何も言えない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・というレベルの人。
不味いです。
ハッキリ言って低次元です。


そんなに他人から
良く思われたいですか?


良く思われて、あなたはどう思いますか?
嬉しい、楽しい、誇らしいですか?
ではそんなに「自分が大事」ですか?

これが他人よりも自分を大事にする生き方です。
そして「常に他人の評価」を基準に生きているってことです。

一人でしっかりと立ちましょう。
子どもには「自立しなさい」とか思うくせに、本人が自立してない。
それでは子どもはあなたの心を「自立しない」ということで表現(具現化)しますよ。




また、私は自立していない人を見ても何の魅力も感じません。
つまらない。
私が面白いな、親しくなりたいな、と思うのは自立している人だけです。




<同じ平面をグルグルと2>(2010年1月4日)


下の方の記事<同じ平面をグルグルと>を読んだ方達からメールが来ました。
「これは私のことですね?」
なので「そうです。」と答えておきました。
その方達に向けた記事ではではありませんが、特にこの方達が当てはまるので(どうか、分かりますように)と記事にしたのです。
即、分かったようで良かったです。




この方達は、心が常に考える姿勢になっているので即理解しました。
実は殆どの人がそこで何も考えずに生きていたら「同じ平面をグルグルと」回っているのです。
さらに、気付く体験をしたことがある人でさえ、「同じ平面をグルグルと」回っているのです。
私もそうですよ。
私に分かるのは「私が分かるレベルまで」です。
それを超えるモノ(世界、境地、次元)のことは分かりません。
なので、私も「同じ平面をグルグルと」回るわけです。

では、その他の「同じ平面をグルグルと回る人」と同じではないか、と思うかもしれませんが違うのです。
私は自分が「同じ平面をグルグルと回っている」自覚があるのです。
そして当然「これではいけない」と思っています。
いけないと思ってもそれによって罪悪感が生じることはありません。
この問題に関しては何ら感情的になる必要がありません。
ただ、事実を認識すればいいんです。




「同じ平面をグルグル回ることがそんなに悪いのかっ!」と思う人がいるかもしれない。
答えは・・・・・・・・・・・・・・・・全然悪くないです。
これは善悪では無いんですよ、ただの法則なんだから。
善悪では無い、宇宙に善も悪も無いと言いながら、考えることは即善悪になっている人がいます。
そうではないし、そのレベルでは不味いと言っておきます。




同じ平面をグルグル回るということは、判断力が全然進歩していないという意味です。
「判断力なんか低くたっていいだろ、心がきれいなら」
そうなんです。
そうなんですが、そうでもないから問題なんですよ。

心がきれいで素直な明るい人、常に他人のことを思っている人が判断力が乏しいために
「心がぢごく化」しているのが問題です。
だから私は「せっかく心がきれいなんだから、判断力をつけた方が、自分のためにもいいですよ」と言っているのです。




殆どの人は自力で判断力を上げようなどと思って生きていませんから、一生同じ平面を回ることになる。
それは良いとして、「理解力を増そう」と思っている人も「同じ平面をグルグル回っているだけ」なのです。
そこが問題。
私にメールをくれた方達はそれに気付いたわけです。
これは普段から「分かろう」という心の姿勢で生きていないと不可能なのでその点は良い。

理解力を増す、判断力を上げる方法を知りながら殆ど分かることがなく、
同じ平面をグルグル回る人が殆どでして、私の友人などは20年間くらい、その平面にいました。
ところが本人は「自分は物事が分かるようになった」「とても向上した」と思っているのです。

同じ平面上でその人はいろいろなことをし、いろいろなことを考えた。
だから自分ではとても進歩したと思っているのです。
ところが傍から見ると全く以前と変わっていません。
本人は変わった、と言っているのに、客観的に見たら何も変わっていない。
同じ平面の中、二次元の世界をこの人は精力的に移動していたのでしょう。
そこで沢山考えたし、分かったことがあった、だから私は進歩している、と思っている。

ところが私が言っているのはそういうことではありません。
その、沢山考えて沢山分かったという、「心」自体を変えろ、「心のレベル」を上げろ、と言っているのです。
そうじゃないとこれからも子どもは学校へ行かないし、事態はどんどん悪化するよ、と。
でも、その言葉もその人には通じません。
(こんなに努力して分かるようになったのに)と思っている。

それを「同じ平面をグルグルと回る」と言います。




同じ平面を一生回りたくなかったら「我」を捨てることです。
子どものように素直になること。
判断力の無い人ほど、相手の言葉を理解せず、「間違っている」と思うものですが、それは「我」がさせている。
子どものような素直さも無い。
謙虚さもありません。

全ては「自分は何も分かって無いのだ」と認めるところから始まります。

そしてこんな単純なことがとても難しいので多くの人は同じ平面(判断力のレベル他)を回って一生を終えるのです。



<心にもレベル(次元)の違いがある>(2010年1月1日)


心とひとくちに言うがどの次元の心なのか、それが分からないと話が通じない。
というか、やはり殆どの人にはそこらへんのサトリ(差取り)が無いので
どの次元の心もごちゃ混ぜになっています。
その話をしようと思います。



一番下位の心。
動物にも心がある。
それは快・不快という感覚的なものと、感情です。
嬉しい悲しい、怒り驚き怯えなどです。
通常自分のことだけを考えています。
自己中心です。
いや、自分の子のことだって考えているよ、、、、という場合がある。
しかしそれはあくまでも自分の延長としてなのです。
日月神示ではこれを「獣」と呼んでいます。
相似象でも「獣次元」と言います。
霊視能力の有る子どもが言うには「黒」の人です。

その上の次元の心は優しい、思いやりがある、などです。
通常、この次元の心を人は「あの人は心有る人だ」などと言います。
アワのことです。
この場合常に相手のことを考えていますが、その考え方が自己中心なのです。
どういうことかというと、「相手のためを思って、自分が勝手に考えた良いことをしてあげる」というレベル。
私はこれを善人の自己中と名づけました。
霊視能力の有る子どもが言うには「灰色」の人です。

その上の心は、判断力を伴った心のことです。
他人を思いやることは勿論ですが、そこに知恵がある。
状況、相手の能力などを考慮した上で判断を下す人。
相似象ではこのレベルまで波動を上げよと言ってます。
日月神示も同様です。
霊視能力のある子どもが「白」の人だと言ってます。



大きく分けて三つのレベル(次元)があります。
上位の心を持った人はそれより下位の心も持っています。
持ってはいるが、下位の心が自分の心の中で主導権を握ることはありません。
獣の心を持ちながら、その上の「人間の心」で制御している状態です。
これを「自分の中の獣を抱き参らせよ」と言います。
日月神示の言葉です。

下位の心から上位の心は見えない。
たとえば一番下位の人から見えるのは、同じく下位の心。
それより上の「通常言う処の心有る人」の思いやりは、自分の我儘(獣次元の心)を
相手が受け入れる場合のみ、「自分に優しくしてくれた」という感覚を持つ。
あくまでも「自分のため」「自己中心」を通せる場合だけ、上位の心を認める、というレベルです。
このレベルでいることは魂にとって大変まずい。

私のお客さんは「通常言う処の心有る人」が大変多い。
それは結構なことです。
でも、そのレベルではまだダメですよ、と書いておきますね。

道徳的にダメなのではありません。
法則的(物理的)にダメなのです。

下位から上位へ行くには凄まじい苦労、苦痛を伴います。
人間は自分のレベルでいるのが一番安楽で幸せだからです。




<自分が聞きたい言葉だけを聞く人>(2009年12月22日)


世のなかに悪い人は居ないと思っている私です。
悪い人は居ないが、物事が分からない人が結果的に悪いことをするのだ、と。
物事が分からないことが悪いのだ、とも言えます。

さて。
同意を求める人のことを書きましょう。
自分の発言、行動に対して「YES」と言ってもらいたがる人です。
他人の承認を常に必要としている人です。
間違っても「NO」なんて言われたくないのです。

私の友人に子供を登校拒否にさせた人がいます。
その人を仮にQさんと呼びます。
Qさんは物事がとことん分からず、目の前に展開していることも分からない人でした。
心は大変きれいで、天使や神様のようです。

その人の子が登校を拒否ったので、その原因は母親の分からなさにあると何度も指摘しましたが、
Qさんは物事が分からない人なので、他人から指摘されても「それを分かることが出来ません」。
(登校拒否の人は大抵このレベルにいます)

そしてQさんは自分の周囲で、自分を甘やかしてくれる意見なら即理解するのです。
Qさんの近所のオヤジが「なあに、そんなものはハシカと同じだよ。そのうち治るよ。」と言う言葉を
信じて頼りにする。
決して
「あんたが原因だからあんたの意識を変えなさい。
子供に変われ(学校行け)なんて言ってる場合では無い」という忠告は理解し難いのでただ聞いてるだけです。
なのでそれから何年も子供の学校のことで悩むことになりました。

登校拒否だけでは済まなかった。
事態はどんどん悪化していく。
それでもQさんは母親である自分が原因である、ことが理解出来ない。
警察や893まで登場しましたが、まだ分かりません。

放っておいたってそのうち治るよ、という意見はQさんを慰め、力づけるものです。
でもそれでは何も解決しません。



世の中にはやはり二種類要るなぁ、と思いますよ。
◆全ては自分の責任であると捉え、根本的に解決しようとする人
◆責任というものが理解出来ない人、自分は悪くないと思っている人、だって善人だから

責任という言葉は知っているが、中身が分からないのです。
そういう主婦が殆どです。
だから常に家族や親戚の愚痴を言い、何も解決せず、心は晴れず、運勢がどんどん悪化する。
悪化するのでさらに愚痴を言う。
悪循環を繰り返し、婆さんになる頃には若い人に智恵を授けるどころか、周囲のお荷物に成り下がる。
本人はあちこち具合が悪く毎日病院通い。

これが日本の老人の現実です。
今の老人なら仕方ない。
でも、まだ老人では無い人が今の老人のようでは困るのではないか?


自分の行い思考に対して常に他人から「YES」と言ってもらいたがる人は無意識に周囲に甘え、
自分をそのまま認めて欲しいのでしょう。
しかし他人から認められてそれが何になるのでしょう?
自分の中に第三者の目を持ち(相似象)、常に自分の意識を観察すれば良いことです。




<登校拒否が治る時>(2009年12月18日)


生長の家だか白光真宏会だか、倫理研究会だか忘れてしまいましたが、
「子供の問題の原因は親にある。親が意識を変えればその瞬間に子供は治る」とあります。

たとえば登校拒否。
子供が登校を拒否るのは見掛け上の原因は違うのですが、真の原因は親にあります。
なので見えている事象をいくらいじっても解決しないどころか、
ここまでやってもまだ分からないか、と子供は意識はしませんが、結果的にはそうとしか言えないようなことになります。
(親が分からずやなので自殺した子も沢山います)
(でも、そうなってもまだ、その親には分からないのです)


私の親しい2人の友人の子供が登校拒否になりました。
その2人はかなり心がきれいです。
でも物事が殆ど分からないのです。
一人は最後まで分かることが出来ませんでしたが、(子供は高校中退しました)
一人は途中で分かることが出来た。
それでも問題が起こってから5年はかかりましたが。



その友人はやはり殆ど思考力、判断力が無い。
無いまま大人になってしまったのです。
なので心は子供のようできれいで良い。
しかし子育てをするのに必要な判断力がありません。

この友人は大変な思いをして悟りました。
◆子供の問題は母親である私が原因
◆自分には分からないことがあり、それを分からなくてはならない

これだけですが、これを悟るのに5年間かかったのです。

でも5年経ったら子供はちゃんと学校へ行くようになった。
では母親は判断力がついたのか?
いいえ、全然です。
え?
と思うでしょうかね。

違うんですよ。
判断力には個人差があって、高いのから低いのまで様々な段階の人がいます。
判断力が無いことが問題では無いのです。
問題は「判断力が無いのに、それを自覚していないこと」なんです。

友人の子供の登校拒否が治ったのは、友人が
◆子供の問題は母親である私が原因
◆自分には分からないことがあり、それを分からなくてはならない
をとことん分かったからです。
実際は判断力はついていませんが、いいんですよ。

親が、特に母親が上のことを悟ればその瞬間から子供の問題はなくなります。

母親が心の姿勢を変えただけで問題は無くなる。
とはいえ、これが大変なんですけどね。

多くの母親はそれが無意識に出来ていますが、たまにこれが出来ない人がいる、という話。
(ただし、子供が登校拒否をしなくても他の問題を起こす家庭が多い。
  その家庭も、親、特に母親が上の条件を満たしてないからです)




<手放す>(2009年12月18日)


下の方の記事<手放す>には、沢山のバリエーションがあります。
それをここで書いている暇と能力が無いので、あとは皆さんで考えてみてね。
もっと整序してまとめて送ってくれると有りがたいです(藁




<宇宙との調和度>(2009年12月13日〜15日)


「あるがままに生きる」(足立幸子著・1994年初版)は参考になります。


この本の143ページに「宇宙との調和度の表し方」という表が載っていたので書き写しました。

足立幸子の「宇宙と調和度の表し方」

本の内容を簡単に説明しますと、上の表の「第1段階1ステップ」から人間の精神が進歩して行きます。
この表では最後が「第10段階10ステップ」になっています。
が、それを超えると今度は○◎、次は3重丸、4重丸、5重丸・・・と、円が何重にも増えて行くそうです。
これらは全て足立幸子さんが直観で得た宇宙からの情報です。


まず、低い方から。
第1段階の場合は、最初は(と、言っても最初から高い数値の人がいるので、誰でもここから始めるわけではない)
1ステップです。
その人の精神が進歩すると、次の2ステップに移行する。
さらに進化すると3ステップ・・・という風に進歩していきます。

そして10ステップになったら、さらに進歩したら「第2段階・1ステップ」に移行します。
と、こういう風に人間の心(精神)は進歩していく、というのが足立幸子さんが宇宙から得た情報。


人間の精神の有り方というのはピンからキリまであるようで、
足立さんは講演会に参加した方に今のその人のレベルの記号を書いてあげていた。
普通の企業の経営者の男性で2重丸、という方もいたそうです。
精神世界とは無縁の方の方がレベルが高い、とは書いていませんが、
精神世界のことを知ることと、精神のレベルの高さとは関係無い、と書いてあります。


また、油断をするとこの段階は簡単に下がってしまう。



さて、本題はここからです。
以下は本から適当に抜き書きしました。言い回しなどは違っています。

夫婦の間で意識(上の表)が1段階以上違ってしまうと話が通じなくなるので、人間関係がかなりキツクなる。
離婚が許されるたった一つの理由は、意識が違ってしまった時だけ。
足立さんが見た夫婦に、ご主人の波動が上がってしまい、奥さんより4段階か5段階上がってしまった。
すると御主人には自分の段階から下は見えるが、奥さんは自分の段階から上が見えない。
(下から上は見えない)
いくら言っても無理、通じない。
だから、意識が大幅に違ってしまった場合にのみ、離婚が許されるそうです。

ただ、意識が違ってしまったから「はい、さようなら」というのではなくて、
相手の意識が上がってくるのを待ってあげるのも「愛」なのです。


夫婦は最初は似たようなものだっったが、子育てをすると通常、奥さんが利口になります。
智恵がつく。
智恵がつかない場合は子供に不都合が生じるので、必死で智恵をつける。
ただ、これは全員が出来るわけではありませんが。

すると、ご主人との意識の段階の差がどんどん開いてしまい、
話がかみ合わなくなり、感受するものも違って来て、一緒に生活するのが大変になります。
そういう場合は我慢しないで離婚するのも仕方ないと思いますよ。




<同じ平面をグルグルと>(2009年12月10日)


下の記事に関連しますが、「同じ平面をグルグルと」回っているだけの人がいます、
というか、こっちの方が多く、普通です。

図式化するのを省きました、面倒なので。
言葉で説明しますね。

机の上に置かれた一枚の紙を想像してください。
何年経とうと自分の判断力及び波動量、および意識レベルが上がらない人は、
一枚の紙の上をグルグルと動き回っているのです。
進歩していません。
変化しているだけです。

次に、その一枚の紙の上、3センチの処にもう一枚の紙を置いてください。
3センチの差がありますから手で持ってくださいね。
あ、想像でいいですよ。

進歩(進化、波動上昇)する人とは、下の紙から上の紙に移動出来る人です。
どうやって移動するのか?
何事かを悟れば移動できます。
何を悟ればいいのだ?
それは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・悟った時、「ああ、これを悟れば良かったんだ!」と、分かります。
(何を悟らなくてはならないかは、悟った時初めて分かるのです)
では悟りようがないだろ!

と、感情的になれば机の上の紙に居続けます。
何を悟れば良いのか分からないが、どうしても分かりたい、という人。
そういう人は大変な苦労、苦心、苦しみの末に上の紙に移動できます。

譬え話ですが、説明がとても難しいので今はこれで我慢してください。



<自分の傲慢に気付いた人>(2009年12月9日)


以前私が或るサイトで「私はとても想念が悪い」と書いたら多分とても若い人から
「そんなに想念が悪いのに何でそのようなコト(サイト運営)をやっているのか」という質問が来た。
サイトの運営・・・しかも人間の心を扱っているなら、想念の良い人だけがやるべき、おまえにはその資格は無い、
みたいな書きぶりでした。
だからモノの分かった中高年は「若い人は無礼」「無知蒙昧」と言うのです。
(勿論老人にも無礼で無知蒙昧の人が多いが)

人間はどんなにヒドい想念で生きていても自分ではそれを「悪い」と自覚出来ません。
普通の人は。

たとえば、物凄く嫉妬深くても、自分ではそれを「普通」だと思っている、いや、思ってもいない。
何も思わない。
自分の意識など見たことも考えたことも無いのです。
だから、凄まじく嫉妬深くても自分では何も感じていません。

こういう人に「あなたは嫉妬深いねぇ」と言えば、思いもよらない言葉なのでびっくり仰天してしまう。
そして取るべき態度は大きく分けて
@言ってくれた相手に「気付かせてくれてありがとう」と感謝する
A相手の言葉を理解出来ず、怒り悲しみ憎む

です。

勿論指摘をした相手の方が判断力が無くて見当外れの感想だったり、誤解だったりもします。
なのでこの場合は両方の言い分を冷静に判断しなくてはなりませんが。




他人から言われてもその言葉を理解出来なければ、その時理解出来ません。
分かるということは大変難しいのです。
(これに比べたら癌になった方がマシ、というくらい難しく苦しい。
  だから人は癌になってもまだ悟らず死ぬ方を選んでいるようです)




何か分からなくてはならないことがあるが、自分の今の判断力では分かることが出来ない、
そういう場合は「時間」という味方がいますよ。
ただし自分には何か分からないことがあるのだ、と悟り、ではわかるようになろうと決意し、
毎日少しづつ自分の判断力を上げて行った場合です。
この方法を実行すると一年経てば以前より判断力が増しています。

私のネットの知り合いの方にはこれを実行して以前より分かるようになった人が何人もいます。
その中の一人の方を紹介します。
この方は「ありがとう、だいすきです」の管理人さん、じゅんのすけさんです。
分かるようになるとはどういうことか、良い事例なので紹介します。


「ありがとう、だいすきです」→「成長したかな」

何年かかってここまで到達したのか私は知りませんが、実は時間はどうでもよい。
人によって悟り方に早い、遅いはありますが、それよりも「分かろう」と決めること、
「分かろう」という心の姿勢になることが大事です。




私に「そんなに悪い想念の癖に何で心の問題なんか記事にするのだ、おまえにその資格がは無い」という
内容の指摘をした若い人は、
自分の欠点を客観視出来るほどのレベルを獲得することが容易では無い、ということを知らない。
勿論当人は自分に何も欠点が無いのでしょう。
勿論当人の意識の上では、の話ですよ。

こういう人の将来は大きく分けて二通り。
@波動量を増して物事が分かるようになる
A何年経とうと全く変化無し
まぁ、他人のことなのでどうでも良いのですがw




<胃を全摘>(2009年12月7日)


私の知り合いから久しぶりにメールが来ました。
まだ二十代の子なんですけどね。
その子が「親戚が病気なので心配だ」と書いていたので、
「親戚なんかあんたの人生に関係無いだろ」と返信したら
その子の親代わりの叔父さんが病気だということで、その人のことは私も良く知っているので驚きました。
「その人なら大いに関係あるよ!」
その親戚はとても良い人です。
その子の親が親の能力が無いためにその叔父さんはこの子のためにとても力になってくれたのでした。
私より若いその男性はいつも他人のために奔走し、家族親戚の中ではガマンをして生きて来たのです。

その叔父さんが癌で胃を全摘したと聞いて驚きました。
あ〜〜〜あ。
手術の前にこれを知っていたら、「癌は切ってはいけない」と説得したのに。

癌になったら患部を切り取れば良い、と考えているのが「普通の人」ですね。
身体が当人を生きながらえさせるために、けなげに癌を作ってくれているのですが、
そういう情報はトンデモなので「普通の人」には入らないようです。

癌を作った原因は当人の心ですから、その心を変えない限り癌はまた出来る。
せっかく胃が広範囲に癌を作り、当人を生かしてくれていたのにそれを切り取ってしまったら今度は他の部分に転移するしかありません。

大方の一般の普通の人と、トンデモ情報を得ている人との考え方と行動が全く違って来ています。
インフルエンザのワクチンに関する情報もそうです。
トンデモ情報を知っている人はワクチンは接種しないし、タミフルも飲みませんね。



閲覧者の方の家族が癌になり、手術で切り取るという話を沢山聴いています。
その時家族に「癌は切ってはいけない」などと言おうものなら凄い反応が帰って来ます。
心の強さが求められますね。




<「大いなる光」から人類へ>(2009年12月2日〜3日)


この本はかなりトンデモですが、宇宙や次元のことを初め、
人間の霊、魂や子育てに関してとても参考になることが書かれています。
お勧めします


この本はトンデモな内容ですが、書いている人はかなりマットウです。
有名大学の名誉教授(理系)です。
その人が或る霊能者(本ではそうは書いてませんが)に質問をし、その霊能者が高次元の存在から
答えを聞くという形式で書かれています。

本の内容のかなりの分量をTQ霊について割いています。
TQ霊については避けて通れないのではないか。
天使や妖精について語るのは良いが、それだけだとそれらの名前を騙るモノに対して
あまりにも無防備になってしまいます。
なのでどうしても語らなくてはならないのだと思いますよ、マットウな人(霊的存在)なら。
逆を言えばTQ霊について警告をしない存在って・・・怪しいと私は思います。
(何故なら自分は天使だマスターだ、と名乗る存在が憑いている人の中に
  どう見てもおかしい人がいるからです。
  私が知っていて体験しただけでも数人はいます)

勿論TQ霊について語っているからと言って、その存在がTQ霊は無いという証拠はありません。
それらの語る内容を見ておかしいかマットウかを決めるのは自分の感性(感受性)しかないのです。




以下は本から抜粋しました。

今の世は、清らかな良い想念が少なく、悪想念に充ち満ちております。
名誉、地位、財産を追い求め、肉欲に溺れ、それらから生ずる怒り、恨み、憎しみ、呪い、妬み、
不満、疑念、不安、焦燥、傲慢などの思いが自分の身体はもとより、
周囲に低い波長の邪念、悪想念を送り続けているのです。
それらは狭量な自己中心的な思いの産物です。
呪い、怨念などがいつどこから送られてくるか分かりません。
それに対抗するには、まず気の流れに敏感にならねばなりません。
そして自分の気を高め魂の力を強くして、バリアを厚くすることです。
波長が高ければ、悪想念を送られても自然に倍返しではねつけてしまいます。

これからは、意念戦争、霊戦争であり、すでにもう始まっているのです。
しかし多くの方はそれに気づいてもおらず、全く無防備なのです。




他には人を殺した人は全員では無いがもう人間に生まれることはない、など
いろいろと参考になることが載っています。
この本は文体が平易で簡単に読めるし内容が濃いのでお勧めします。




<上品にもレベル(次元)の違いがある>(2009年11月13日)


まぁ、全てのことにレベルの違いがあるわけですが、もうちょっと実例を挙げながら解説してみましょう。

私の友人にとても上品な人がいます。
アクセサリーを作っているkarenです。
karenは東京生まれ&育ち。
ご主人も同じ。
仕事の都合で私の住む町の隣町に引っ越してきました。
物腰柔らか性質はおとなしく優しく優雅で上品。
この人は見掛けも中身も上品なのです。

もう一人の友人K子も上品ですよ。
彼女は動作は優雅ではなくいつもせわしなく動いていますが、動作と言動が可愛らしく、考えていることは下品ではありません。
とてもマットウで上品です。
常に他人のことを思いやり自分に出来ることを探しています。
こういう人も中身が上品と言える。

まだいた。
小学校から一緒のZ子も考え方がとても上品です。
神様級です。
他にもいますが、省略しますね。

また、ネットの知り合い。
親サイトのお客さん達は殆どが上品です。
素晴らしいです。

ところが。
世の中には「見掛けだけは上品を装っているが中身はとてつもなく下品」という人がいます。
その人のこと実例にしてみますね。




その人の一家はどうも「自分らは上品」と思っているフシがあります。
自分はただの主婦では無い、資格が要る仕事をしているのだ、という妙なプライドがある。
家族はこの町の名士なのだ、金持ちなのだ、という妙なプライドがある。
自分の家の格式に相応しい言動&行動をしようとしている、というのが見えるのです。
まぁ、それでもいいです。

自分らが設定する「上品な人像」に近づくべく努力をするのは良いことですからね。

ところがいかんせん思考力が乏しく、肝心の心がとても下品なのです。
観察すれば分かります。

以前この家から逃げ出して来た高校生を1年近くウチに住まわせていましたが、
何かのついでにその子の家族が下品である、という話になりました。
女子高生「おばちゃん(私のこと)、ウチの家族って下品だと思う?」
私     「うん。」
女子高生「どんなところが?」
私     「う〜〜〜ん。そう言われてもなぁ、実例を挙げるのは大変だ。」
下品な家族の中でこの子だけがマットウだったので耐えきれずに逃げ出したので、感覚はマットウだったのです。




その子の母が考える上品とは・・・
◆常に良い服装をする。普段からスーツを着て「私は●●士という資格が必要な仕事をしているので、
  ただの主婦のあなた達とは違う」という態度をする。
◆その職業に相応しい言動&ふるまいをする。
◆家柄に相応しい服装と態度をする。
◆持ち物服装は高額なものを持つ。
◆言葉使いは丁寧にする。

などでした。




ところが中身の方は物凄く下品で、上品とは無縁な私ですら嫌になるほどでした。
◆常に金のことを考えている
◆最重要事項は金である
◆金を得るために汚い真似をするが、当人は汚いとは思ってない
◆自分の家がここらへんで一番でないと気が済まない
◆他人を妬む
◆自分の自慢をする。それは良いが自慢の種は目に見えることだけ。
◆目に見えることしか分からない。というか、殆ど何も分からないで生きている
◆家族の会話は他人の悪口。毎日言っているそうだ。
◆自分より良い状況の人が憎い。
◆思っていることと言うことが違う、というか反対。
◆物事の受け取り方が悪い。私はこういう人を「育ちが悪い」と思うが、本人達は見掛け上の育ちの良さしか分からないので
  勿論「この町で一番育ちが良い」と思っている

などです。




書いてて嫌になります。

しかしその人達の意識としては「私達は上品」なのです。
ここまで低次元の人はあまりいないでしょうが、多かれ少なかれこのような思い違いをしている人はいるのです。
彼らが考える「上品」とはあくまでも見掛け上の上品であって、
決して心の上品では無い。
しかしそれを分かることが出来ないのです。
私はこの家から逃げ出した高校生を1年近く我が家に住まわせましたが、それに対して
口ではお礼を言いながら家では我が家の悪口を言っていたそうで、呆れました。
腹は立ちません。
だって、そういう人達なんだから。
(でも主人には内緒にしましたよ。それを知ったら大変ですよ)
私は他人が私の悪口を言おうと何とも思わないので平気なんです。
だってその人はそう思っているのだから。
他人の思いは変えられないから。
勝手に言えば?と思いますね。


この人とこの一家の人は「自分が考える上品像を演じている」と言えます。
御苦労様です。




この例は極端ですが「上品」という言葉も、人によって全く違うということを言いたかったのでした。
概念や定義は人によって全く違います。
その人は自分が思っている世界(精神世界)を生きているのです。
それは他人は操作出来ません。
他人の考えを変えることは出来ないのです。

だからそのような考えに接した時は(へえ、そうなんだ)とこちらが納得するしかないのです。
つまり理解する。
それだけ。




<謙虚にもレベル(次元)の違いがある>(2009年11月12日)


人間が思うこと考えることには全てレベル(次元)の違いがあります。
その人は自分のレベルを超えたことや、そのレベルに達しないことは思わないのです。
(厳密に言えば、自分のレベル未満のことは思えます。
  が、それは自分の思いではなく、そういうレベルの思いがあることを想像出来るというだけ)


謙虚ということについて考えてみましょう。

私が見たところ、自分で自分が謙虚であると思っているフシがある人がいます。
ところがその人が本当に謙虚であるかというとそうでは無い場合がある。
その人が考えている謙虚と、私が考えている謙虚のレベルが違う場合がある、という意味です。



その人は言葉も物腰も行動も丁寧です。
相手に気楽に気軽に会話するということはありません。
常に良い言葉、正しい言葉を使っています。
観察しているとその人は自分を謙虚であると思っているようです。
ところが、私から見て謙虚かというと違いますね。
意識していないのでしょうが、相手を蔑んでいるようです。
その相手というのは私なんですけどねw
いや私だけでは無いようです。
自分の周囲の人を無意識に蔑んでいるようです。

まぁ、私は普段から軽く見られているな、とは思っていましたが、まぁ、いいか、と放置していました。
人が人をどう思おうとその人の自由なのでね、いいんです。
私は凄く粗忽なのとバカっ話しかしないのでね、からかわれてますが、当然ですね。



軽く見ているな、ということの証拠は沢山あります。
その人は有る専門分野では私より博識で有能です。
なので私はその道の先輩として認めていました。
しかし、あくまでも「その道」だけについてですよ、当たり前でしょ。
しかしその人はそれが分からないほどの思考力の持ち主なのです。
私はその人がそこに気付いてないな、でも、まぁ、いいや、と放置。
どうでもいいことですからね。

しかしその人は私はその件について放置しているということを知りません。
ここで通常の思考力(ここで言う通常とは私レベルです)があれば
「自分はこの道では69さんよりは先輩だが、人生経験では敵わないな。」と、分かるのですが、
その人には専門的な知識(頭の先)だけがあるので、その他の分野で他人が自分より優れているなどとは想像も出来ない。
ここで想像出来るくらい頭が良ければ(智恵があれば)良いのですが、それが無い。
なので私の言うことは軽んじ理解しない、という態度を取っていました。
まぁ、それでもいいですw



私は相手が若い場合は大目に見ます、人生経験が少ないから。
老人の場合もしょうがないなぁ、と大目に見ますよ、論理的に考える訓練が為されてないからです。
子供の場合も大目に見ますね、だって何も知らないんだから。

しかし或る限度以内に限りますよ。
一定限度を超えたら説教します。
その人は或る日私から説教されてブチキレたようです。
何も間違っていない自分がいきなり説教されたので驚いたのでしょう。
普段から思考力を働かせていればそういう反応はしませんが、
他人から説教されるレベルの人は本人に思考力が無いから説教されるのです。
でも、そういうレベルの人は説教されても勿論意味が分かりません。
なのでブチ切れました。

私は他人のお守はしないので、これで良かった、清々したな、と思いました。

説教した理由の一つはこの人が全く謙虚で無いからです。
その人が考えている謙虚とは、態度が謙虚なことで、思考が謙虚なことではないのです。

しかしね。
いくら言葉や態度が謙虚であろうと、問題なのは中身=思考、心の姿勢、なのです。
この人は謙虚を装っていましたが、心は謙虚では無く、従って妙な優越感に浸っていたのですね。



心のレベルを上げることは知識を増やすこととは比べ物にならないほど、困難です。
頭の先が良い人は知識を増やして良い気になっているが、そのようなものは老人になってボケたら雲散霧消してしまうような代物なのです。
というか、知識だけの人間がボケるのですよ。

心無い人は一見謙虚を装いながら内心は凄まじく傲慢なのだ、という事例でした。
そしてこのような人は
「世は八分通り獣の入れ物」なので、多分8割は行くのではないかと思います。
とてもおとなしく優しい人が実はトンデモなく傲慢であるという事例は沢山あります。
せめて「普通」に生きれば良いのに、、、、と思います。
(私が言う「普通」とは意識レベル200クリアのことです)



このように、人によって謙虚のレベルも違うのです。
見た目で分かる謙虚が謙虚であると思っているような低いレベル(次元)の人がなんと多いことか。
宇宙人は地球人の心をモニターしているようです。
というか、心しかモニター出来ないのではないかな。
その人が何を言おうとやろうと、それは表面的なものでしかない。
肝心なのは「心」なのでだから宇宙人は心をモニターしているのでしょう。



言葉使いに気を使う暇があったら「心を良くしろ」と思いますよ。
(ここで説明しますと、言葉使いが良い人は他人の言葉使いが荒いと嫌になる。
  これは自分はちゃんとしているのに、他人はしていない、と責めたり軽蔑する理由になっているようです。
  自分が言葉使いが丁寧でも他人にそれを強要しないレベルに達していれば問題はありません)

学歴の無い社会の底辺にいるような人が丁寧な言葉を使わなくても心がきれいな例は沢山あります。
たとえばとても他人にこのようなことは頼めないな、ということに対しても
「いいから、俺に任せておきな。お礼?要らねえよ、そんなモン。バッカ野郎、泣いてんじゃねえや。」
とかね。
表面上の謙虚さしか見えない人には分からない世界の話です。

作家の司馬遼太郎も私と同じようなことを書いています。
(謙虚とは言っていません、信用出来る人、と書いています)
彼は、彼の名声に群がるマスコミを初めとする人達を信用していませんでした。
その代わり職人や下町に住んでいる素朴な人を好いていました。




私は何も伝法な言葉を使えと言っているのではありません。
謙虚さは表面上だけではいけない、と言ってます。
だから言葉使いや物腰が謙虚で心も謙虚ならいいですね。




<真剣にもレベル(次元)の違いがある>(2009年11月10日)


沖縄の聖人が講演会をしました。
会場にいた人達は聖人のひとこと、ひとことにいちいち頷いていた。
講演会が終わって聖人はスタッフに言った。
「あの人達は今の話を聞いても、ただ『ああ、今日はいい話を聞いた』と思うだけだよ。
 ウチに帰ったら聞いたことを忘れてしまうんだよ。
 あの人達は真剣になるということがどういういことか分からないんだね。」
とか、言いました。
(本の内容ですがウロ覚えです)
厳しいですね。
会場に集まった人達は「良い話」を聞くために集まったのです。
その話を聞いて自分が向上しようなどとは思わないのです。
それを聖人が見抜いたのでした。

会場の人達に「あなた達は全然真剣じゃありません」と言っても通じないでしょう。
何故なら彼らは真剣だからです。
相手の話をいちいち頷いて聞くことが、彼らにとっての「真剣」だからで、
(※このレベルの人達が考える真剣とは、相手の話にいちいち頷くことなのです。
  だから、いちいち頷かないと、彼らは「人の話を真剣に聞いてない!」と、怒ります)

それ以外のこと(聖人から聞いた話を理解してこれからの人生を大きく変えること)などは
思ってもみないからです。
そこまで見えるから聖人は聴衆には何も言いませんでした。
言っても理解されないからです。




以前、或る人から聞いた話。

子供がサッカーをやっていて、昼食をカレーにするか焼きそばにするかで
母親の中の気が強いのが二名、対立して大変だったそうです。
その二人にとって「昼食をカレーにするか焼きそばにするか」ということが物凄く真剣になるべき問題だったのです。

そんなこと、どうでもいいや。

と、私は思いますが、現実的にはでもカレーか焼きそばかどちらかに決めなくてはなりませんよね。
両方作るというわけには通常はいかない。
そういう場合は、最初にカレーにしたら次は焼きそばにするとか。
でも、その場合でもではどっちを先にするかでさらにもめるのでしょう。
だったらくじ引きで一回目を決めたら良い。
簡単です。
簡単なことを大騒ぎするというレベルなのです。




かと思えば重要事項についてこちらが真剣に話をしているのに、
「あーははh!あーはっは!」と、最初から最後まで笑っている主婦もいました。
私が話す内容が重要であると理解出来ないからです。

他には、子育てが大変まずい友人が居て、それではしょうがないので忠告をしたことがあります。
その時、黙って聞き終わった後その人は「は〜〜〜♪」と笑いながらため息をつきました。
え?
今言ったことはとても笑って聞いていられるような内容では無いはずです。
でも、その人は笑っているのです。
仰天しました。
この場合も、相手の話を聞いても理解できないので真剣にならないのでした。

いや、態度としては真剣神妙なのです。
私が喋っている間中、ずっと「真剣に」聞いていたのです。
だから話がやっと終わったので真剣な態度から解放されたのが嬉しくてため息が出て笑ったのでした。

この人の真剣とは「真剣に相手の話を聞く態度をすること」です。
沖縄の聖人が「真剣になるということがどういういことか分からないんだね」と言いましたが、
このことです。

(※このレベルなので子育ても満足に出来ないのです)



低いレベルの人達が思っている「真剣」と、それより高いレベルの人達が思っている「真剣」とは
全く別物で、この違いを「レベル(次元)の違い」と言います。

低いレベルの人に高いレベルの真剣になれ、と言っても理解しません。
それが理解できないから低いレベルにいるのだから。
高いレベルの真剣を知るためには、まず、自分のレベル(波動)を上げなくてはなりません。




では低いレベルの人は一生高いレベルの真剣が分からないのか、と言うとそうではありません。
真剣になれば低いレベルの人も、レベルを高く出来ます。
しかし、それは高いレベルの真剣さを出さないとレベルを高く出来ません。
では不可能ですね。
ところがそうではないのです。

本当に本気になれば、低いレベルの人も高いレベルの真剣さを発揮して、
自分のレベルを上げられ、そして高いレベルの真剣を出せるようになるのです。
一見矛盾していますが、可能です。
(ただし殆どの人にはこれが出来ません)
不可能を可能にする真剣さを発揮出来る人じゃないと、物事は分かりません。




<手放す2>(2009年11月1日)


こんばんは。Yです。
 
私の感覚では、
「手放す」は、「間違った思い込みにこだわるのをやめる」かな、と思います。
そのために、「理詰めで考える」ということはもちろん必要なわけですが。
  
産業カウンセラー養成講座というのを受講していたのですが、講座でクライエント役をやりながら、体験した話です。
 
理詰めでその思い込みが「間違っている」ことがわかったとしても、「こだわる」ことをやめるのは、なかなかできなかったりします。
大抵、その「間違った思い込み」を思い込むようになったきっかけの出来事というのがあると思います。
(なかったらこの話は終わりなんですが・・・)
そして、そのときのつらい気持ちを味わいきると、その「こだわり」から解放されるように思います。
 
「味わいきる」というのは、そのときを思い返して、ひたすら「つらかった〜」という気持ちに浸ることです。
そう思わなくなるまで。
相手のことをどうこうではなく、あくまで「自分がつらかった〜」というところに焦点を当てる。
 
 
実際、自分も、「すごい、つらかった〜」と泣きながら話したことで、心からそのことについての「こだわり」がなくなった感じがします。
しかも、自分が原因と考えていたところではないところで、感極まったりしたので、考えることにも限界はあるのかな、と思いました。
(私の思考が稚拙なだけかもしれませんが)
 
といっても、日常生活では、なかなか「自分の感情に浸る」なんて機会はないと思いますし、
「考える」だけでも解消することはたくさんあると思いますが。
 
その体験は最近の衝撃的な出来事だったので、それを思い出して、思わず報告したくなりました。
長々と読んでいただきありがとうございました。


ありがとう。
これはこだわりがあり、そのこだわりを捨てるには感情的な原因があるので難しい場合ですね。

所謂これがインナー・チャイルドというものではないでしょうか?
小さくて思ったことを言語化出来なかった時期につらい気持ちがあっても表現出来ずそれが心の奥底に隠れている場合などです。
また、大人でもおとなしいタイプの人は言いたいことを言えず、それが心に溜まっているとか。
これらの場合は感情を出しきることが有効だと思います。
(そのためにBSWなどがあります)

しかし、理不尽な目に遭ったのなら仕方ありませんが、原因を自分が作っている場合もあります。
自分が判断力が無いために、なんら感情的になる必要のない場面でなり、勝手に苦しんでいる人が多いのです。
そしてその勝手に作った苦しみを「手放さない」人がいます。
感情の開放も必要ですが、自分がきちんと思考しているかどうかも考える必要があります。


それ(頭を使うこと)をせず、従って殆どの懸案事項について理詰めで考えることが出来ない場合。
何かが起こるたびに感情を開放するだけ・・・はどうでしょうね。
まさか一生それをするわけにはいかないでしょう。
今まで自分が作った拘りに関しては仕方ありませんが、これからは拘りを作らないようその都度考えて生きて行った方がいいですね。





<手放す1>(2009年10月31日)


よく精神世界で「手放しましょう」「手放しなさい」と言いますね。
あれ、意味が良く分かりません。
賢い人なら分かるだろうが、私の頭ではすぐには理解できないので
長いことこの言葉の意味が分かりませんでした。



◆お義母さんとの関わりから来る感情のもつれを手放しましょうと言われて「はい、そうします」と言って老人ホームへ入れる嫁、とか。
  「だって、おたくが手放せって言ったでしょっ!」
  ええええっとですね・・・

◆お義母さんのことを心から手放しましょう、と言われて「はい、そうします」と言って同居しているけど義母は居ないものと決めたので会話はしません。
  「だってあなたそう言ったじゃない」
  いえ、ちょっと違うんですが。

◆子供に執着する心を手放しましょう、と言われて「はい、そうします」と言って施設に入れる母、とか。
  「え?だってあなたが入れろって言いませんでしたか?」
   いいえ、言ってません。

◆子供に執着する心を手放しましょう、と言われて「はい、そうします」と答えて
  それからは子供が何をしようと我関せずの母になり、会話も無いし食事もバラバラになり、とうとう子供が家出。
  「あなたが手放せって言ったからです。これが手放すってことなんですね〜」
  奥さん、誤解しています。


とかね。

手放す・・・実に曖昧で意味が分からない言葉です。
困ったものです。
精神世界の人。
「手放せ」と言う(書く)からにはその言葉の意味をちゃんと説明する義務があると思いますよ。
それをしないでただ言ってるだけでは無責任と言うものです。



と、クレームをつけましたが、誰に文句を言っていいのか、分かりませんので自分なりに考えてみました。
「手放す」という言葉をわざわざ使うからには「忘れる」という意味では無いのだろう、と見当をつけます。
もし手放すが忘れるという言葉と同じ意味なら、忘れるという言葉を使えば良いからです。

手放す≠忘れる

これが分かった。

次に、では手放すとは忘れることではないとしたら、いったい何?と、考えます。
忘れることではないのだから覚えていてしかも手放しているのでしょう。
覚えているのに手放すのは、記憶では無いですね、だって覚えているんだから。
ちゃんと記憶しつつしかも手放す・・・これはかなり難しいのでは。

たとえば他人からヒドい目に遭った。
それは忘れない、っつうか忘れられません。
では何を手放すのか?
その体験にまつわる感情を手放すのではないか。
感情を手放すとは、それを思い出しても感情的にならない、ということか。
それなら「許す」という言葉が存在しています。
でも、手放すは許すでは無い。

もし、同じ意味ならわざわざ手放すという言葉を使う必要が無いからです。
それを使っているってことは、意味が違うからです。
(いや、意外と彼らは同じ意味で使っているのかもしれませんよ、私はまだそこまで調べていません)
でも、ここでは

手放す≠許す

としましょう。意味が違うのだ、としますね。
手放すは許すでも無い。
(許すという言葉には善悪や正邪の判断がつきまといます)
その件を思い出しても(だって、手放すって忘れることではないから思い出せるわけよ)
感情的にならないがそれは許したことでも無い。

ということは・・・

手放すって何?



次に考えられるのは執着です。
他人からヒドい目に遭ったら毎日
(あいつのせいでこうなった、あいつが悪いんだ、あいつが憎い、あいつさえ居なかったらいいのに、ちっくしょう!あの野郎!
  あいつのせいだ、あいつをヒドい目に遭わせてやりたい、あいつが原因だ、オレは悪くない、ちっくしょう、あの野郎!
  あいつが悪くてオレがこうなったのにあいつは何も悪いと思ってない、あいつに思い知らせてやりたい、許さん!
  あいつさえ居なければ、あいつは悪人だ、オレは正義だ、あいつの顔なんか見たくもない・・・)
と延々と考えている人がいます。
勿論怒って憎んで恨んでいるのです。
感情的になっています。
毎日一年中数年間〜一生思っている人がいます。

こういう感情を手放す、ということではないかな、手放すという言葉の意味は。
つまり
「人や事象へのマイナスな感情を伴った執着」を手放すことではないか。

手放す≒人や物事への執着心をなくす

どうでしょう?




ヒドい目に遭った場合だけではありません。

たとえば相手にとても良くしてあげた。
ところが相手は私に感謝するどころかあろうことか恨んでいるようだ。
そして陰で一生懸命私を陥れようと画策している。
しかも自分は悪いなんて思ってなくて、あんなに良くしてあげた、この私を悪いと本気で思っているのだ。
考えられないことだ。

とか。

こういうケースは普通にあります。
他人にいくらよくしてあげても感謝するどころか牙をむく人はいるのです。
理由は分かりません。
というか、分かります。
相手に思考力が無いからです。

こういう場合何の根拠もなく恨まれてしまった方は
(あんなに良くしてあげたのに、なんで私を恨むの?え?何?それ。あんた何考えてんの?おかしいでしょ?理屈が分からない?
  ここは恨むどころか私に感謝するべきでしょ?ちょっとあんたおかしいわよ。いった何年人間やってんの?)
と、延々と考えてしまうところですが、
こういう場合は
(あ、そっか。相手はそれを理解する判断力が無いんだな)と、分かればいいんです。
そして相手のことをいつまでも
(なんで?何で?何で?)と、思い続けることを止める、これが手放す。

感情的になっていつまでも結論が出ないことを思い続けても仕方ないので、自分が理解することですね。
これで無用な感情を手放すことが出来ました。
この場合もちゃんと記憶はしていますね。
その相手が行ったことは全て記憶しています。
手放すことは忘れることではありません。

また、どっちが正しいか、と言えばこちらが正しいと思うことを相手はそれを正しいとは理解出来ないのだから
いくらこちらが
「これが正しいんだよ!」と説明しても無駄です。
なのでこの場合「相手を許す」というよりは「相手の理解力をこちらが理解する」方が良いのでは?
思考力の差によって、人間の数だけ正義があります。
それをこっちが正義だ、と主張してもそれを理解するのは、自分と同じレベルの人だけなので
善悪、正邪を持ち出しても解決しません。

相手への
「何で分かってくれないのっ!」「分かって欲しい」という気持ちを手放すのです。
方法は忘れることでも無く、許すことでもありません。
理解することが手放すには一番有効な方法です。

手放す≒理解する



また上の例ほど恩知らずでは無い場合について。
やはり他人に良くしてあげたとしましょう。
でも相手は自分にそれほど良くしてくれません。
相手に期待するとガッカリしますね。
特に
「自分はこれこれこうしてあげた。だから相手だって自分にこれこれこうしてくれればいいのに。」
「自分は相手にこういうことをしてあげた。相手はそれに対してお返しをするべきだ」
という場合です。
この場合は

相手に良くしてあげた、という思いが常にあると常に
「自分は良くしてあげたのに相手がしてくれない」と思い続ける。
相手が自分に良くしてくれるまでそれを思い続けます。
相手がすぐ返してくれればいいが、なかなかそうはいきません。
何日も何年も待たされます。
その間ずっと「自分はこうしてあげたのに相手はしてくれない」と思い続けるのです。
これも執着ですね。

これを手放す。

記憶はするが許すことでは無い。
第一この場合許すってのは無いでしょう。

自分が良くしてあげたら相手が自分に返すべきだ、というのは別に善悪でも正邪でもありません。
ただの自己中です。
勝手に自分でしておいて、相手を悪者に仕立て上げ、責めている状態です。
(こういう善人は多い)

私などはこういう人と付き合うのはゴメンですね、面倒臭いから。
だったら最初から「何もしてくれるなよ」と思います。
こういう人が相手に良くするのは見返りを求めているからです。
その見返りが来るのが楽しく喜びなのです。
他人からそのように遇されるのが幸せなのでしょう。
そういうやりとりをすることがコミュニケーションになっている人はいますね。
実に面倒くさい人です。

相手に良くしてあげるのは
「自分が良くしてあげたいから、それが楽しいから」で、良いのでは?
やりっぱなしでいいと思いますね。
そして相手がどのような反応をしようとこちらは感情的にならない。
相手への執着は無し。
自分がしたことへの惜しい気持ちも無し。
記憶はあるが、何も感じない、と。
これが手放す、ということ。

手放す≒見返りを求めない、期待しない



次は不特定多数が相手の場合です。

自分は認められたい、尊敬されたい、良い人だと思われたい、凄い、偉いと言われたい、評判になりたい・・・とかいう欲望。
こういうのがある人というのがたまにいます。
あ、好かれたいってのは普通にいると思います。
これはまぁ、良いとしましょう。

上に書いたようなことが頭の中を占めている人がたまにいますね。
自分の願望通りに現実が展開していればいい、その人は幸せです。
でも、皮肉なことにこのようなことを考える人は、判断力思考力に乏しいので、他人はそういう人を「認めません」。
ということは、こういう人には常に自分の願望とは反対の現実が展開しているってことです。
これは苦しい。
このような願望を持たなければ幸せで居られるのに、このような願望を持ってしまったがゆえに自分で自分を苦しめる。
そのような時

「手放しましょう」

と言われます・・・・・・・・・・(だ〜か〜ら〜、言うのは簡単なんだってば。ろくに説明もしないで安直に「手放せ」を使わないで欲しい)

この場合も上に書いたようなことは不可能なんだ〜ということを理解すればいいのです。
全員から好かれることって可能ですか?違いますね。
自分だって全員を好きですか?好きじゃないですね?
だったらそれが他人だったら、その人は全員を好きでは無いのだから、その人があなたを嫌っても別に不思議はありませんよ。
と、このように理詰めで考えればいいんですよ。

自分の、実現不可能な願望(全世界の人全員に好かれること)を手放す=それは無理、と理解する、ということです。

やはり

手放す≒理詰めで考える

ってことでしょうね。



まだあるかもしれませんが、とりあえずこんなところでどうでしょう?



<病気になる心>(2009年10月30日)


「夢」の記事・・・IYさん(2009年10月29日)・・・を読んだ方から感想が来ました。



こんにちは。
12月に入院する時の癒しの絵を描いていただいた者です。
800の記事、非常に参考になりました。
自分の心の在り方のまずさによってお腹にいろいろ溜めこんで、子宮筋腫の手術。
病気になる事を良くない事、罰が当たった自業自得の結果と悪い方にばかりとらえていましたが

 

「病気になって毒素を一か所に溜め、本体を生かしてくれているのです。
病気のなんとありがたいことか。」
69さんの記事。

 

「損もよいぞ。病気もよいぞ。怪我もよいぞ。それによってめぐり取っていただくのぞ。」
「病むことは神からの白紙の手紙、ありがたき神からの手紙」と記されているひふみ。

 

仕事を変えてこの1年、「職場が嫌だ。行くのが苦痛。」と思うばかりで
不満やグチをこぼしてみたところで解消される訳でもなく

どうにもこうにもならなくなりTQ、初めて絵を描いて頂き
ヒーリングやエッセンスやら、皆さんにアドバイス頂いて
自分を変えるいい機会なんだと言い聞かせつつ
もがきながらも、はや半年・・・。

 

8年前に卵巣の手術した時
毎日、元気に歩いて仕事に通えるって
あたりまえだけど、ありがたいことだなと
腹を切られた事により、初めて気付きました。(腹切後、排泄もままならなかったので)
という事は、現在、毎日普通に仕事に通えているこの状況は
ありがたいはずなのに、行くのが苦痛なんて言ってる私は
のど元過ぎればなんとやらではないの。

 

69さん的に当てはめると自分自身で卵巣にハレモノを生みだして
イロイロなドロドロを溜めることにより心と体を維持してくれてるのに、それ悪だとばかりに
手術で切除するも結局、子宮内膜症性の卵巣のう腫は再発し、増大・縮小を繰り返してました。
(病気をつくってるのも治すのも自分だったのに、闘うなどと方向性を誤っていました)

 

今年夏の定期検査では、これまで定期検査の度に手術を匂わされてきた
卵巣のう腫は、なぜかきれいに正常になっておりました。
その代わりに、この1年で突然の子宮筋腫の急成長。
苦痛苦痛と思い煩ったこの1年で筋腫が見事でっかく育った訳です。

 

今回、痛い思いして子宮筋腫の手術したところで
自分の心が変わらない限り、結局は同じことの繰り返しな訳ですよね。
なのに私と言えば
前回の手術で癒着してるし子宮内膜症だし、子宮も筋腫でボコボコなら
今後は癌のリスクも高いだろうし、もう
子宮も卵巣も全摘でいいですとお医者先生に言いました。

 

ところが、お医者曰く、そんな乱暴なことしないで
今回は一番大きな筋腫2つだけを切除して、いよいよダメになった時に
子宮全摘でもいいのでは?と諭されました。
(3年前は、そろそろ全摘だなぁと、この先生は言ったのですよ。)
私は、結局数年後に再々手術するなら
中途半端に残さないで今、全摘手術でいいです!と言ってしまいました。
(手放し手放し〜執着しないとか思っていました)


ありがちですね。
精神世界特有の言葉を自分なりに解釈してしまう。
私もそうです。
用語が難しいのは、その概念が自分の中に無いからです。
これは精神世界だけではなく、PCでも音楽でもなんでもそうです。
難しいのは概念を理解すること。

この方の場合は「手放す」という言葉を自分の子宮を手放すことだと解釈してしまった。
この場合、もし「手放す」という言葉を使うなら
「子宮の病気の原因となっているものを手放すこと、つまり間違った女性性、考え方を手放すのだ」と
まず考え、ではどうしたらよいか?となり「そうか、思考力をつけて生きていこう」となれば良いと思います。

69さんの記事を読んでいて、心が変われないままなのに
子宮卵巣全摘したら私の心の澱み箱は今度はべつの臓器に移るだけで
結局、全摘手術しようがしまいが問題はそこではないのではと
教えられてしまいました。

 

800の閲覧者の道理の分かる人達と比較するつらくなるけれど
800を読んでいろいろかじり、ひふみを読んで、懸命に真似たところで結局私は
分からずやなのでしょう。手術だ、それ、いよいよどうしようと慌てて、
まさに身をもって教えてくれている。
病気や何やらは自身と対峙するのに私には必要みたいです。

話はそれますが某サイトリンクの横浜のギラギラな占いお兄さんのところで
生贄鑑定体験をしてきました。
手術予定日が悪いと散々な事を四柱推命の占い師さんに言われ
ブルーになったので、気学的にはどうかと思いまして。
確かに時期が悪いようです。が 
「病院で検査技師ぃ〜そんなのやめちまえやめちまえぃ」と
スカーンと言われてきました。スガスガしい気分です。
「癌だ癌だ病原菌だ病原菌だなんて毎日やってると自分がいつかそうなるんだ」と。
婦人科での2回目の手術についても、体が頑丈だから
それだけで済んでるんだと指摘され、そういう見方もあったのかと。

なんだか非常に楽しかったです。

 

とにかく69さんのところは、傷をなめ合うような病気記事ではないのがいいです。
私は心配されたり励まされたりするのが好きではないので(かわいくない〜)
面白リンクも今回の病気の記事も
重ねてありがとうございました。あ、これはホントにお礼のありがとうです。


はい、いいところに気がつきましたね。
自分の不幸をブログに書く→誰かが慰める→ブログ主がさらに自分の不幸を書く
→さらに閲覧者が慰める→管理人、どんどん自分の不幸を書く→周囲はもっと慰める→(以下略)
これをやると何も解決しません。
解決しなくたっていいんだ、慰めて欲しいんだよ、という人は存在します。
悪いとは言いませんよ。
でも、それをやっても何も意味が無いのです。
それをやると一生それをやるしかなくなる。
だって解決したらブログが書けないじゃんね?
だから自分の不幸が解決したら困るので一生不幸を続けるのです。

私は合理的な人間なので「意味が無いことはやらない」のです。
なので自分はしません。
(バカっ話はしますよ。あれは笑うためです。ちゃんと意味がある)
他人が「自分の不幸を晒して慰めてもらいたがる」のは良いと思う、その人の自由です。

でも、私はそういうのは嫌いで見たくもないので、もし私のリンク先でそれをやっていたら
@記事の内容を改善するか
Aリンクを切るか
どちらかを選んでね♪と言います。
私には見えないところで大いにやって、盛り上がって欲しいものです。




<みんな分かっている>(2009年10月26日)


下の方の記事<白と黒>(2009年10月17日)を読んだ、当日一緒に居た方の、複数からメールが来ました。
「(その白い人というのは)◎◎色の服を着た、髪の毛が◎◎い人ですね?」と。
その通りです。
私だけではなく他の人にも分かったようです。
そう、分かるんですよ。
見れば分かる。
正直に生きると決めた人は感受性がどんどん子供並みに研ぎ澄まされて来ます。
その感受性で世の中や人や事象を見れば「分かる」んです。


<分からない人もいる>


その反対に自分の我を張れば物事が見えなくなる。
いくら頭が良くても、です。
そうなると、どれが正しいのか、誰が正しいのか分からなくなります。
そうなった人は沢山います。

たとえスピリチュアルの専門家でも、沢山知識があっても、肝心の感受性が鈍っているので選択する都度まずい方に進む。
見るに見かねて忠告してもそれは自分への意地悪や陥れているのだ、と感じる。
それならこっちもやってやる、と裏で画策します。
これは本当にあるのです。

先日の写経の会で講師をしてくださったもう一人の先生が、そういう目に遭ったそうで私も同じ人物から同じ目に遭いましたw
私達(講師と私)は別にその人を恨んではいません。
分からない人なんだなぁ、と思うだけです。


このように感受性が狂っていると、思考も狂って来ます。
(精神異常という意味ではありません。間違って来る、辻褄が合わなくなるという意味)




<集合意識から離れる方法>(2009年10月20日)


Fさんから。


ご無沙汰しております。Fです。
集合意識から抜け出すという話…ですが、私も最近、考える事がありました。
 
子ども会です。
先日、子ども会の秋祭り(子供達がおみこしを担ぐ)の行事があったのですが、年々参加者が減っています。
個人の自由だから、別に参加しなくてもそりゃ、良いよね、と思いつつ、「子供が出たいから」と出た親には、負担は増える一方です。
我が家もそうです。
今年も、その担当の親子の欠席が多く、負担が多かったです。
逆に、そうやって、「出ない」選択が出来る方が、集合意識から抜け出せている?ってことかな?と思ったり。
 
みこしで回っても、居留守?を使っているのか、出てこない家もかなり多くなってきました。
確かに、それも自由だよね。と思いながら、寂しいな〜と思ったり。
でも、「出ている」から、立派という訳ではないと思いました。

そうなんですよ。
出ない家は出たくないから出ないのであって、それは個人の自由です。
出ない家があったら「あ、そう」で済ませれば良い。
真面目な人が問題なのは、出ない家や皆がやっていることをやらない人に対してつい、正義感から非難してしまうことです。
真面目な人ほどそうなります。
これって罪を犯しているんだけど当人にはその自覚はありません。
私は不真面目ですが、不真面目で良かったと思います。

(叔母に真面目人間がいるんだけど、それと付き合うととてもムカつきます。
 その時、「ああ、叔母は真面目なんだな〜」と、大目に見てやればいいんだけど、
 ああしろこうしろ、アアすべきこうすべきとうるさいのついつい怒鳴ってしまいます(照)
 人間が出来てないもんで。

 それから我が家の隣人はベンツに乗っていますが、学校の給食費を払いません。
 私は勇気があるな、と思うだけで笑っていますがウチの主人は大声で非難しています。
 隣の家に聞こえるだろ!
 なので私は「何をしようと自由だろ!そんなのどうだっていいや!」と、もっと大声で怒鳴らなくてはなりません。
 まことに正義感の強い小物ほど、付き合うのが面倒なものはありません)


こういう行事も、集合意識の表れかな?と、そう思うと、かなり沢山そういう物がありますね。

そうなんです。
この世には集合意識で作られたモノばかり。
たとえば、法律や政治経済です。
これって近代になって私と同等である人間が作ったものです。
同等とは、「お互いにただの人間である」という意味ですよ。

そりゃアタシより相手の方が賢いですよ。
でも、そのことが私が連中の言うことをきかなくてはならない、ってことにはならないと思うのです。
民主主義って何?
私はそのようなものを認めた覚えは無い。
教科書に載っていたが、そのことと、今の世が民主主義で良い、ということは別モノですよ。
と、言うと私は無政府主義者と思われるかもしれません。
しかし私は主義主張は無いのです。
ただ、やる以上は許可を得てからやれ、と言っているのです。
そう。
民主主義をやりたいなら、政府の関係者自らが日本の家の一軒一軒を回り
「民主主義で行きますが、許可してもらえますかね?」と、挨拶回りをしろ、と言ってます。
これは法律も同様。



今から8年くらい前ですかね。
私が勤めていたお店に御客さんが忘れ物をした。
終わる時刻が遅かったので、帰りに交番へ持って行こうと思ったがそのまま帰宅してしまった。
翌日近所の交番に忘れ物を持って行きました。
そして警察官に「これ、昨日の忘れものです」と届けたら、届けるのが一日遅かったと言うのです。
当日持って来ないと窃盗になるらしい。
んなバカな!
そうか、そういうことを言うのか、分かった。

「えええええええええええっと、私は一般市民なのでそういう法律があることを知りませんでした。
 もしそのような法律があるなら、私達に知らしめて欲しいですね、だって、私達は一般市民なので知らないんだから。
 一軒一軒家を廻り、そういう法律があることを知らせなさいよ。」

警官達は嫌そうな顔をしています。
「奥さん、今日はこれでいいから」と言うので、私は(この馬鹿者!)と思い
「いいや、良くありませんね。」
私は頭の中で(今の法務大臣誰だったっけな?)と、冷静に考えています。
こいつらの態度がもし、さらに無礼になるようなら法務大臣に知らせ、
誰が主人か分からせてやろうと、思っているのです。
(※だって
民主主義って一般人が主人て意味でしょ?違う?)

私が態度を硬化させたからか警官どもの態度は良くなりました。
あともうちょっと爪の先ほどの無礼があれば私はマジ、法務大臣にクレームつけようと思ってましたが
態度が改善されたので、まぁ、いいか、と。

言っておきますが、私は法律を遵守しています。
でも、心から法律が正しいとは思っていません。
これは自分と同等の人間である、どこかの誰かが決めたことなんだ、と思っています。
神が決めたならそりゃしょうがない、私達人間の出る幕では無い、従うしかない。
でも自分と同じ身分のどこかの誰から決めたモノに、なぜ私が従わなくてはならないのか、誰か納得の行く説明をして欲しい。
その説明は我が家へ来てして欲しい。
こっちがどこかへ出向くなんて面倒臭いからさ。



これが集合意識から抜け出た心の姿勢です。
いかにそれから抜け出るのがヤバイか分かるかと思いますねw
なので殆どの人はそこ(集合意識)から抜け出ることが出来ないのです。

説明しますと、私が警官や法律、政府に何の価値も権威も認めないのは、歴史が好きだからです。
歴史を学べば分かりますよ。
さらに「今の世界のこと」を学ぶといい。
社会のことを知るのが好きな人は、世の集合意識から抜け出ています。
私の性格が893であるとか、そういうことでは無いのでね、理解してね、ホントだってば。


なぞの方が波動があがったと、言われているとありましたが、本当でしょうか?

さぁ・・・どうでしょうね?私には何も感じられませんが。

我が家はインフルエンザの子がいたり、→ これって、インフルエンザに私が焦点を当てすぎた結果かもしれませんね。
主人は、対策グッズを次々買ってきますし、これって、完全に防御体制…。だから、なるんだよ!と思ったりします。

多分そうです。
親の意識にインフルエンザへの恐怖感があるので、子供がそれを体現しているのです。


集合意識から抜け出す = 孤独 というか、何にも囚われない、縛られないこと。 でも、そこにまだ、寂しさや、色々な感情が付きまとうなと思っています。

う〜〜〜ん。
たとえば私は何が大事かというと「自由」なんです。
自由を得るためなら孤独なんてどうでも良い。
と、思っているんだけど、ところが不思議なことに私に賛同してくれる人がいるんです。
そりゃ私を誤解したり妬んだり憎んだりする人もいますよ。
でもそういう人はそれをやりたいんだから、どうぞご自由に、です。
他人がどのような思いでいようとそれは私の関知するところではありません。
つくづく自分が個人主義で良かったと思います。
私は何ものに囚われず自由に思い行動することが最も重要であり、幸せなのです。

そしてそういう人は私だけでは無く、います。
つまり仲間がいる。
なので全然孤独ではありません。



Fさんが言う孤独とは、たとえば行事があって学校へ行く、その時話相手がいなくて
一人ポツンとしてしまう・・・とか、そんなようなことでしょうかね。
もしそうならそれって、どうでも良いことでは?

また、集合意識から抜け出していても、学校の行事などで知り合いのお母さんと一緒になれば
別に普通に会話できるし、特に支障をきたすこともありませんよ。


「心が攻撃態勢に入る」という記事がありましたが、それなんです!
多分、今までの私がやっていることは。
低次のサヌキなんでしょうが、「自分がこれだけやってるのに、理解してもらえない」とかも、もちろんありますし、自分を守るために、攻撃態勢になってます。
 
最近、時々コツが分かって、「アッソウ」「ふーん」と思えるようにはなってきましたが、以前は、一々、攻撃防御体制だったので大変でした。
(今でもありますが)

その「あっそう」や「ふ〜〜〜ん」を増やすと良いですね。
世の中の殆どのことはその二つの言葉で足ります。


これから抜け出すには、まだまだ心の意識化が必要だなと思っています。
心に正直になるというか、正直になって点検する作業というか、つい怠り勝ちですが、必要だなと思うのです。
良く考えると、今までの人生すべてが、H子さんのお姉さんではないけど、そういう基準で行動する癖が出来ているなぁと思うのです。
それを取り除くのは、不安が強いんだなと、分析中です。

Fさんが言う通り殆どの人がH子さんのお姉さん状態だと思います。
多数派から見たらH子さんのお姉さんは成功しているのです。
息子は凶と大学卒で、判事。
本人は教師で(私以外の)人は羨むかもしれません。
なので、この状況のどこが失敗なのか自覚することが出来ないのです。
これって凄く失敗です。

(ウチの主人もH子さんのお姉さんと同類です。なので、それではいけないと言うことを体験するために
  うちの倅の出来がいまいち、末っ子に至っては低偏差値高でビリという有様です。
   この体験を通してウチの主人は「人間は偏差値では無い、」ということを学んでいるのです。
   もしウチの主人が、もっと前にこのことを分かっていたら、ウチの息子はここまででは無かったのですが、
   なかなか学ばないので身をもって知ることになりました。
   私は末っ子の学力などどうでも良い。素直で元気に育ってくれれば良い)


見える世界より見えない世界の方が多いのです。
見える世界はほんの少しなのです。
一見、不味い状況であるたとえばニート。
我が家にはニートの子が居てくれてとても助かっています。
先祖霊の運命は全てこのニートに罹っていると言っても過言ではありません。

日月神が何度も言うことには「(この世はそのうち)
グレンとひっくり返るのぞ」だそうです。
上が下に下が上になる。
見えない世界のことが分かる方にはこの言葉の意味が分かるが、そうでは無い人(世の98%)には分からないのです。




<集合意識から離れるとは?>(2009年10月19日)


行動のことではありません、意識の問題です。
世の多くの人が”常識”だと思っていることから心を離せばいいので、行動をするな、と言うのではありません。



もうちょっと説明すると。。。

たとえば年賀状です。
多くの人が年賀状を出すことを”常識”だと思っています。
やってもいいし、やらなくてもいい。
でも、家族に「何故オマエは年賀状を出さないんだ?」と怒るような人がいる場合は
トラブルを避けるために年賀状を出したって良いのです。
年賀状を出さなくてはいけない、出すのが常識だ、という集合意識から外れれば良いので年賀状を出すなよ、とは言いません。
勿論、面倒なので出さない、相手から来たらそれに返事だけ出す、ってのでも良い。

他の風俗習慣についても、「それが絶対なんだ!」「日本人なら知らなくちゃいけないんだ!」
「これが出来ないのは日本人ではないんだ!」という、根拠の無い習慣から離れることです。
でも、だからと言ってそれらを一切するな、というのではありません。
適当に付き合うのも良い。
いや、今後一切それは止める、というのでも良い。
どっちでも良い。
環境がそれを許すなら好きにすれば良い。
問題はそれに関する「心の在り方」だからです。



たとえば法律です。
法律を守らなくてはいかん!と、真剣に真面目に考えている人が殆どだと思います。
が、上の方の人は法律のさらに上や、範囲外にいるようです。
そういうのが分かってくると真面目に法律を守るのがバカらしくなる。
でも、法律を守らないとまずいことにもなりますね。
だから、守った方がいい。
つまり、行動面では法律遵守する。
でも、心までは法律は絶対である!という、変な洗脳から離れていればいいのです。



”常識”や習慣、法律から外れた人を見て非難しなければいいのです。
(と、言って思いやりの無い心や言葉に対して、それはいけないな、と思うのは良いと思う。
 しかしこれももっと心が高まれば多分どうでも良くなる)


また、目に見えることを基準に生きるより、見えないことを基準に生きると良いと思う。
たとえば他人を評価する際に目に見えることを基準にする人が多いが、自分はそれから離れること。
それらに左右されないこと。
また、良いことに有頂天になり、悪いことにはドン底まで堕ち込むのも止める。
(日月神示には「福を払え」という言葉がある。
  人間は良いことに反応し、嬉しくてそれを掴み離さないので、それはいけないと教えてくれています。
  つまり一見良いと見えることにも淡々としなさい、ということ)




<うつ病自殺について・・・若い人は無礼>(2009年10月18日)


昨日、1960年代〜に人気があった歌手が自殺しました。
うつ病だったそうです。
それに対してネットでお悔やみを書き込むページがあります。


その中に多分若い人(10代〜20代、中には30代)の意見だと思うが
「ホテルで自殺するなんて、ホテルに迷惑だろ。場所を選べ。ちゃんと考えろ。自宅で死ね。」というのが幾つもあります。
或いは
「加藤和彦って誰?知らな〜い。Yahooさん、こんな無名な人のニュースを載せないでよ。」とか。



「若い人は無礼」とは、今から10年以上前にどっかのオヤジ(作家?)が書いていた言葉です。
若者が無礼なのは、「それを無礼だと知らない」からです。
無知が原因です。
なのでこういう場所にも平気で自分の無知をさらけ出す。
上の例で言えば後者の「その人知らない」というのはまさに無知ですよね。
知らないなら知らないでいいから黙っているか、「私は知りませんが、気の毒でしたね」とコメントすれば良いものを
「自分が知らないんだから、それをニュースにするな」というのは、トンデモない自己中&傲慢です。
凄い。
ヂゴクへまっしぐらですね、まだ若いのに気の毒。

前者の「死ぬ時は場所をわきまえろ」という意見ですが、
場所をわきまえられるような精神状態なら自殺なんかしない、ということを知らない。
そこまで想像力が無いのです。
そして「場所をわきまえろ」「他人の迷惑を考えろ」という言葉は”正論”なので
これに反対することは出来ない、と見通しも立てている。
しかし世間は「その上」の理くつを言えますから、そのような意見に対してたしなめる意見が書きこまれる。
しかし「その上」の理くつなど理解出来ないから「迷惑だろ」と書きこんだのであって
周囲の人が何を言おうと自分は間違ってない、と意識してか無意識にか、思っているのです。



ところで。
運命は何かを分からせる方向に動きます。
不思議とそうなります。
ということは、「場所をわきまえろ」「他人の迷惑を考えろ」という意見を書き込んだ人はこれから
分からなくてはならないことを分からない場合、身をもって知ることになります。

具体的には「
モノゴトが分からない人はうつになり易いのです。なので、このような投稿をする人はうつになる率が高い。
案の定、この人達はうつ病に罹り、自殺したくなる。そして場所を探す。自宅で死のうと思うが、
いつも誰かが家に居てチャンスが無い。仕方なく旅行に出かける。富士山の樹海で死のうと思うが
ウロウロしていたら『自殺を止めさせる管理人』のおじさんに発見されて声を掛けられてしまったので、出来なかった。
その日は仕方ないから旅館に泊まることにした。そしてその部屋で自殺することにした。
で、死ぬ直前に、あ、オレ旅館で自殺しちゃってるよ!あっ、そうか!」
と、やっと気づくがもう遅い、とか。



日月神が言います。
「(神示を腹に入れれば)
大難は小難に。小難は無難になる」と。
腹に入れるとか本当に理解することです。
知識ではなくて悟ること。
それが出来ないと最悪の悟り方をする。

話が逸れましたが、自殺する人は普通の意識状態では無いのだから、○○するべきという理屈は通用しない、
ということを言いたかったのでした。




という記事を読んだ若い方から意見が来ました。

「若い人は無礼」
最近その言葉の意味が痛いほど身に染みています。
自分もかなり無礼をやって(現在進行形)、あとから思い出して気がついて
「あの時やっちゃってた!恥ずかしい!!」とよくなります。
なるべく減らしたいです・・・と思ったそばからやってしまいますが。

自殺もそうですけど、
本当にそうなってみないとわからないことがいっぱいあります。

私は小さいときから「生物は死んだら生き返らない」という知識があって、
そして「死んだらしょうがない」と思っていました。

でも、中学生の頃に飼っていた犬が死んでしまって、やっとそのとき、
「死んだら生き返らない」とはどういうことかを悟りました。
「死んだらしょうがない」では済まないことを悟りました。
「ああ、自分って馬鹿だったんだ。
 死ぬということがわかっているような気になっていただけだった。」
とか、他にも色々。

この世で体験することは、全部そうして教えてくれているんだなあと思います。
わかるまで自分がバラバラになるような苦しみを味わうこともありますが、
それも愛なのかもしれません。
「わかったふり」には特に厳しい制裁(愛の鞭?)が待っていますよね。

基本的には言ったことやったことの責任を必ず取らされるので、
そういう目に遭うたびに私は、運命か何かに
「お前はあんな偉そうなことを言っていたが、実際はどうだ?出来るのか?」と言われている気になります。
そして「はい、私はホントに馬鹿でした。すいませんでした。」と土下座したり
「苦しいけど、やりとげてみせます!」と躍起になったり。

人は死ぬまでずっと「お前は出来るのか?」と問われているのかもしれません。自分に。


それにしても、
よくいろんなHPや本で「もはや学びの時代は終わった」と言われていますが、
この馬鹿な状態で、「学び」が終わったら困るなあと思います。
69さんが昔
「アセンションには1つ問題がある。アセンションすれば、これ以上の向上(学び)が無いということ」
と言っていた意味も、今ならよくわかります。


「これからどうするか」という問題は、
実に考える余地がたくさんありますね。
いや、これからでは遅すぎますね、「今どうするか」ですね。

69さんがHPでおっしゃっているとおり、
あまり時間は残されてないだろうけど、
とりあえずやれるだけやるしかないですね。


良い学びをしています。
この方は私の子供くらいの年齢です。
私はおばさんなので若い人と感覚がズレているかもしれませんが、
ウチの子供と同世代の10代〜20代の人とは好きな音楽も同じとか、
感覚の面でズレを感じることがあまりありません。
むしろその間の世代の方が「69さんズレている」と感じるかもしれませんが、
そういう方達は今の10代〜20代とは感覚がズレていて
(あ〜あ、おじさんおばさんはズレてるぜ)と、思われているはずw

相似象の師匠(女性・故人)が、「私は若い世代の人にしか期待しない」と、著書の中で何度も書いてます。
人間大人になると、無意識無自覚で「自分は正しい」「自分は間違ってない」と思っているのです。
そういう人には「物事を分かる方法の伝授」など不必要なので、
師匠は「若い人」だけに期待したのでしょう。


30代以上の方の中でも少数派の方達は頭も心も柔軟なので大丈夫ですが。


<集合意識に囲まれて生きる>(2009年10月18日)


こんなメールが来ました。


思いっきり風邪を引きました。
今まではすぐ病院に行ってましたが今回はやめ、
おかゆを食べてじっとしていることにしました。
父は私がテコでも病院に行かないので多少不機嫌気味です。

『今までみたいに病院に行けば早く治るのに。
 最近の娘はオレの言うことを聞かない、へんな奴だ。
 ま、本人には言わないけどさ。
 とにかくあいつは、オレの言うこと聞いてりゃいいのに、
 「タミフル処方されて死んだらどうしてくれる?」とか言って、
 死ぬわけねえだろ。頭がおかしくなったのか?』


そんなかんじです。
たいがい、集合意識を無視する人への世の中の理解は、
そんなものなんでしょうけど。




そうなんですよ。
多数派は数が多い、という(しょうもない)理由で少数派を違和感の目で見、見るだけならいいが、批判非難攻撃します。
この点を相似象の師匠、宇野女史は何度も書いています。
この本は少数者のための本だから、公(おおやけ)にすることはしないし、
もし間違って多数派の人に渡れば面白くも何ともないはずなので、本を返してください、と。

多数派の人が本を読んで(なんだ、これ、分からないや)と、思うだけなら良い。
しかし本の内容を誤解して攻撃に転ずるのを防ぎたい、という思いが強かったのです。
(ちなみに宇野女史は別荘で、多分後継者の人と火災に遭い、焼死しています。
 ある筋からの情報によれば、陰謀かもしれないとのことです。
 宇野女史がこのような死に方をしたことに関しては、私はどうしたんだろう?と思いました。
 或る、相似象を知った人の反応は・・・
 波動だのレベルだの少数者だのと言っておきながら、最後はこのザマだ、みたいな感じでした。
 何故か勝ち誇っているようでした。
 この人は他にも変な点が沢山有り、後でTQ霊に憑かれていたのだ、と私は知りました)


少数者という言い回しに感情的になり、書いてあることは心が無い(波動量が少ない)ために理解できず
攻撃に転ずる人が多いのです。
この場合の攻撃とは心が攻撃態勢に入る、という意味です。
なので具体的に何かをするということではありません。
その中には行動的な人がいるので、実際に攻撃する人もいます。

たとえば「攻撃」という言葉。
上の情報を寄せてくれた方のお父さんがそうですね。
「自分に理解出来ないものを、批判という形で攻撃する」のです。
(攻撃と言っても殴る蹴るだけではありません。
 厭味を言う、理解するまで説教する、なども入ります。
 言い負かす、ことです)




しかし多数派の半数はおとなしいアワ人間。
攻撃するのは半数のサヌキ人間ですかね。
でも、アワ人間も「自分の気持ちを分かってくれない。こんなに心配しているのに」という怨み、つらみを向けてくるのです。
これも消極的な女々しい攻撃だと言えます。
(攻撃では無い態度とは・・・へえ、そうなんだ、とか、了解した、とか。事実を今認識しましたよ、というような態度)
「分かってくれない」というのは低次元の我なのです。
アワ人間はアワ人間でその我を押しつけてくる、或いは自分の我を相手が受け入れてくれないことを怨む。
実に面倒です。

このような集合意識の中にいて心が負けないで生きるのは大変です。

よほど心が強くないとなりません。



<白と黒>(2009年10月17日)


魂の輝きのことです。
人間の身体は幾つものボディから出来ているそうで、それらの輝きのことなので
厳密にいえば魂のことではありませんが、ここではそのボディのことを便宜的に魂と呼びます。



先日或る会合がありました。
某サイトで出席者を募り、主催者にまとめてもらいました。
この数が約10名。
主催者は主催者で独自のルートが有り、そっちからも10名ほど出席していました。
約半々の出席者の顔を見ていましたが、どうも違う。
何が違うかと言うと魂の輝き方が違う。

某サイト関連=〜白〜輝く白
それ以外=黒〜灰色〜白(例外的に1名)

私の身贔屓や気のせいかもしれないな、と思ったら主催者も同感だったようです。
主催者は「暴・・・いや某サイト関連の方は皆、真剣でした」と言ってます。
(と、言っただけでそれ以外の人達が良くて灰色だった、とは言ってませんので)



このような会合に出席する人は何か困りごとがあって、それを解決したいから、という方がいます。
それはなくて自分は幸せだ、でも先祖のためにひと肌脱ごう、という方もいます。
その視点で見てみれば黒〜灰色の方達は、困り事を抱えて暗くなっているのだ、と言えます。
でも、某サイト関連の出席者の方達だって身内の困り事を抱えているんですよ。

誰だって困り事の一つや二つや三つ四つ、十や二十持っています。
それは某サイト関連も主催者関連の人も条件は置かれた境遇にそんなに違いがあるわけでは無いと思う。
個人個人を見れば違うが、平均値を取れば似たようなものですよ。
なのにこの顔の違い、表情の差は何?と、不思議に思ったのです。

一つ出た結論を書きますと暴・・・じゃなかった某サイト関連の方達は自力で解決する能力を或る程度獲得した、
なので困ったことがあっても乗り越えられるので明るいのではないか、ということです。
嫌なことはあっても心までが暗くならないのです。
困り事に押し潰されそうになれば表情も暗くなりますよ。
ということは、ほぼ同じ境遇に居ても解決方法を知っている、心の姿勢が自力で解決する、となった人は
明るく生きていけるのではないでしょうか。



<何様>(2009年10月14日)


下の記事<H子さんのお姉さん・・・義理と義務で生きている人>に関連しています。
なんか親戚の悪口シリーズのようですが、そうではありません。
悪口を書くのは親戚に限って無いからですw

H子さんのお姉さんは考え方がかなり間違っていると思いますね。
一つや二つではありませんね。
まぁ、私も大いに間違っているが、間違っている部分が違うのでこうして批判しているわけですがね。
世に間違っている人は多い、、、、というか、ほとんどの人が例外を除いて間違っている。
でもやはり軽い間違いから重い間違いまであると思うし、
些細な間違いから重大な間違いまであると思いますよ。
愛嬌のある間違いや若いのでモノを知らないで間違っている、なんてのは良いと思う。
仕方ない。
でも、いい年した大人で分別がある人が間違っている場合。
しかもその間違い方が「何様」だと感じられる場合は、私は嫌ですね。



H子さんのお姉さんは「自分はマットウである」と、無意識無自覚に思っているのでしょう。
無意識無自覚とは「自分はマットウであると、自分が思っている」ということを知らないで(意識しないで)思っている、という意味です。
殆どの人はこれに陥っています。
自覚出来ないのです。
自覚出来ないまま発言したり行動したりしています。
それが大きな間違いです。
間違ったっていいから、それを自覚しましょう。



つまり
ああ、自分は○○学会員が自分の親戚になるということが耐えられないんだな。
だって、私は○○学会が嫌いなんだもん。
何故嫌いかといえば、そりゃそうよ。
だって、あの人達って宗教団体よね?
宗教団体って悪いんじゃなかったかしら?
だって、偉い人がそんなことを言ってたわ。
私はその偉い人の言うことを信じるので、だから○○学会は嫌い。
私が偉い人を信じるのはその人が○○大学を出ているからです。
○○大学って偏差値が高いから偉いんです。
ウチの息子はその○○大学と同じレベルの大学出ています。
私の育て方が良かったからよ。
それなのに、H子、あなたは何をやっていたの?
ろくな高校も出てないし、職業がコックだって(わらい)
ウチの息子は判事になります。
それはとても自慢です。
だって、そうでしょう?
皆さん、そう思うわよね?
コックと判事だったら、誰だって判事の方が偉いと思うわよね?
まぁ、コックだっていいわ。
でも、よりによって結婚相手が○○学会員とは何!
いったいどういう子育てをしたの!
あ〜〜〜、こんなコトならあたしに預けてくれればもっと良い高校〜大学に行かせてあげられたのに。
まぁ、それはいいわ。
もう遅いもん。
だからね、え〜〜〜と、何だっけ?
そうそう○○学会よ。
しょうがないわよ、結婚したっていいわよ、もう止められないんでしょ?
その代わり、ウチとは親戚付き合いは一切御断りしますからね!
でも結婚式には出ますよ。
だって、親戚だもん、嫌だけどしょうがない。
こっちの親戚が誰も出なかったら、あちらの家に対してしめしがつかないもん。
出てあげます。
でも、親戚付き合いはゴメンですからね。
いい?分かった?




みたいな?

想像ですけどね。

こんなところだと思いますよ。

H子さんがお姉さんに叱られている時、私を呼んでくれれば良かったのにな!
H子さんの代わりにビシバシ言ってやったのに。




まとめますと、このお姉さんは
◆自分は常識人である
◆自分はマットウである
◆自分はちゃんとやっている
◆自分は世間から見て恥ずかしくない暮らしをしている
◆子供達は皆マットウに育った
◆間違っても○○学会員と結婚するような子には育てなかった



つまり
◆自分は正しい



って所でしょうね。



チャンスがあったら(親戚一同集まった所でこの話になったら)言ってやりたいですね。
「あんた何様?」と。
(残念ながら私の直接の親戚では無いので会わないので言えません)



H子さんの妹の旦那は某有名大学付属高校教諭だそうです。
その家も○○学会が親戚になるのが嫌で夫婦で結婚式参列拒否。
H子さんの両親も参列拒否。
でも老人の場合はしょうがないと思うんですよ。
普通の老人は殆ど思考力が無いのでね(思考力を伸ばす教育を受けてない)。
でも若い人がコレ(参列拒否)ってどうよ?

そりゃ学会は学会員以外には評判悪いことはたしかです。
でも、それと、自分が彼らを嫌うこととは「別モノ」ですよね?
何で世の風潮に自分が染まらなくてはならないのか、誰か説明して欲しい。
(同じ理由で韓国と日本がやたら仲良くしようと言う風潮があるが、私はそれに賛成しません。
  仲良くするなら個人的に仲良くします)


何故、大かたの風潮に洗脳されて、それを変と思わず、むしろ自慢し得意になれるのだろう?
私はそれが恥ずかしい。




今年の夏のOFF会で会った時、ジュネさんが言ってました。
「集合意識から抜け出さないとね」と。
抜け出さないと皆と一緒になってしまう。
皆と一緒ってことは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・不味いですね。

周囲に自分の味方をする人が居なくても探せば一人くらいはいるし、
ネットの世界には沢山いますよ。
今、この時代ネットが普及し、そこで意見交換出来る状況というのは、これは神の恩寵、
神仕組みではないかとさえ思います。
現実に味方が居ないことにガッカリしてはいけない。
だったらネットで探せば良い。

H子さんのお姉さんや妹夫婦のようなのは現実世界にはとても多く、彼らは得意になっているのでしょう、
あ、無意識にね。
最後まで得意になっていれば良い。
それは本当の幸せでは無いが、彼らはもともと本当の幸せなど求めてはいない。

私のお客さんもH子さんのように無理解な周囲のために悲しい思いをしたり悔しい思いをしたりしているようですが
負けないで忍耐してくださいね。



<H子さんのお姉さん・・・義理と義務で生きている人>(2009年10月13日)


下の方の記事<どんどん進む二極化・・・親戚編>のH子さん。
そのお姉さんの性質が私にそっくりだ、と書きました。
お姉さんはH子さんの息子が結婚する際、周囲が反対するのに思いやりを持って結婚式に出た、と書きました。
ところが新たに入った情報(義母より)によれば、違うのです。

この結婚に一番強硬に反対していたのが、H子さんのお姉さんなんですと!
ひえええっ。

H子さんのお姉さんは義務教育校の教員をしています。
息子の一人は旧帝大を出ていて凄い秀才です。
H子さんは大学を出ていません。
三姉妹の中では低学歴なのです。
高校も低偏差値でした。
なのでこのお姉さんはH子さんをバカにしているのではないかな。



H子さんのお姉さんと私が似ている、とH子さんが感じるのは
◆二人とも長子
◆同じ高校卒
◆同じ大学卒
◆似たようなサヌキ人間
だからでしょう。
そりゃ条件は似ている。
でも人間だもの全く同じ人間はいません。



このお姉さんは自分が今まで順調で息子も出来が良く、世間から見て「良い」と思える状況にあることを
無自覚に自慢しているのではないか。
無意識に鼻が高くなっているのではないか。
なので○○学会員の親戚が出来ることが嫌なのではないか。

結婚式の前に、このお姉さんはH子さんに対して凄く怒ったそうです。
でも、結婚式には出席した。
それは義務であり、義理があるからです。
心から祝ってあげたいのではなく、体面のためです。

世の中にそういう人間がいると想像しなかった私は驚きました。
義理や義務で行動するならしない方が良い、と私は思う。
なのでしません。

このお姉さんのような人。
いるんですね、そういう人ってw



このことを報告してくれた義母が「(H子さんのお姉さんは)
これから良いこと無いよ」と言ってましたが、
大いに同感です。
たとえ今、家庭が順風満帆でも心の在り方がこのようではいずれ崩壊するでしょう。
いや、崩壊すればそれはむしろ慈悲ですよ。
崩壊せず最後まで順調に行っても、肝心な魂は?
非常にまずいです。

いくら性質が似ていても、私はこの通り学校からは足を洗ってトンデモの道を歩んでいます。
周囲からは「勿体無い」と言われましたが、教師になれば魂がまずいことになる、と若い私には直感で分かっていたのです。
なので、サッサと足を洗って子育てに専念しました。

人から先生と呼ばれてもおかしくならない人(先生の呼び名に負けない人)だけが教師をやれば良い。
しかし、そういう人は例外で殆どの人はその呼び名(境遇)に負けてしまう。
これも魂の戦(たまのいくさ)です。

H子さんのお姉さんには潜象勘が無いので、何も分からないのです。
そういう人ほどいい気になって得意になって生きている。
幸せっちゃあ幸せですが、本当の幸せで無いことは分かりますね?
このようにどこの親戚にも溜息が出るような人がいます。
目覚めている人はとても少ないのです。



<だらしない・甘える・妬む→低級化へまっしぐら>(2009年10月7日)


人間だもの(わらい)そんなに几帳面に生きていられませんが(いや、たまには几帳面な方がいますが)
だらし無さ過ぎる人というのは既にその状態が低級霊だと思います。
生きてる低級霊ってことね。
私もそんなにきちんとしてはいませんが。
でも”通常の範囲内”というのは「有る」と思うのです。
何が通常か、と言えば人によって違うでしょうが、世の平均値を中心にして
上は「あんたちょっと神経質過ぎない?」と言われる一歩手前、
下は「あんただらしないわよ!」と言われる一歩手前くらいだとします。
(※几帳面と神経質とは違いますが、世の多くの人はこの二つを混同しているので、これでいきます)

私は「だらしない」と言われる3歩ほど手前なので、あまり偉そうなことは言えませんが
世の中には傍から見て「だらしない」と評価される人が実際にいます。
そういう人が既に低級霊であると、私は言っているのです。



低級霊とは私の定義では
◆ホーキンズ博士の意識レベルで200未満
◆世の8割は獣の入れ物(日月神)

ということで、積極的に他人に害を為すのを私は「悪霊」と呼んでいますが、悪霊も低級霊の中に入れています。
(※故・高橋信次師は、低級霊=悪霊としていました)

さて、だらしない人です。
通常のだらしなさ(私レベル)を逸脱しただらし無さを発揮している人はキネシオロジーで調べれば
200未満なのではないかと、推理するわけです。
そして、獣の入れ物ではないか、と思います。
人並みに出来ない人です。




知り合いに或る主婦がいます。
とても明るくハキハキし、自分のやりたいことがあって活動している。
一見良い。
でも、チラホラと物事が分からないという面が見えます。
まぁ、見えてもいいや、皆分からずやなんだし・・・・と思っていました。

以前私が買った特殊な家電製品を貸してあげた。
「一か月ね」と言うと「うん。」と承知する。
ところが何か月経っても返さない。
こちらも他の家電があるのでまぁ、間に合うからいいや、と放置。
こちらが「返して」と言うと、謝るでもなく平然としていてさらに「取りに来てくれる?」と、
私に回収に行かせようとするので、それは無いな、と。
なので「持って来て」と言います。
するとそれから数日後に持って来る。

これを数年間に数回繰り返した。
最後の方は(ああ、この人はだらしない人なんだな)と分かった。
別に腹も立ちません。
(※ちなみに同じ家電を指輪のK子に貸すときれいに掃除してピカピカにして返してくれます)

まぁ、子供が多くて大変なんだろう、と思うし、他の家電で間に合っているのでいいんです。

ところでこの家電には専用の或るモノが必要です。
それは入手が面倒なので、借りている人が買ってくれるとありがたい。
ついでに私の分も買ってくれるとありがたい。
「インターネットで検索して買ってくれる?」と頼んでも「出来ない」と言うので出来ないなら仕方無いな、と。
ネットに不慣れな人っていますからね。

それから相似象を読んだら?ということでたしか相似象を一冊貸して「あれを返してくれる?」と言うと「ない」と言うのです。
私も記憶が曖昧なのでたしかにこの人に貸したのかどうか、ハッキリとは覚えてないので(まぁ、いいか)と。

まぁ、そんな感じで数年過ごしました。




その後、私がHPを始め絵を売るようになった。
その主婦が「どのくらい売れているの?」と訊くので正直に売上を「○○万円」と答えた。
この金額は多分この夫婦の稼ぎより多かったw
でも私は出費も多かったのです。
ところが私は入る金は合計しても、出た金は計算しません。
なのでいくら儲かっているのか分かりません。
そりゃ売上より少ないですよ!


その後この主婦は会うたびに「ねえlご馳走してぇ」と言うようになったがこちらは時間が無いので実現ならず。



或る日、この主婦から「これから行く」と電話が入りました。
この主婦は花屋を経営しています。
店に置いておいた品物が売れずこれを処分したい、と言うので「では持って来て」と答えた。
すると持って来ました。
東京の偉い先生から買った天然石だそうです。
見たらくずばかり。
殆どがクズで、一部使えそうな☆型の石がありました。
くずには値段が無くて、☆型の石を一個20円とすれば200個ちょっとあったので4000円ちょっとでしょう。
クズも1000円で買ってあげることにして
「5000円なら買う」と言いました。

すると主婦は
「2万円で仕入れたので2万円で買って欲しい」と言うのです。
(え?)
有り得ない・・・東京の先生と言う名前にコロっと騙されたのでしょう。

先生も先生だが、買う方も買う方です。



「いや、これは2万円じゃないでしょう。」
「でも私はその値段で買った」
「はあ?」
「これもつけるから」
見れば素的な箱ですが、でも使用済みです。
「これは8000円した」と言う。
両方足して2万8千円で私に売ろうとしている。

「ええと、これ新品じゃなくて使ったものだよね?
ってことは状態が良くても一度でも使ってあれば、その場で半額になるよ。」
すると主婦は私が言っていることが理解出来ないようで顔を俯き加減にして考えている。
表情はどんどん暗くなって行く。
(おいおい)
「じゃ、半額で買ってあげるよ」
「でも、2万8千円で買ったんだけど」
「は?
 ええええっと、私、これを買ってあげようと言っているんだよ?
 でも普通は半額以下になるよ。」

主婦は何かを考えているような顔をしていましたが、頭の中は多分何もアイディアは無いでしょう。
その顔つきは既に○○霊に憑かれた人のようでした。
(怖〜〜〜!)
しばらくしてから
「じゃ2万円でいいや。」と言うので、
このまま我が家でTQ霊に憑かれた顔を続けられても困るのでその値段で買ってあげました。



これだって法外な値段です。
適正価格は
◆クズが多い石=5000円(これも高く買ってあげて)
◆使用済みケース=4000円(これも思いやり価格)
◆合計=9000円

本当ならこれらは誰にも売れないので、「0円」なのです。
それを買ってあげようと言うのだから、9000円になればラッキーなはず。
でも、主婦は「自分が2万8千円で買ったから」それを半値以下で売るなんて考えられないのでした。

(※こう言ってはナンですが、TQ霊に憑かれる人は、思考力に乏しい人です。
   何か問題があるたび、他人から何か言われるたびに、思考すれば理解できるものを思考力が無いので思考しません。
   その結果、自分の心の中が嫌〜な気分に満たされているのです。
   老人や田舎の人にはいますよ)


主婦が帰ってからちょうど家に来て家事をしてくれていた友人S子に
「ねえ、これ、2万円だって。」と品物を見せたら
「ボッタクリじゃないのぉ!」と驚いていた。


しかしあの主婦の表情・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・明らかに「何とか霊」が憑いていました。
(※いや〜〜〜○○霊にみるみる憑かれて行く人を見るのは初めてだったので、良い経験でした)



多分この人は私が儲けていると聞き、妬んだのではないかな。
なので69が儲かっているなら売ってやれ、としょうもない品物を押し売りに来たのです。
私なら他人が儲かっていれば喜びますが、他人の成功やラッキーを喜べないのは既にTQ霊。

そっかそっか、分かった。
どういう状況(相手の心)か分かった。

私が次にしたことはクズ同然の材料を使って指輪を量産し売ることでした。
とは言っても使ったのはクズに混じっていたマトモな製品、☆型のでしたが。
幸いなことにアイディアならすぐ出るので、それを使って指輪を100個ほど作り売ったら全部売れました。

家事手伝いと指輪作りをしてくれた友人S子に
「(主婦の)店へ行って自慢して来い」と言いつけたw
友人が店へ行ったら、主婦が居たのでこの間の石を指輪に加工したら売れたわ、お蔭さまで、と話した。
「へえ、いくらになったの?」
「○万円」
「ええええええっ!」

「うふふ〜♪」

友人が帰って来て言うことにゃ、何もしないであの(クズ)石が○万円に化けたわけではない。
69さんがアイディアを出して私が一生懸命作ってお金に変えたのだ、そこを主婦は分かろうとしない。
私はああいうひととはお友達になりたくないわ・・・と言うので笑いました。

付き合って行くうちにだんだん正体が見えて来ますな、これは面白い。




いろいろ探るようなことに訊いたりするので友人はすっかりこの主婦が嫌になったらしい。
もう一人の友人も買いものをしたら心無い対応だったことに怒っていた。
私も別にそこで買わなくても他にも店は沢山あるので、そこには行く用事もないし殆ど行かなくなりました。

でもたまにそこで買い物をすることがあります。
花が盛りを過ぎてこれはもう捨てるしかないな、ってのを(買ってあげようか)と思って
「一本いくら?」と言ったら「200円」だと言う。
高いな、と思ったがまぁ、いいか、と「じゃ4本」と言ったら頼みもしないのに何かの葉っぱを足している。
(そっか、花がいまいちなので葉っぱをサービスか、いいトコあるな)と、思っていたら
「はい、1000円ね」と言うので(えええええええええええっ!)
まさか、頼んで無い葉っぱを入れてその代金を足して請求するとは・・・大いに呆れたが、まぁ、いいか、と。

私の信頼する友人二人が口を揃えて「あの人は」と言うのには理由があるんだな、と悟ったのでした。

このように一つのことを「分かる」には数年〜十数年の年月が必要です。(っつうか、もっと早く分かれっ)

あはっは!

当然のことながら私には悔しい気持ちはありません。
観察するのが面白いのでOK〜いです。




この主婦は私が儲かっていると勝手に思い(そりゃ金は入るが出るのも大きいのに、そこは分からず)
私の顔を見れば「ランチを一緒にしましょ。ねえlご馳走してん、」と甘えています。
私はその都度「ああ!ゴメン!今度エジプトに行くんだ。なので準備に忙しくてランチしてらんないや。」と答えます。

私が友人にお昼ご飯をご馳走するなんてワケも無いことです。
でも私がご馳走してあげたいな、と思う人は、「いつもお世話になっているから」と私にご馳走してくれるのです。
私はこういう人にご馳走してあげたい。
またこの人達が幸せになるよう、自分が出来ることは協力してあげたいのです。

他人を妬み、たまには憑いているTQ霊に心を乗っ取られ、自分の得しか考えず
金が有る奴からはボッタくってやれ・・・・と思っている人には「1円も使いたくない」、それだけ。




と、私の体験談を語りましたが、あの時じ===っとうつむき加減で宙を見ていたこの主婦は
絶対TQ霊に憑かれていたと思いますよ。
だらしない日常を送り、他人に甘えている人はそのままTQ霊ですが、
上がろうと思わない限り、良くてそのまま、悪化すればTQ霊に乗っ取られる。
その想念を自覚して治さない限りどんどん悪化することでしょう。

なのでたかがちょっとだらしないくらいいいじゃん・・・・と、自分を甘やかしてはいけないのです。
もし上がりたかったらね。
テレビのCMにこんなのがありますね。
「どこまで下がるかどこまで下がるか
 男も女も
 どこまで下がるかどこまで下がるか
 大人も子供も
 どこまで下がるかどこまで下がるか」



今灰色の人。
上がるも下がるも決心一つですかね。




<面倒臭くなった>(2009年10月5日)


アンダラ・クリスタルを販売している美保子さんのブログの記事に
「今までアンダラクリタスルを使って周囲の人をヒーリングすることをお勧めしていたが
これからはもう、それはしなくて良いのではないか。
そんなことをしている場合ではなくなった。
これからは自分のために生きた方が良い、そういう時代になった」
というようなことが書かれていました。
言葉はこの通りではありません。
探したけど、見つからないまま記事にしましたが、どなたか調べられたら調べてみてね。


このブログを教えてくれた方がいます。
実は教わる前から私にも変化がありました。

私は「もっとこうした方が良い」「そういう生き方をしているとこの先大変まずいことになる」と思えば
その人のために忠告をすることが我慢できませんでしたが、忠告をする気が無くなったのです。
(言おうかな)とは思うが、実行はしません。
面倒臭いからです。

今年の夏頃から他人の波動を上げてあげようという気が無くなった。
ケモノの入れ物の人が居ても(あ〜〜あ)と思うだけで、その人のために一肌脱いでやろうと言う気がしない。
その人は好きに生きれば良い、と思うのです。

今まで忠告をしていたのは当然のことながら親切心からですが、それが無くなったってことは
今は特別親切では無い、ということです。
普通に親切になり、大いに親切では無くなったという意味。

やっと私も「普通に」なったようですw



<イメージ>(2009年9月29日)


モノやコトに対するイメージはひとによって全く違います。
嫌悪の情も違う。
それらをまとめて「感受性」と言います。

感受するコト=その人そのもの

なのです。

賢い人が
「人は心の中で考えているとおりの人間になる」
「その人の言動が人生そのものである」
とか言いますが、賛成です。
人間とは
「考えていることがその人そのモノ」であると思います。



感受性にはピン(良い方)からキリ(悪い方)まで様々な段階(レベル)があります。
たとえば今「レベル」という言葉を使いましたが、この言葉に過剰に反応するレベルの人もいるわけです。
その人は「そういう人(レベル)なのだ」と言えます。

「日々の奇跡」の記事に「あのにますべるべっと」のYES/NO判定で遊んだ記事を書きました。


「 ○○○○のお客さんを、私がアセンション出来るように導いた? 」
微妙に Yes 
「 それでは430人て多いですよね? 」
多分、 Yes

これを読んで引っ掛かかりを感じた人は居ないでしょうかね。
感受する人によっては妙な引っ掛かりを覚え
「オマエがおれを導くだとぉ!」と感情的になる人もいるはずです。
「何様のつもりだ」
「オマエに導かれた覚えは無い」
とかね。

そういう人(レベル)がいても当然です。



或る言葉に対して持つイメージは「その人そのモノ」であり、様々なレベルとタイプにより千差万別なのです。
通常不特定多数の人を対象にする場合は、この千差万別から発生する誤解を予防するために
何か一言言う(書く)たびにその何倍もの説明をするのではないかな。
でもこのサイト「800」は一応不特定多数の方が閲覧できるようになっていますが、
管理人に連絡が取れないことと、某サイトの閲覧者の意識レベルの平均値の高さによってそのような予想には構わず記事に出来るのです。



さて、本題に入ります。
イメージの違いです。
導くと聞けば(目にすれば)こういうのを連想するかもしれません。

イエス像
(イエス・キリストの像)



でも、私が想像する「導く」とはこのようなものです。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=xBybVGPI66w

これのどこが「導き」なんだ?と思うひとがいるかもしれない。
でも、私がイメージする導きとはこれなんですよ。
共通点も多いしw



人間はすぐイメージを持つし、一度持ったイメージを変えるのは難しい。
自分のイメージが果たしてこの場合に適用できるのか、まずはそれを考える必要があります。
大抵の人はそのようなことはせず、自分が持っているイメージを後生大事に持ち続ける。
「この場合、このイメージが適用できるかどうか」
「この人はどのようなイメージで語っているのだろうか」
と、ひと考えする人は稀ですね。




考えない人はこのように、自分が持っている抱いているイメージを全く疑いもせず
無意識無自覚に「正しい」と思い込んでいる。
ここらへんに突っ込みを入れた漫画がありました。


「天才バカボン」の或る話です。
ウロ覚えなので細かいところは違うと思いますが、バカボンのパパが或る日或る人の家に行きました。
そこには婆さんと、婆さんが甘やかして育てた50代のオヤジが居た。
バカボンのパパがオヤジに「これはリンゴなのだ」と言ってリンゴを差し出す。
するとこのオヤジ「???」という顔になった。
目の前の物体が何なのか分からないのです。
で、バカボンのパパかオヤジの母親が皮を剥いて8つに切って皿に盛って来た。
するとこのオヤジ「あ!おリンゴだおリンゴだ!」と手足をバタつかせて喜んだ。
それを見たバカボンのパパはとても不思議がる・・・という話。
言葉で説明しても全然面白くありませんが、マンガだと面白いんですよ。

このオヤジは生まれてから50年間、皮を剥いてないリンゴを見たことが無かった。
リンゴというのはいつもちゃんと皮を剥いて食べやすい大きさに切ってあるものだと思っていたのです。




ここまで極端なイメージの抱き方はありませんが、でもこれに近いことなら無意識にやっていて
多くの人は自分のイメージを最優先させ、相手のイメージを無視して生きているのではないか?
これこそ「何様」なのですが、当人にはそれを意識化出来ないのです。




<立て直す方法>(2009年9月27日)


「人間だもの」堕ち込むことはあります。
テレビでいえば「幽界放送局」にチャンネルを合わせてしまうことはある。
そういう時(嫌だな)という自覚があればチャンネルを天界放送に変えれば良いのです。

つまり意識して強制的に高波動になる方法があります。
たとえば
◆ひふみのりとを唱える「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆいつわぬ・・・」
◆白光真宏会の祈りの言葉を唱える「我が魂の底の底なる神よ・・・」
◆キリスト教系の祈りの言葉を唱える「天にまします我らが父よ・・・」
◆観音様の退魔の言葉を唱える「南無観世音菩薩・・・」
◆サイババの何にでも利く言葉、ガヤトリーマントラを唱える「オーム・・・」

これらの祈りの言葉高波動の言葉で強制的に一時的にでも自分の波動をそちらに合わせるという方法。
詳しいことは某サイト→資料室→「
道端の聖なる言葉」にいろいろ載ってます。
お好きな言葉を唱えてみたら如何でしょう。



それから塩は効くそうです。
ジュネさんでさえ一時期塩を使いに使って一か月の塩代が10万円にもなったそうです。
BSWもいいし、アンダラ・クリスタルもいい。



その前に、自分が何かを誤解して低波動を出していないか、常に自分の意識を見て
毎日判断力を上げる方向に生きることが長期的に見て、最も有効です。
気分の堕ち込みを治すには
◆対症療法
◆根本治療(体質改善)
と、二つの手段があり、両方を巧く使うことが望ましい。




<憑かれた人とは2・・・後日談>(2009年9月25日)


下の方の記事<憑かれた人とは2>のまはるださんの場合。
まはるださんに冗談を装って目を突こうとしていた憑かれた人のご主人が急に転勤になり、
引っ越して行ったそうです。
そういう話は全くなくて、本人達にも急な話だったようです。

これ、まはるださんの守護の存在が”上”(上の次元)から手を回してまはるださんを守ったのではないかと思うんですよ。

憑かれた人の心の中で、ほんのちょっとでも獣が人間に勝てば
まはるださんは冗談めかして目を突かれる可能性があった。
なので、守護霊がまはるださんを守ったのだと思います。
私は霊感は無いけど理詰めで考えればそうなります。

近頃目を突く事件がありました。
職場の上司の目を突いてやろうと、男がドライバーの先を尖らして準備して実行しました。
上司は死んでしまった。
尋常ではありません。

これらのことから、ひとは守られているのだ、と思います。
(部下に目を突かれて死んでしまった方は気の毒でしたが)

ヤバい人が増えている
(ひとの心の中に居た獣が表に出ようとしている)ので
怖いことは怖いがいたずらに怖がる必要は無いのでは?
日月神が言っています。
日月神示を腹に入れて日月の民になれば
「大難は小難に、小難は無難になる」と。

まはるださんに「800に記事にしたから見てみて」とメールしました。
すると返信有り。


拝見しました。
怖いことですね。
 
実は彼女とのことを占いました。
「奇跡は起こる」という結果でしたので
「あぁ、彼女も改まる可能性は十分ってことかも知れない。
では、彼女が改まることを願うべきだな。」と
決意して行ったのです。
そしてこの度の彼女の引越し。
 
彼女が改まるのではなく、私の前からいなくなるというのが
「奇跡」だったんですかね。
もしかすると彼女に腹を立てたり恨んだりせず「彼女と無難にやっていこう」
と思ったことで大難が小難になって、
「彼女が改まることを願った」ことで無難になったのかも知れません

これはかなり参考になります。
自分に危害を加える人、嫌な感情を起こさせる人に対してはまはるださんのように
◆腹を立てない
◆無難にやっていこうと思う
◆相手の向上を願う
と思ったので大難が小難になったようです。
(小難というのは、目を突こうとされたり、まはるださんが部屋に入ろうとしたらいきなりドアを閉めたり
 されたそうなので無難では無いな、と。それでも怒るよりも考えたことが良い結果を生みました)
(私ならきっとキレて怒鳴っていただろうから、大難が大難のままになっていたかも。どhっひ〜〜〜)
(なので意識を高い次元に保つことがいかに大事かが分かりますね)


彼女はその場にいる相手とは笑顔で会話し、
後で不満などを深刻に見えないように言う人でした。
抑えながら、不満じゃないんだけどぉ〜、みたいな雰囲気の
物言いです。
きっと私だけではなく、誰に対しても何らかの不満を
抱えるような人だったのかも知れません。
私は何も考えてないような人間ですし、
いつも冗談ばかり言っていたのでそれが彼女の目には
必要以上におめでたく、鼻につく人間だったのかも知れません。
 
彼女の心は地獄で、
私のような人間に対して心の奥底では不愉快に感じていたのかも。
私のことをいつも小ばかにしてましたよ。
不愉快さを角が立たない程度に冗談めかして、
小出しにぶつけてたように思います。
他の人はけっこうしっかりしたお母さんばかりですから、
私に一番ぶつけやすかったのかも知れません。
 
一見いい人ですよ。
どこにでもいるお母さんです。
だけど会話の中身がない(心が入ってない)、
そんな人でした。

この主婦はどこにでもいる人のようです。
一見朗らかな普通の奥さん。
勿論多数派でしょう。
多数派なので、多数派の価値観の中にいる人が相手ならOKなのだと思います。
ところがまはるださんは少数派。
多数派の人から見たら理解出来ないし、多数派の人は絶対自分が間違っていると思わないので
自分が理解出来ない人=間違っている
ように思う。
(これは私にも沢山経験がありますよ。
  自分に理解出来ないこと=軽蔑する、バカにする、舐める、という普通の人はいる)
(私は自分がどんなにバカにされても、もともと他人に認められようとは思わないので平気ですが)
(私を認めるのは私だけなので、他人がどんなにバカにしようとOK〜いです)


多数派・・・未来は暗いかな。




世の中には三種類の人がいるそうだ。
◆白
◆黒
◆灰色

白=10%(多めに見積もってます)
黒=10%(少な目に見積もってます)
灰色=80%(この割合がどんどん減ってます)

白=5次元
黒=4次元
灰色=どちらかと言えば4次元だが、まだ変更の余地有り
としましょう。
灰色の人達というのは、多数派の主婦のような「良い人」「一見良い人」も入ってます。
しかし灰色の人はこれから数年間で白か黒かどちらかに決めなくてはならないそうです。





<憑かれた人に遭った>(2009年9月24日)


Yさんからの報告です。

69さんへ

Yです。
獣に遭ったが、800のおかげで無駄に腹を立てずに済んだ、という話です。

シルバーウィーク中に、某所のジャスコへ行ってきました。

連休中なので混雑していることはわかっており、あまり行きたくはなかったのですが、
この近辺ではジャスコにしか売ってないハーブがあって、
どうしてもそれが必要なので、仕方なくスーパーへ。

そして買い物をしている最中、不意に後ろからカートで轢かれました。
けっこうな勢いだったので、私はつい
「いてっ」と言いました。

こんなことはよくあるので、別に良かったのですが、
なぜか轢いた相手方向より、
「ちっ」という声がして、なんともう一回轢かれました。

「ええええ?え?なんで?」と思いながらも、
「まーいっか、ほっとこ・・・」と後ろを振り向かず歩いていると、
私を轢いたのであろう、イライラしたかんじのおばさんがカートを持って、
勢いよく私を通りこして行きました・・・。

なぜか、わざわざこちらをひとにらみして。

「な・・なんでやねん!」と感情が昂りましたがぐっとこらえ、
「落ち着け。800でも獣が増えてるって言ってたじゃないか。
 そうだこんなときは、あの人の人生を想像してみよう。」
と思いました。


 今のように、感情のままに動くので、夫や子供、友達にも好かれず、
 
「何で私が悪いのよ!」と叫びながら生きてきた人生だったのだろう・・・
 他人に当たるくらい余裕の無い人生・・・

 かわいそうだ・・・

 あの人は私に
「獣次元とはこういうものですよ」と教えるためのお役をしてくれたのだ・・
 ご苦労さまだ・・・

 慰労こそすれ、恨むなんて失礼じゃないか・・・


こうして私は平静な心に戻ることが出来ました。

これも800の<どんどん進む二極化><憑かれた人の話>等があってこそ、
けっこう想念が悪くなりがちな私も、落ち着いて考えることが出来たのです。

心の準備をさせてくれた800にありがとうです。


それにしても、変です。

自分から混んでいるところに来ているのに、
皆すごくイライラしているんです。しかも、イライラを他人にぶつけている。
レジ待ちの行列で、先にいるお客をにらんでたり、
機嫌悪そうに足踏みしてたりする人の多さ。

なんだかな・・・と思いました。

多少、気持ちはわかりますが、でもそれにしたってひどすぎました。

まあ好きでやっているのだろうから、いいのですが。
でももう私は、出来るだけ行きたくないです。




ヒドい話ですね。
「獣の入れ物」がスーパーの中でカートを猛スピードで押しているんですね。
Yさんは一瞬嫌な気分になったが、すぐ心を立て直すことが出来て良かったです。
嫌な気分が治らず一日〜数日、その感情でいたらまずい。
そしてその感情が立て直っていないのに、次なる「獣の入れ物」に遭遇し、
また嫌な目に遭ったら、Yさんの感情はずっと嫌な気分が継続してしまうことになる。
そしてこのようなことが毎日のように起こればYさんの感情は悪いまま、
波動は低いままになってしまう、ということは理屈で分かる。

Yさんの素質がいくら良くてもこのような「ほぼ毎日嫌な目に遭い、その結果波動が低いまま」で
数年過ごせば「普通の状態が低波動」になってしまう。
ということは・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・低級霊が一人増える、ということですね。


生きてて嫌な目に遭わない、ということはありません。
だから
嫌な目に遭ったら即、心を立て直しましょう
そのためにも
知識を仕入れ物事を分かりましょう
自分のためです。
Yさんにはそれが出来ているようです。




<憑かれた人とは2>(2009年9月23日〜24日)追加記事有り


TQ霊の活動が収まるかと思ったらそんなことは全然なくて却って必死のように感じられる今日この頃w
「Sunrise」のまはるださんから別件でメールが着たのでその話になりました。

青い文字はまはるださんです。



800で「嵐が出るので、リンク切って欲しい人は申し出て」と言ったのに
一人も申し出ない・・・
 
 
 
 
いい根性しているよね、みんなw

たしかに・・・

魂の戦の様相を呈してきたので、弱い人はやっていけないな。
ま、いっか。

憑かれてそれが表に出てる人多いかも知れません。
私、今ビーズやって(役員でやらされて)いるのですが、
役員の中でちょっと「?」な人がいて、
その人私の目に向かって丸ペンチのとがった方でつつこうとされましたよ。
もちろんそれは冗談で、という形だったのですが、
突こうとする瞬間顔が「キツネ」のようでした。
 
人に向かってけっこうな勢いでとがったものを突こうとする、というのは
冗談としても私の中ではナシです。
その人魔が入りやすそうな性質をしていますので
一瞬憑かれたのかも知れません。

おいおいおいおぴおいおいおいおい・・・・
 
それは記事になるな。
まはるだの名前を出して記事にしていいかい?

いいですよ!
 
私その人に何を言ったわけでもなく、
その人も別に私を嫌っているという感じではないのです。
本人は本当に冗談のつもりだったらしいですが、
それが普通じゃない自覚がないみたいでしたよ。
 
もともとその人には舐められている(私はよく冗談を言うので
そういう人間には何言ってもいい、と勘違いしてる感じです)ので、
お役御免まで無難にやっていこうと思ってます。

う===む。
 
一見普通な主婦で、子供も居て幸せそうなのに
そうなってしまっている人は実は多いのではないだろうか?
でなければ、「世の8割が獣の入れ物」(日月神示)なんてことにはならないよね。
 
 
一見変な奴より、そっちの方がずっと怖いね。
 
 
異常だよ。

ですよね。
あまりにコワい顔してたので「やめて」と何度かいいましたが
なかなかやめませんでした。
なかなかやめないってことは、あれが「楽しかった」ということですからね、
異常ですよ。
私はちっとも楽しくないですよ。
 
確かに一見は何てことない普通のお母さんです。
ちょっと女のヤな部分が目立つ人ではあります。
本人はうまくやってるつもりのようですが、
彼女が自分のことしか考えてないことに、
気づく人は気づくと思います。
それもほんの些細なことですから、これからそういうのも
どんどん顕著に表れてくる、ごまかせなくなるのかも知れません。
 
確かに戦です。

私はまはるださんの目に尖ったものを何度も突き刺す真似をした、この主婦は異常だし
キツネのような顔になっていた、というのだから、キツネ霊とかに憑依されていたのだと思います。



とてもおっとりしているスピリチュアル・アドバイザーのU子さんが
或る会合でおやじの講師から何も言って無いのに集中攻撃を受けたことがある。
私も別なオヤジから同じような目に遭ったことがあります。
(このオヤジは当時から癌でした。言ってることは滅茶苦茶でした。
  今生きているんでしょうかね?
  スピリチュアルなことを言っている人が癌だったら、自分の意識が間違っていることを悟れば良いのですが、
  「ヒーリングしたら相手からネガティブなエネルギーが来て」とかなんとか言い訳が上手いというか、
  本気でそう思っているのではないかな?
  本当は自分の低級な意識が思凝を作りだし、それが自分を攻撃しているんですけどね。
  そういうレベルの人は悟りませんね)

TQ霊は明るい人が嫌いです。
明るく無邪気で素直な人が大嫌い。
自分と異波長なのが分かるのかもしれません。
光が強い人(明る・無邪気・素直)が嫌で嫌でしょうがない。

たとえこちらが何もしていなくても妬みそねみ怨み憎しみの念で、当人はさぞかし苦しいことでしょう。
その、苦しませる対象なので、まはるださんの知り合いの主婦の場合は
冗談を装ってまはるださんを攻撃する真似をしているのです。

冗談にしてもやることがちっとも面白くないので異常ですね。
自分の心の低級な部分に憑き動かされてやっているんでしょう。
そのようなことを続けていれば本人にとって大変まずいことになります。

その主婦の中のケモノの心はまはるださんに見られるのが嫌なので(見透かされるようで嫌だ)
目を突きさし、見えないようにしてやりたいのです。
でもその主婦にはまだ(というか、当然ながら)人間の心もある。
ケモノの心まはるだの目を刺してやりたい、そうすれば自分はスッキリする
人間の心それをやると自分が逮捕されるのでまずい
         
(決して、まはるださんが可哀そうだから、とは思って無い)
         (可哀そうだから、という気持ちがある人なら、ケモノは罹らない)
という
相反する心がある。
その結果
「目を突き刺す真似をするが突き刺さない」という行動になったものと思われます。

この人は
人間の姿を取れなくなることでしょう。(浜本氏三部作より)



また、スマナサーラ師も
「他人を害する気モチの強い人の行く末」について語っています。
「日月神示とともに」の2009年9月22日の記事をご覧ください。

まはるださんもそのような異常者と一緒に役員をやっていくのは大変ですが、
あと半年、忍耐してくださいね。
まはるださんは相手がどんなに低級でも引きづられることはないので良いが気分は悪いですよね。




<憑かれた人とは1>(2009年9月23日)


たまに、というかしょっちゅうこんなメールが来ます。
「私に低級霊が憑いているようです」と。
でも、そういう人のメールの文章はとてもマットウなのです。
なので返信します。
「大丈夫、あなたには憑いていません。」

低級霊に憑かれている人とは「本人が低級」なのです。

そりゃ人間だもの(笑)たまには気分が堕ち込むことはありますよ。
毎日元気いっぱい!快調!幸せ全開=!ってのはあり得ません。
「良くも悪くも無い普通の日」が殆どです。
そして「何故か分からないが気分が堕ち込む」「理由があって気分が堕ち込む」日はあって当然なのです。
でも、そういう場合は「気分がたまたま堕ち込んでいる」だけなのです。
本人の意識が低級なのではありません。

むしろその反対です。
普段がマットウなので堕ちた状態を「気分が悪い」「いつものようではない」「何か嫌だ」と感じている。
たまに気分が堕ち込む人は普通の人で低級霊は憑いていないのです。

低級霊が憑いている人とは「自分が低級な想念でいる」ことを自覚出来ません。
それが普通になっているからです。
低級な想念とは、常識では考えられないようなことを得意になっていることなど、です。
たとえば他人を騙す、ヒドい目に遭わす、策略を練る、その他非常識なことを考えているが、
それを悪い、ダメだ、こんなことを考えてはいけない、なんて自分はダメなんだ、などとは思いません。
それを考えることが嬉しい、楽しい、ざまあ見ろ、みたいな意識。
或いは普通。
当人にとってそれは当たり前になっている状態です。

なので低級霊になっている人は、自分が変であることや非常識であることを自覚出来ません。
これが(生きている)低級霊です。





<想念とはテレビのようなもの>(2009年9月23日)


念とはテレビのチャンネルのようなものです。
(※ラジオでもいいんですが、今はテレビを例にとります)
どんな人でも天国からヂゴク、天界から幽界までチャンネルを合わせることが出来る。
いや、聖人級の人には幽界レベルの意識になるのは難しいだろうから
ここでは一般の人を対象にして述べてみますね。

普通の人なら天界放送局から幽界放送局までどの局にもチャンネルを合わせることが出来ます。

天界テレビという放送局の中の番組があるとします。
スマナサーラ師の「こんにちは♪上座仏教」が大好きで、毎週楽しみにしている人。
シュタイナーの「バラ†十字†の窓」が好きで、主にそこを見て楽しんでいる人。
高橋信次の「サイエンス オブ ゴッドライト」は科学的で分かり易いと理系の方には評判。
日月神の「大河ドラマ『ひふみ』〜神も人も禊ぞ〜天つ巻24(えらいむごいこと出来るのを小難にしてあること分からんか)」
(※資料提供「ひふみ〜神の理〜」
が、怖いけど面白くてたまらなく、続きを見ずには居られない人。

視聴者はその番組を見ている間は、その波長と合っている
(共鳴している)と言えます。
つまりこのような番組を好んで見る人(普段の想念がこのレベルの人)は心が天界に住んでいる人だと言えます。

幽界テレビの中で浅い幽界なら今の日本のテレビ局が既にそうですね。
視聴者をさらに低い界に落とそうとしている局があったり、番組があったりする。
このレベルは浅い幽界ですかね。
勿論テレビの放送の全てが幽界ではありません。
普通の霊界の部分もあるので「霊界と幽界の混じったような世界」と言えるかも。
この番組を好んで見る人は普通の善人です。



さらに下の幽界は「
地獄は無い」(日月神)が「地獄的な様相はある」(同じく日月神)そうで
そこでは幽界人が総力を挙げて日夜悪想念を放送しています。
(24時間放送中)
やっている当人はそれを悪だなんて思っていません。
それが好きでやっているのです。
生きている人の念も含まれていますよ。
番組内容は
「相棒」・・・生きている低級霊の人が主役で、その人と同波長の死んでいる低級霊の相棒が一体となって織りなすドラマ。
       テレビ朝目のドラマと違うのは、主役は刑事ではなくて犯罪者の方。

「世界の果てまで逝っTQ!」・・・TQ霊と化したリポーターが世界の果てはおろかヂゴクの果てまで旅をする。
「TQ子(テクコ)の部屋」・・・TQなインタビュアーがゲストに対してどうでも良い質問をする番組。
とか。

上の番組はまだ良い。
日月神曰く
「もう一段下のヂゴクあるのぞ」だそうです。
もっと低級なのは番組の内容が
「怨み・妬み・そねみ・羨み・やっかみ・嫉妬・怒り・悲しみ・憎しみ・心配・不安・奢り・たかぶり・軽蔑・仕返し」など。
通常の精神の持ち主ならこのような番組を見続けることは苦痛ですが、好んで見る人もいるのです。

通常の精神の持ち主でも、チャンネルを変える時、一瞬〜数秒〜数十秒くらいは
(何をやってんだろう?)という感じで見てしまうこともある。
でも面白くないし気分も悪いので、他のチャンネルに変えてしまう。

私に
「私に低級霊が憑いているようです」というメールをくれる方はこのような方です。
たしかに変な番組を見てしまった。
でも、当人が変なわけではないので、変な番組のことを「変」と感じることが出来るのです。
本当に変な(TQ霊な)人は、幽界放送局の番組が最も楽しく面白いのです。




こんなのもあります。
天界放送系列の地方局、
不動放送の「救命低急24時」です。
これは低級霊にやられた人を大急ぎで助けるドラマで、憑かれて無い人には非常に人気があります。
逆に憑かれた人には「ワーストわん!」(犬の霊が憑いているようだ)で、
ある掲示板(わんちゃんねる)ではこの放送局を攻撃するスレッドが沢山立てられているらしい。
毎回低級霊に憑かれた人が、低急救命師にしょっ引かれて手術台に載せられ
「獣の心」を切除するという話で、実話に基づいています。
手術の前に患者が「あ、そういえば私憑かれてたかも」と自覚症状を訴えれば手術は無しで、カウンセラーに回して終わり。
最後まで「オレのどこが悪い!」と吠えていると強制的に「心手術」となります。
(※心臓手術ではありません)


私にメールをくれた方、この説明で分かりましたかね?



<どんどん進む二極化5・・・悪化する方(ほう)>(2009年9月19日)


明るく↑を目指す人は苦労しながら着実に向上しているのに対し
暗く↓を向いている方はますます悪化しているようです。

800の「夢」の話にも

普段、電車通勤しているのですが、最近乱暴な乗客が多くなりました
満員電車から降りるのも一苦労、乗るのも一苦労ですが、
何も降りるとき突き飛ばさなくたっていいだろうと何回も思います・・・
昔は、突き飛ばされるたびに「ムカ!」っとしていたのですが
最近は、「あ、獣だ・・・」とスルーしてます。
という情報が載っています。
この方はムカっとくる代わりに相手の意識レベルを理解するようになったので
感情的にならず、低い波動に引っ張られることがなくなったようで良かったです。

もう一人の方は
先週いっぱい海外旅行に行っていた同僚が今週戻ってきたのですが、
こういうのもおかしい話なんですが、
なんだか、獣化しているというかレベルが下がったな、という感じなんです。
今までもしょっちゅう「そこまでいうか」と周囲の眉をひそめさせる発言を繰り返していましたが、
さらにパワーアップしたというか。
うわ、何?何?と思っていたんですが、悪化する人は本当に悪化する、という見本みたいです。
本当に、獣化の波動がすぐ身近にまでやってきているっていうことなんでしょうね。

日本は世界でも意識レベルの平均値が高いそうです。
外国の意識レベルの平均値は日本よりずっと低いそうなので、その影響を受けてしまったのかもしれません。




普通に生きていても、周囲の人から悪想念を受けて下へ引っ張られます。
その時、一緒になって堕ちるのは勿体無い。
それから分からなくてはならないことを指摘された時、
理解出来なくても相手が正しいことを言っているのだろうと、素直な感受性で受け止めることも必要。
いったん受けとめておいて、保留にしておけば後で波動が上がった時理解出来る。
言われた時、理解出来ないといって理屈
(これは自分のレベルの理くつのこと。相手はそれを超えた理屈を言っていることが分からない)
を言って反発する人は、そのような心の姿勢で生きていれば
波動が上がることは難しく、波動が上がらなければ相手の言葉を理解出来ないので
いつまで経っても向上しない。
そればかりか堕ちてしまう人もいます。
この理屈を「学と知」と言っても良いでしょう。(日月神の言葉)

つまり
上へ行く人は素直な人で下へ行く人は素直では無い、と言えます。
素直な人はたとえ判断力が低くてもいつか判断力が上がる余地があるので大丈夫。



<判断力が問題>(2009年9月16日)


下の記事<どんどん進む二極化・・・親戚編>のH子さんのような人は多いのです。
皆さんから「私もそうです」「母がそうです」というメールが沢山来ています。



余計なことを考え、必要なことは考えない。
何故か?
本人にとって余計なことではなく、それが考えるべきことになっているんだし
必要なことを考えないのは、そんなことは思いもよらないからです。
つまり理解の範囲外にある。
想像を絶している。
なので、考えないのです。

何故そうなってしまうのか?
思考力が乏しいので判断力が無い(乏しい)からです。

でも、判断力が無い結果周囲に不都合が起こりますよね?
しかしこのような人は間違っても「自分に判断力が無いからだ」と、判断出来ません。
悪いのは常に周囲の人、環境です。
それが判断できるくらいなら最初からまずいことはしません。

本人としては「自分は50年生きてきたので、分からないことは無い」と無意識・無自覚に思っている。
これが「心が大人」になっている状態です。
判断力の低さは子供並みなのに、心が大人になってしまってガッチガチなのです。



「自分は知らないのかもしれない」
「自分は分かって無いのかもしれない」
「自分は分からずやなのかもしれない」と、何かにつけて一度は思うようにしないと分かって行くことが出来ません。

親戚のH子さんの例を挙げましたが、H子さんは性格は良くて良い人なのです。
かなりマシなケースです。

若い人、と書きましたが、30代で既にガッチガチになっている人がいます。
(心が大人になってしまっている)
(このような人は分かって行くことが出来ないので、頭=判断力が子供のまま)
当人にその自覚がありません。

※物事を分かるには子供の心が必要
※なので分かる人の心は子供のように柔軟
※しかし50歳過ぎても心が子供なのはいいが、頭も子供の人がいる
※若くても心が大人化(ガッチガチ・硬化)している人は、分かって行くことができないので知恵がつかず頭が子供並みのまま


個人差は大きいと思いますが同じ分からずやでも20代ならまだいいかな、と思います。
勿論50歳を過ぎていても心が柔軟な人(心が子供の人)はいますよ。
本当に心の世界の差は大きい。




<どんどん進む二極化4・・・親戚編2>(2009年9月15日)


下の記事を読んだ複数の方から「私もH子さんと同じです」というメールをいただきました。
メールをくれなくてもそういう人は沢山いるはずです。
私がH子さんの記事を書いたのは、そういう人にとって参考になると思ったからです。
心当たりが有る方はぜひH子さんを他人事としないで、自分のことだと思って考えてみてください。




私はH子さんが大好きなんです。
性格は率直で正直、多少我儘だけどからっとしていてよろしい。
陰に籠った人より1000倍も良い。

H子さんと私の違いを考えてみました。
H子さんは表面上のことしか見えません。
表面上のことを改良することは一生懸命やります。
金銭、教育、体裁などです。
私には出来ないことが得意です。
まず一番目の違いは
「目に見えることしか分からない人」と「目に見えないことに興味がある人」の違い。
多数派と少数派の違いです。

H子さんは子育てはそりゃもう一生懸命やりました。
子供が高校生になって登校拒否になれば、卒業するまで毎日車で送り迎えをしました。
息子が高校を卒業して「美容師になりたい」と言ったら、「ぜひ大学へ行きなさい」と説得。
親の説得を聴かないので、親戚の「進学高の教師」を呼んで家族全員親戚も入れて説得したり。
もしうちの子が高校に通わなければ、退学したいかどうかを訊きます。
中退して実際にヒドい目に遭い、身体で世の中を学んで欲しい。
高校卒業後・・・何やったっていいです。
自分の好きなことをやればいい。

何が違うのか?考えてみれば、私は
「自分はOK、あなたもOK」なんです。
(※常にではありません。たまにいまいちな人を見て注意することがあります。
   その時は「自分はOK、でもあなたはOKではない」と、私は思っている、と自覚しています)

H子さんは
「自分はOK、でもあなたはOKでは無い」と自覚はしていないが、そう考えているのと同じ。
主婦にはそうなってしまっている人がいますね。
主婦をやればやるほどそっちの方向へ行く人。
そういう人は子供に異常に反抗されたり家出されたりするが、それでも自分が悪いとは思わないのです。

自分はOKは良いとして、あなたがOKではない、と思っているな、とその時、ハッキリ自覚すれば良い。
多くの人は自分の意識を見ませんから、当然自覚しません。
自覚しているかしていないか、ここが違う

あとはあまりにも生真面目な人と適当な人の違いがあります。
生真面目な人というのは視野が狭いというか、やはり世の中や物事を知らない人です。
知らないのに、自分では真面目という自覚しかありませんから、
いろいろと不都合が生じます。
でも、本人の意識としては「自分はちゃんとやっている」「ちゃんとやらないのは他人だ」と何となく思っているのです。
(※このようにきちんと文章化、言語化はされていないと思います)
何となく生きている。
でも、一生懸命だ、という生き方で50歳を過ぎたら周囲の分からずやをまとめるどころが
自分が一番分からずやで事態を悪化させていた、、、、、ということになる。




これから先不都合が起こってもH子さんはモノ凄く頑張りやなので体力と手間暇で乗り切っていくのかもしれません。
でも、本当の考え方を身につければそのような疲れることはしなくて済むのです。
頑張って頑張ってヘトヘトになり、悩みに悩んでいる人生。
私はそれが嫌だからやらないだけですが。


H子さんが昔私に言いました。
H子さんのお姉さんが私に性格がそっくりなんだそうです。
(お姉さんは教員です)
適当で大ざっぱ、性格が乾燥しているらしい。
お姉さんは物事を悩むということが無いそうです。
それについてH子さんは
「考えない人だから」と言ってましたが、違うでしょうね。
お姉さんは頭を使う訓練が為されているので、考える際に余計なことは考えない。
回答まで最短距離で行けるのだと思いますよ。
H子さんにはそのような次元は想像がつかないので「お姉さんは何も考えない」ように見えるのだと思います。

私もH子さんから見たら「何も考えてない人」と映っていることでしょう。
別に悔しくもないがw
H子さんが思っている「考える」とは「悩む」ことなのです。
次元が違うのです。
ていうか、悩むのが好きだから悩んでいるのだと思います。
私から見て
世の中の人は自分の性格の通り生きているように見えます。
それが本人にとって一番生き易く楽しいから。




<どんどん進む二極化3・・・親戚編1>(2009年9月11日〜14日)


主人の弟の奥さんのH子さんと私は同じ年生まれ。
結婚した年も同じ。
向こうが何カ月か早く生まれて何カ月か早く結婚しました。
結婚した当初はお互いに二十代半ばで頭は空っぽ無知でした。
性格は似ていまるが全て同じではありません(当たり前)。
私は性格が良いH子さんが好きです。
前世はきっと姉妹兄弟だったろうなぁ、と思います。

ところが最初は似たようなものだったのに、二十数年経ったら
両者の差が開きに開いて、価値観を全く理解できないほどになってしまいました。




(2009年9月13日)


さて。
最初は同じような頭空っぽの二人でしたが、その差がだんだん開いて行った。
何となくそれは感じていました。
でも、最近痛感することがありました。
それはH子さんの息子が結婚する、という”事件”によってです。

ケース@
まず、H子さんの息子のH君の結婚する相手が沖縄からこちらへ移住して来た方達でした。
相手の名前をAさんとします。
Aさんの両親と親戚が沢山こちらへ移住している。
Aさんは親がこちらへ移住してから生まれた人です。
先祖代々ここに住んでいても家を建てるとなると大変です。
ましてや移住して来た人達は借家暮らしをしているのは当然ですよね。
ところがH子さんは
「借家暮らしの人の娘なんかと、うちの息子を結婚させるわけにはいかない」と言ったそうで。

(呆れますね。何様の発言でしょうね。
 先祖代々の土地に住んでいる自分と、移住して来た人の置かれた環境の差というものを理解する
 想像力が欠如している。
 物事が分からない人というのは想像力が欠如しているのです。
 推理力も乏しいか、無い。
 
想像力や推理力を「潜象勘」と言います。
 当たって無い場合はただの「邪推」です


するとAさんの親は苦労して家を買いました。

家を買ったので家族全員で働かなくてはならなくなった。
H子さんの息子のH君には子供が生まれたが、もし、奥さんのAさんのお母さんが家にいたら
お母さんに預けてAさんは仕事が出来たのに、お母さんは働いているので赤ちゃんを預けられません。
仕方なく未満児保育です。
未満児保育は料金が高いが、仕方無いですね。
するとH君の家は金銭的時間的に余裕がなくなり、H君の母親のH子さんは
H君に金銭的な援助をすることになりました。
息子が独立して自分は楽になると思ったら、却って金銭的に厳しくなった。
もとはと言えば
「借家暮らしの人の娘なんかと」という発言が原因です。

ありゃ〜。

H子さんは考え無しのためにしなくても良い苦労を背負いこんだのです。
これを
「自業自得」と言います。
これが一つ。




(2009年9月14日)

H子さんは自分が原因を作ったということをすぐ悟りました。
決して頭が悪いわけでは無いのです。
ただ、考え無しでやってしまうだけなんです。
すじ道を立てて考える訓練をしたことが無いので、このようなことになります。
世の多くの人がこれに陥っています。
私もやりますよ。
それは「その件について考えない場合」です。
多くの場合、やはり私も考えませんから考え無しで失敗をします。
でも、やはりある程度「考え方」を知っているのでここまでではありません。




H子さんは上の件でひとつ悟りました。
ところが別件ではまた変な考え方をしてしまいました。
こういう人は全ての物事を総当たりで失敗して、その都度「その件」に関しては思い知るだけなのです。
こういう人も多いです。




ケースA
息子のH君の結婚相手Aさん一家と親戚がS学会であることを知ったH子さん。
このことを同居している親に知られたら不味いと思ったそうです。
それで悩みに悩んだ末、親に教えました。
するとH子さんの両親は
「そのような相手との結婚式には出ない」と言い出した。
(何様のつもりでしょうね?何だっていいと思いますよ)
H子さんは自分の姉妹にも伝えたら、妹の旦那も何様だったようで「出ない」と言い出した。
お姉さんはそんなことは構わない人なので「出る」と言いました。
(H子さん曰く、このお姉さんと私が性格がそっくりなんだそうです。多分長子なので似たような感じなのでしょう。
  すべてにおいて適当大雑把らしい)


この反応にがっかりしたH子さんはもっと悩んでしまった。
或る日、私達一家とH子さん夫婦が主人の実家に招かれました。
その時主人が
「S学会信徒である或る企業のCMに、信徒が出ている」という話題をしました。
別にバカにするわけでもなくただ事実を言ったまでです。

するとH子さんは
(お義兄さんはS学会が嫌いなんだ)と思いこんだ。
何故?
S学会の話をすること=S学会が嫌い
このような式が何故成り立つのか理解に苦しみます。
何故そこまで飛躍する?
思考力判断力が有りません。

その後H子さんはさらに悩んでしまった。
息子の結婚式にお義兄さんを招きたいが、Aさん一家がS学会であると知ったらお義兄さんはどう思うか?
確認もせず一人で決め付け、悩まなくても良いことを悩んでいる。
(実はこういう人多いです。根拠が無いのに勝手に自分で想像しているのです。
 その根拠の無いことを基にしてどんどん悩みを膨らませている人。
 女性に多いですね。
 私が見たところ、兄弟に男がいない人はその傾向があるかもしれない。
 勿論男兄弟が居てもそうなっている人はいます。
 そんなことで悩むのは全く時間の無駄ですよ。
 ところが本人はその、「何も無い」ことを悩んでいるのです。
 本人にその自覚はありません、それが普通になっているからです。
 ここまで思考力が乏しいとやることは殆どが裏目に出て、事態がさらに悪化して、今度は事実を基に悩むことになる)




H子さんはうちの主人が苦手です。
多分相手が誰でも男性の相手をするのが苦手なのではないか?
親戚一同が集まってもH子さんは凄くお喋りなのに男性の親戚とは殆ど会話しません。
(多分論理的思考力が乏しいことを何となく感じているので、話題に入らないようにしているのと、
 それ以前に男性の相手をすることに緊張してしまうからではないか)

その反対に男性の年上の親戚をからかっているのは私です。
男性の相手が平気なのです。
女性と比べて苦手ということもありません。
むしろ面倒がなくていいや、くらいに思ってます。

H子さんは自分の夫(主人の弟)に、お義兄さんに電話をするよう言いました。
弟が主人に電話をして来ましたが、不思議なことに要件を言いません。
「明日会ったら話す」としか言いません。
主人が
「今言え」と言っても言いません。
主人は短気なので怒ってしまいました。
とうとう
「今言わないなら明日会わない、冗談じゃない!」と怒って電話を切りました。
切った後も
「バッカじゃねーか!」と何度も吠えるので「うるさい、黙れ!」と私に怒鳴られた。

主人の母が事情を聞いていて
「実は・・・相手の家がS学会なのよ」と言ったので主人がかんかんに怒った。
「バッカじゃねーか!」
うちの主人にそのことをなかなか伝えられないのは
「お義兄さんがS学会を嫌いだ」と、
H子さんが思っているからだ、と知って主人はさらに怒りここで文章化するのが困難なほど怒りまくっていました(大笑

主人が怒った理由は「根拠も無く決めつけているそのバカさ加減」に対して、です。
それは無理も無いな、と思います。

簡単なことをわざわざ複雑にするってことは、他人を怒らせてもしょうがないと思います。



さて、結婚式ですが私はそのような儀式は嫌いなので欠席しました。
H子さんには
「私は葬式も法事も結婚式も興味無いし嫌いだから欠席するよ。でも当日運転手をして親戚を運んであげるよ」とメールしました。
これを読んでどう思おうとそれはH子さんの自由なので、私は関知しません。
返事は
「分かったよ。当日運転手してくれるなんてありがとう」と返事が来た。
H子さんは心にも無いことは言わないので、それで一件落着しました。
H子さんは本当に性格が良いのです。

その後結婚式直前まで
「H子の親(H君の祖父)が、結婚式に出たらS学会の連中に一言(ひとこと)言ってやる」
と言っているという情報が入りました。
そんなことをするくらいなら出ない方がいいですよね。
それを聞いたうちの主人が
「バッカじゃねーか!」とまた吠え、お義母さんがなだめていました。
(ったくよく吠える男だわい)

当日は祖父母は欠席、H子さんの妹夫婦は欠席、寛大な姉夫婦が出席、
我が家は主人が出席、主人の母と、主人の妹が出席しました。
こちらの親戚は5人しか出なかったけど、いいんじゃないでしょうか?

結婚式は無事終わり、H子さんは自分の親と妹夫婦が冷たかったこと、
こちらの親戚が思いやりがあったことなどメールして寄こしました。
「(自分の親族が)皆冷たい」とありましたが、一番まずいのは自分の判断力であることを本人は知らない。

50を過ぎてここまで判断力が無ければこれから先も物事を解決するどころか
却って拗らせるだけだ、ということも分からないのでしょう。
私だって、このような判断力の持ち主に物事を説明するのは、申し訳ないが面倒臭い。
訊かれてもいないので敢えて言う必要もないし。




相似象で言ってます。
「50の坂を越えられる人は少ない」と。
意味は、40代までは気力と体力で何とかなる。
しかし50歳になったら、今までの経験で得た知恵を使わなければやっていけない。
(ていうか、50になったら今までの経験を基に、若い人に知恵を授けてやれよって思います)
50歳になって知恵が急につくわけではない。
それまでの人生で物事をちゃんと考えてきた人だけが50の坂を越えられるのだ
、と。

H子さんは相似象など読んでいません。
目に見えることに関しては私よりずっと頭が回ります。
なので、自分が物事が分からない人であるなんて自覚が無いのです。
表面上は巧く行っているようにしか、本人から見たら見えないからです。
でもこの件のようなことが起こって来ますよね?
その時、自分の判断力が足りなかった、と分かる場合(@の場合)と、
何が何だがさっぱり分からない場合(Aの場合)とがあります。
経験から学ぶことが出来ません。

必要の無い悩みを抱え、毎日困りながら生きている人。
しかも周囲の人を巻き込んで、それを本人が自覚しない。
私は世の女性を見ていて、そういう人がいるな、と思いますよ。




<どんどん進む二極化2・・・価値観の相違>


下の報告をしてくれた男性。
彼が言いたいのは、
「皆さん何故そのようなつまらないことに真剣になっているのだろう?」
という価値観の相違ではないかな?
人の価値観はそれぞれなので何を思おうといいんですよ。
構わない。
ここで問題にしているのは
「以前は同じ価値観だったのに、今は違ってしまった」ということなんです。
下の記事を読んだ女性の方も職場での同様な体験を寄せてくれました。




価値観が違ってきた、ということは親しい間柄でないと分かりづらい。
以前の価値観を知っている間柄でないと分からない、というのは分かりますね?

家族は毎日一緒にいるので、徐々に価値観の相違が明らかになるので
いつの間にか変わって来たなぁ・・・と思う。
次回は他人と家族の中間である、親戚の場合について体験したことを書いてみます。




<どんどん進む二極化1・・・職場編>(2009年9月7日)


閲覧者の方(男性)が半年程前に報告してくれました。
その方は公務員です。
久しぶりに同僚数人と飲みに行ったら、そこでの話題は
「誰それが良いの悪いの」「上司がああ言ったのこう言ったの」ということばかり。
その方は一人白けてしまったようです。
寂しいというか・・・

同僚のことや上司のことを話題にしても良い。
でもその方法、見方が表面的なものでしかない。
そこから何も教訓を得ない。
こんなことを何時間〜何年続けようと、何にもならない。
そりゃ愚痴を言えば一時は鬱憤は晴れるでしょう。
でも、根本的な解決にはならない。



と、言ったところでしょうか。
その方はここまでは言いませんでしたよ。
でも、久しぶりに同僚と飲んだはいいが、全然楽しく無かったそうです。

人間何が楽しいかといえば「共感」が楽しいのではないでしょうか?
一言言う(ひとこと)言うたびに「ああ、それは違う」と全て否定されるだけの会話なら楽しくありませんよね?
一言(ひとこと)言ったら、それを受けとめて理解してくれて、
尚且つ有用なアドバイスでももらえたら、こんな有意義で楽しいことはありません。

しかし、職場の同僚の会話からはそのようなことが得られないのでしょう。
ただ言うだけ。
愚痴を言うだけ。

以前はたしか自分も同じだった。
でも、この数年でこんなにも変わってしまった・・・ということを思い知ったようです。



「いつまでもそこに留まる」人と、「休みなく前進する人」とが分かれ始めて数年経つのでしょうかね。
数年間で
「同僚の話を聞いても全く理解出来ませんでした」というほど両者の差が歴然と開いて来たようです。

この方は話が通じる相手はネットにしか居ないような状態ではないでしょうか。
職場で自分と話が合う人を見つけるのは至難の業になりつつあるのでしょう。
この方のような体験をしている方は多いはずです。




追加記事(2009年9月8日)

上の記事を読んだ「As a smile☆」のnaoさんから意見が来ました。


800の「どんどん進む二極化」の記事を読みました。
 
私も職場の飲み会で同じ思いをしました。
前は、みんなで同じ部署の人の愚痴を言い合って
ストレス発散になったようで、楽しかったと感じていたのに
今では全然楽しくなくて、お酒もおいしくなくて
かえってストレスになりました。
 
それでも以前は誘われれば、断ることもできずに
気乗りしないまま参加したり、ギリギリに不自然な言い訳をして断ったりと
中途半端なことをしていました。
 
でも別にその人たちと飲みに行かなくても
会社で仕事はできるんだし、それで疎遠になるならそれでいいや。
と思い参加を断るようになりました。
 
はっきりと「行かない」と言ってしまうと、
いろいろと言い訳を考えることも必要ないし
なんで今までしなかったんだろうかと思いました。
 
 
愚痴の言い合いは、ストレス発散になるどころか
増長させて大きくなるだけですね。
「愚痴を言ってスッキリする」ということは、ないと思います。
それは多分言った時に「そうだ、そうだ」と同調してもらえることで
気分がよくなるだけですね。
 
それはブログでも同じだと思います。
「書いて吐き出せばいい」とよく書いてありますが
いくら書いても、自分の中で解決されてなければ
スッキリなんてしないですし、同調したコメントをもらったところで
楽になることはありません。
 
愚痴を言ったり、ブログに書くよりも「ま、いっか。」と
あっけらかん、と忘れてしまう方が全然楽になります。
 
 

 (※ここからは別の話題です)
大阪のおばちゃんの言いグサとして、よく言われることで
「よそはよそ!うちはうち!」というのがあります。
「子供が●●ちゃんの家はいいなぁ〜」というと、おかんがこう言うのです。
人は人だからいちいち比べて気にするな、ということですが
小さい頃から言われてきたこの言葉を今は自分でよく使っています。
大阪のおばちゃんだけでなく、日本中の母親が言っていると思いますよ「うちはうち」という言葉。
しかし、「うちはうち」と言いながら「○○ちゃんは成績が良くて偉いわね、それに引き替えあんたは・・・」と
言っていたとしたら、それは間違ってますけどね。




<”ゴジラ”が好きなだけなんですけどね♪>(2009年9月6日)


http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/20.html   「売国マスコミの真実」をご覧ください。



<これが真相か>(2009年9月4日〜


http://plaza.rakuten.co.jp/ascensiontenani/

全貌は芋づる式に辿れるば分かるかな・・・

追記(2009年9月5日)

感想が来ました。

ブログのコメントもさっき読みました。

これが二分化というやつでしょうか?
二つの意味で「善悪を超越している」と感じました。

一方は
「◎桜さんの本質を見ているので、
 『◎桜さんの正体をつきとめよう』という考えすら浮かばない。
 また、実際に正体がどうであろうと(たとえ『80歳の巫女』というのが嘘であろうと)
 そのことの善悪などどうでもいい」
という人達。

もう一方は
「◎桜さんの瑞々しい文章が自分のイメージの中の『80歳の巫女』と一致しないので、
 そんなことは許せないので、どうあっても正体を暴きたい。
 そのためならやる事の善悪などどうでもいい。
 というか善悪という区別すら浮かばない」
という人達。

まあこの区分の中にも上下はあるでしょうが、
カミとケモノってこういうものかもしれないな、と感じました。
言葉は同じ『善悪を超越する』だけれど・・・。

しかし呆れた。

こういうわけの分からないものを見たら嫌な気分になるかとおもいきや、
意外に大丈夫なものでした。


うん、それも或る意味「悪抱き参らせ」ているってことでしょう。
心で反発せず(こういう意見もあるんだ〜)と、思うことが。



<戦う人、戦わない人8>(2009年9月2日)


私は自分が戦うから偉いと自慢をしているのではないんですよ、だって戦わないんだから。
面倒臭かったり、その件について知識がなかったり、関係が無かったりした場合は
戦えないし戦う必要が無いので当然戦いません。
(私は自分の怠け心と戦っている、と言えます。大抵負けます)

でもそれは戦えないので戦わないんだから、戦わないことを間違っても自慢する気にはなりません。
なので「戦いませんから」と自慢そうに言う人の感覚が私には理解し難いのです。
まるで戦わないことを「良いこと」だとでも思っているかのようだからです。
そういう人は
戦う=悪
戦わない=善
と思っているんでしょう。



しかし、大天使ミカエル。
彼は鎧を着けて剣を持っていますよね。
槍だったっけ?
私は天使が戦いの格好をしていることに長いこと違和感を持っていましたが、
天使も戦うんだ・・・と、今は納得しています。
(本当に天使が戦うかどうかは分からないですよ)


「kosmos energyな毎日」というサイトに面白い文章がありました。

実相界

実相界、、
世のスピリチュアル中毒者 精神世界感染者、そしてスピウイルス散布者ってのは、、、
天上、宇宙、高次元ってものにまばゆい光の楽園世界、バラ色の世界を 夢 見 る 、、
光だ高次元だと、、
幻 想 で す っ て 、 ソ レ 。
それは、、
日の差さない暗い部屋でというか、、、その中で生活していた方が、日のあたる世界に出ただけ。
光の眩しさに慣れると、、
ありゃ、なんだ、かわんねーじゃん、、?
と気づく。
何が「光の世界」なんだと、、、
そうしてよーく見渡してみると、、、
荒涼とした宇宙が目に入る。
破壊された神殿。
※霊的な意味でですが、、、

天界宇宙の「実相」を見たとき、、
監獄と言われた、緑と水のあった地球が、、懐かしいとさえ思えてくる。
天界の荒れ方は、、もしかして、ここは地獄か?と思う感じ。
しかしそこは、所謂、人の世界の言う「天界」「光の世界」という世界。
それが今、荒廃した都市のような姿を持っている。
そこで一時も休む間のない絶え間なく繰り広げられる光と闇の戦い。
太古の宇宙の一大大戦を経ても尚、、
途切れることのない攻防が、局地戦が続いている。
まるで、映画ターミネーターの「未来世界」のような荒涼とした状態。
なんだここは?
ここにオレは帰るのか?、、、と、、

現在の地球は、、
映画ターミネーターで、、荒廃した未来からタイムスリップしてやってきた地球の過去が、、
「普通の街」だったという、そんな映画のような状態。
キミはそれでもそこに帰るのか?と、、
ああ、ここでの仕事が終わったら帰るさ、、と、、
ここの仕事が終わったら、あっちで最後の仕事がある。
あっちで最後の仕事が終わったら、また、どっか、、辺境に行くさ、、と。

のどかな辺境を旅していた頃が懐かしい。
今度こそ終止符を打って、、辺境の地でゆっくりできるだろう、、と、、
今いる場所も、、ある意味辺境だしな、、と。
ある物語 未来へ 序章
取り急ぎ。


この管理人さんは霊視が出来るようです。
以前本を読んでいたら「宇宙戦争」があった、と書かれている。
意見が違うもの同志が戦争をしていたらしい。
或るチャネラーからも聴きました。
複数の人や本が宇宙戦争について語っています。
天使が戦うんだ〜と意外に思ったけどそうらしいです。
だから大天使が鎧を着けているわけです。
宇宙人同士で戦争していた、とか。



私が思うにあの世の存在は、一人の中に矛盾が無いのではないだろうか。
天使なら天使、悪魔なら悪魔。(日月神示では「神と獣」と表現します)
地球人は一人の心の中に両方持っています。
地球は良く実験場と言われますが、
それは「一人の心の中に天使と悪魔を持ったらどうなるか」という実験ではないだろうか。
個人の単位=天使と悪魔どちらが勝つか
集団の単位=地球人の総数で言えばどちらが勝つか(多いか)
宇宙規模=天使系と悪魔系、どっちが勝つか(どちらの力が強いか、勢力争い、シェア拡大)
では?

個人単位の「魂の戦(たまのいくさ)」と、宇宙(霊界)規模の「魂の戦」は相似象です。


<戦う人、戦わない人7>(2009年9月2日)


さて、私も実は戦わない人です。
温厚だからw
いや「面倒だから」です。

以前、或る方に無料鑑定のことを教えてもらいました。
最初の一回は無料チャネリングです。
その無料チャネリングで何か問題が明らかになったら次回からは有料鑑定を頼める、というシステム。
その時はヒーリングをするんだったっけな。
私はどんなことが分かるのだろう、と興味があったので、そのサイトへ行って申し込んだ。
私にそのサイトを教えてくれた方は、すぐ回答が着たようだ。

また、私が鑑定結果を待っている間に、或る人にそのサイトを教えました。
すると、私より後から申し込んだのにその人にもすぐ回答が着たようだ。

私はチャネラーに2回ほど「私も申し込みメールは行ってますか?」とメールしましたが、
それにも返事がありません。
いったいどうしたんだろう?と不思議でした。
しょうがないので、3回目また「私の申し込みメールは行ってますか?」と、問い合わせた。
すると、それから数日経って「鑑定結果」が送信されて来ました。
結果を読んであまり良いことは書いて無かったが、心配して有料チャネリングを申し込むほどでもないし
お礼を言って、終わりました。



その後すぐ、以前申し込んでおいたジュネさんの潜在意識解読の日がやってきました。
なのでついでにこの件(私の鑑定依頼だけが後回しにされたこと)について質問してみました。

あ、別に腹は立ってないんです。
理由を知りたいだけなんです。
納得のいく理由があれば(そっか)で終わるので。

ところがジュネさんの解読を聞いて驚いた。
そのチャネラーは私を読もうとすると読めなくなってしまうらしい。
なのでここまで鑑定が遅れたそうです。
それは気の毒なことをしました。
そこまでは良いのですが、そのチャネラーはヒーリングすると称して自分のカルマを相手に憑けているそうで。
ジュネさんから
「69さんならこの方のひたいにお札を貼ることが出来ます」と言われたが
念の世界でそれをやるのは難しく、また特に怨みも無いし。
(思いの世界で貼る真似はしたが本当に貼れたかどうか・・・多分貼れて無い)
このチャネラーが活動を続けると、多くの人が無料鑑定に惹かれてやって来て
タダで見てもらって、その代わりカルマ(思凝)を憑けられるわけですが
私はこのチャネラーに対しては別に怒りも感じないし、放置しています。



本当は多くの人のために、注意喚起した方がいいが、それをやるのが面倒臭い。
たとえば、IHSDとブログで戦っている多くの人達のように、ブログか何かでこのチャネラーのサイトのことを警告するとか
それをした方が沢山の人のためにはなるが、無料鑑定に申し込む方も申し込む方だしw
どっちもどっちです。私も同じです。

またこの方は無料鑑定の後の有料鑑定で生計を立てているんだろうし、収入の手段を取り上げるのは可哀そうです。
この人のことは可愛いと思いこそすれ、憎くは無いのです。
この人のこともご苦労様、と思います。
なのでこのような理由からこの人のことは放置しています。
でも、こうしてここに書けば誰のことだか分かるかもしれません。
私はその人のサイトの名前も忘れてしまったので、私に訊いても無駄ですよ。

なので相手の名前は明らかにせず、一般論として注意喚起をするという、実にへっぽこな戦い方しかできません。
でもまぁ、実際この人だけを批判してもしょうがない。
同じようなことをしている人は沢山いるんだろうから、鑑定を受ける側が「そういうコトもある」という知識を頭に入れて
自分で自分を守るしか無い。
個別のケースを戦うより、基本を学んで自力でやっていくしか無いのです。



なので、自分のためでなく、多くの人のために相手を特定して代理で戦ってくれている人を見ると
「喧嘩っ早い」などとは口が裂けても言えない、ありがとうご苦労様、と思うんです。



<戦う人、戦わない人6>(2009年9月2日)


8/30の選挙の日に、子供と間違われて投票用紙を渡してもらえなかった、というだけで
キレて帰ってしまった人がいるそうです。
この場合、選挙管理人がすぐミスに気づいて謝罪したのだし、
その前にたいしたことではない、ただのウッカリミスだし、命に関わることでもないし、何でそんなに怒ったのか理解し難いですね。
心が狭いですね、呆れます。

こういう戦い方をするというのは、その人がそういうレベルにあるからで。
人は自分のレベルなりの戦い方しかできません

まぁ、この人は良い。
問題なのはこの人に対して「そんなコトでいちいち怒っているのは如何なものか」という意見が
テレビの出演者アナウンサーなどから出ないことです。
むしろこの人と一緒になって怪しからん、という態度をしているようで・・・害毒ですね。
テレビを見ている、何も考えない人なら、このようなテレビの意見を鵜呑みにしてしまう。


<戦う人、戦わない人5>(2009年9月1日)


重要人物を忘れていました。
潜在意識解読のジュネさんです。
ジュネさんの本「幸せになろう」にも書いてありますが、
ジュネさんが或る日本人女性から相談を受けたのでアドバイスしたら、外資系?の会社の上司(外人女性)が
相談者を通訳として、ジュネさんを訪問して来たそうです。

その外人女性は魔女だったそうです。
「瞑想しましょう」と、ジュネさんを誘ったので、ジュネさんは薄目を開けて見ていたら
その魔女は何やらやっている。
操ろうとしているのが分かったので、瞑想する振りをしたそうです。
(十数年前なのに知恵がありますね)

ジュネさんが外人女性の言いなりにならない上に
「あなたは自分勝手な人ですね」とか、ジュネさんが言ったのでその魔女は怒って
一瞬で「口が耳まで裂けた」そうです。
ところがジュネさん、驚きはしたが怖くはなく(西洋のキツネってこんなんだ〜)と思っただけ。
魔女は怒って帰って行きました。(国内の或る場所です)

その一週間後から毎日同じ時刻に、ジュネさんがひどい頭痛に襲われるようになった。
魔女が呪いをかけていたようです。

このように、優しく親身になってあげても、それを心良く思わない人は居るのです。
なので、自分がちゃんと生きていれば他人から怨まれることはない、ということはありません。
(キリストが十字架に架けられたようにね)

戦う気モチなど何もなくても戦いを挑んで来る手合いは居るのです。
その時恐れたり怒ったりしてはいけない。
ジュネさんは上のような目に遭っても恐れず腹を立てず平然としていました。
これが「魂の戦に勝っている状態」です。
感情的になったり(泣いたり喚いたり)、恐れたりすれば、魔女のような人にとってはチャンスです。
そこから憑け入る
のです。

何があっても平然としている・・・これを戦いに勝っている、と言います。
勿論相手に勝つというより(まぁ、そういう面もあるが)
自分の弱い心、恐怖心に勝つと言うことです。


<戦う人、戦わない人4>(2009年8月31日)


温厚な人でも戦います。
しょっちゅう例に挙げて申し訳ないがM氏。
彼ほど優しく明るく温厚な人はあまりいないのですが、相手によっては戦うことも辞さない。
勿論喧嘩ではありません。
「言うべきことを言う」
という戦い方です。

世の殆どの人は「自分の身が大切」なので、言わない。
でもM氏は
「自分のことは後回しにして、皆のために言う」のです。
他人のことなら戦える。
日月神が言う「我良し」の反対の人です。

このレベルになると天が味方するのでしょう。
不思議な一致、偶然、幸運が日常的に起こっている。
しょっちゅう
「神仕組み」としか言いようのないことが起きているのです。

世の中は恐れている人が多い。
いったい何を恐れているのか。
他人の目か。
しかし他人は一枚岩ではありません。
皆、意見が違います。
なので他人に好かれようとか認められようとか、思った時点でアウトですよ。

意識するなら天を意識しましょう。
この言動と行動が天意に叶うか、どうかを常に問うべきですね。
(まぁ、私は「自分がやりたいかどうか」を一番先に持って来ますがね。
 私はM氏と違って人間が出来てないので)



<戦う人、戦わない人3>(2009年8月31日)


おとなしい人でも戦えます。
「人は叶う夢を見る」の管理人、ガチさんの日記より。


実は

Theme: 宇宙人話 August 29, 2009 23:00:40

私は非常に執念深く根に持つタイプ
私が「こいつはいかん」と思うと
私の目の黒いうちは該当者が改心するまで「この人はイカン人です」
としかるべきところへ伝え続ける

私の息子の一年生のときの担任先生いまだに私が県教育委員会まで改善を求めた事を
根に持って挨拶をしない 無視 顔を背ける 学校の先生
学校の先生はまいろいろあるが保障もある身分
私は明日も知れない流しの講師吹けばとぶよな存在だが
「学級崩壊してました」
「鉛筆の持ち方が悪いと泣くまで生徒を責めました」
「息子が不登校になっても1週間はほったらかしでした」
私が行く勉強会で私が働く先で貴方が変身するまで
私は事実を話し続けます


私の目が黒いうちは
「この先生は良い先生です なぜなら私の息子が好きだからです」
とよい先生の評判も流し続けます
私に見込まれると忙しくなりますよと相手に宣言して垂れ流します
一方は
物凄く顔が引きつり 怒ったり 無視したり
もう一方は
「いやー息子君みたいな面白い子に認められるって光栄です〜」と本当に忙しくなっていく

私の基準は息子にとって良い先生かどうか息子にとって良い先生なら
9割の普通の子にとってすばらしい先生だ

ガチさんは「自分は根に持つタイプ」と書いてますが、そんなことはありません。
根に持つタイプというのは<戦う人戦わない人1>で紹介した低級霊に憑かれた人です。
ガチさんの場合は、
「皆のために、正しいことを言い続けている」ので賞賛に値します。



<戦う人、戦わない人2>(2009年8月31日)


IHSD。
この人に対抗してブログを立ち上げて、何も知らない人に警告を出した勇気有る人達がいます。
私はIHSDの主義主張は良く分からないので、彼についてはただ「信じるのはまずい」くらいしか言えません。
彼のことは放置して、信じる人は放っておけば良い、という考え方もできますが、
敢えて火中の栗を拾った人達が複数いることに感心しました。

おとなしい人、アワな人は戦えない、他人と敵対出来ないのは分かります。
なので別に責める気はありません。
でも(自分さえ我慢すれば)という意識でいることが、他の犠牲者を増やすことになるのですが、
そこまで考えているのかな、と思いますね。

何も喧嘩を売れとか、買え、というのではありませんよ。
アワなタチの好みにふけるのは如何なものか、と言ってます。
義のために知恵を使って戦うことを喧嘩っ早いと誤解するレベルの人がいますが、
そうではない、ということを分かって行った方が、自分のために良いと思う。



<戦う人、戦わない人1>(2009年8月30日)


以前、或るチャネラーと会話した。
低級霊に憑かれた人のことを相談していたのだが、そのチャネラーは”一般論”を喋っているので、困った。
私が訊きたいのは”一般論”ではなく、「このケース」だったのですが、
それをこのチャネラーは理解していないようでした。
とても”良い人”ですが、判断力に乏しいと言えます。
この人は、周囲に低級霊憑きが居ても「戦いませんから」だそうです。
「・・・・・・・・・・・・。」

戦いません。

と聴いて「素晴らしい!」と思う人と、「は?」と思う人がいるはずです。
ここで「素晴らしい!」と思う人は、これ以上800を見ない方が良い。
読めば読むほど800が嫌になるはずです。
嫌なら読まなければ良いものを、嫌なのに読んでは腹を立て、憑いてる低級霊の数を増やす人。
このような感じ→低級霊憑きの実例
(※この人は普段あまりにも”良い人”を演じているので、隠れた怒りが表に出たのでしょう。
   心の暗闇が表に出てきた。
   普段から自分の心を点検していればこのようなことにはならないが、良い人は自分の心に悪や闇があることを認めません。
   認めないので、その心がまるで人格を持ったように、暴れるのです。
   ホラーですなw)





いくら良い人でも「戦い」という言葉に対する理解の程度が低いと言えます。
戦うと言っても何も殴る蹴るひっかく噛みつく、というのではありません。
刃モノで刺したり拳銃をブっぱなしたり、でもありません。

「それは違う」と意見することや、「本当はこうです」と発言すること、「見て見ぬ振りをしないこと」などです。
基本は「自分の弱い心に負けないこと」です。

「私は戦いませんから」と言う人は、電車の中で凶暴な男が一人の若い女性をヒドい目にあわせていても
「戦わない」のですかね。
そんな時「君、止めたまえ」と注意するか、携帯電話で通報するか、車掌を呼びに行くか、戦い方はいろいろあります。

それは戦いでは無い。

と思っているのかもしれません、戦わない人は。

だから、もしそう思っているのなら「それはあなたの考えが足りませんよ」と、私なら言いますが
その言葉を理解しない人が多く、賛同者は少ないでしょう。
なので戦わない人はここで多数派について自分は何もせず
「戦いません」と宣言もしないで(上のケースのような、電車の中で、何も言わないで黙っていること)いるのでしょう。

「義を見てせざるは勇無き也」



何も暴漢が居たら、素手で殴りかかれ、と言うのでも無いんですよ。
そういう時は自分でやれる範囲内のことをするか、何も出来なかった場合は
「戦いませんから」などと平然としていないで、何も出来なかったことに対して恥を知れば良いのです。
勇気がなくて何も出来なかったら、「次、同じようなことがあったら、今度は絶対助けてあげよう」と反省すればいい。



某大学教授が落し入れられて、逮捕されました。
彼は私達の代わりに戦ってくれているので、私はありがたいな、と思います。
(ただし彼が推薦している民主党も決して良くないので全員国会議員を辞めて欲しい)
(自民党も全員辞めて欲しい)(その他の党の議員も全員辞めて欲しい)

大学教授が民主党を推しているから気に入らない、という心は私には無いので、
それはそれ、これはこれ、でOKです。



また、或るテレビ番組の出演者の中に某宗教の人が複数居て、
他の出演者を熱心に勧誘していた。
勧誘された人がうっちゃん(内村氏)に泣きついたので、うっちゃんは宗教信者の人複数名に対し
「いい加減にしなさい」とたしなめたら、たしなめられた方が宗教幹部のような女タレントに言いつけた。
女タレントはテレビ局に圧力をかけ
(たぶん某党からの圧力ではないか、それともテレビ局の幹部がその宗教なのか)
何も落ち度の無いうっちゃんは番組を降ろされ、その他のテレビの仕事も殆ど無くなってしまったそうです。
宗教信者のお笑タレントはテレビに出ています。
泣きついたタレントもいますよ。
この話はとても有名なので、ぜひ調べてみてください。
うっちゃんはただたしなめただけですが、受け取った側が「戦いを挑まれた」と思ったのでしょう。
片方がいくら穏便に済まそうと思っても、片方が戦う態度なら(この宗教はすぐそうなるようです)戦いになってしまうんです。
もし、この時「戦いません」人なら、他のタレントがどのような目に遭っていようと、
見て見ぬ振りをするか、その宗教に入信するか(これは実際にあるそうです)ですね。
それが「戦わない」ということです。

思いっきり腰抜けじゃん?

でも、戦わないとはそういうコトなんですよ。

うっちゃんの場合は親切心から出たことですが結果的には戦うことになりました。
彼も私達の代わりに戦ってくれたのだと思います。
そのつもりがなくても、そういうことになってしまったんですがね。




誤解のないようもう一度書いておきますが
私は何も「みんな戦え」と言っているのではない。
ただ、戦わないことを自慢するのはおかしい、と言ってます。
戦えない場合は「戦えないことを恥じよ」と言ってます。
(戦いにもいろいろあり、何でもかんでも戦え、というのでもありませんよ)
そして戦っている人がいたら、その労に対し感謝するべきではないか、と。

これは魂の戦(たまのいくさ)なんです。

また、普段から
心が戦う姿勢になっている人がいますが、ここで言ってるのはそれとは違います。

これは数学ではなく社会科なので正解は一つではなく、
またケースによって回答も違ってくるので難しいと言える。
でもそれを解くのが大人なんですよ。
このケースというのは難しいので、そんなことを考えたり、他人に教えたりするのはとても面倒です。
なので最初から「戦いません」と決め、「0」(ゼロ)にしてしまえば簡単。
オールオアナッシングですね。
全か無か、になっている人が多い。
人間なのに機械になっているようです。



<自分の心で世界を見る人2>(2009年8月28日)


M氏から聞いた話です。
M氏が勤務する職場はこういう人が多いそうです。

仕事は真面目にやる。
生真面目。
普段は不必要な仕事をしている。
それが仕事だと思っているようだ。
定時になったら部下のためを思ってさっさと帰ればいいものをいつまでも居るので部下も帰れない。
それで「自分はちゃんと仕事をしている」と思っているようだ。

溜息が出る。

M氏の上司が、その上司の前へ出る時は、
上の上司から何を質問されても良いように、資料を全部揃えて行くが
上の上司はせっかく準備したことを質問してくれないで、想定外の質問をする。
っが〜〜〜ん!
あんなに準備したのにぃ。
上司の前に出ると緊張しまくる。
傍目にもそれが分かり、気の毒なほどだ。

そんなに緊張する必要は無い。
普通にやってりゃいいんだそうです。
実際M氏は上司の上司の前でも全く緊張しないそうです。

M氏の直属の上司他、多くの人が上の上司の前へ出ると緊張しているのだそうです。
何故か?
M氏曰く「自分でそうしている」そうです。
誰もそのようなこと(上の上司の前で緊張することや質問に完璧に答えなくてはならないことなど))
など、求めていないのに、勝手に自分でそう決めている。
根拠もなく。

M氏が直属の上司の前で、その上の上司に親しみ易い態度を取って見せても
それを見て何も学習しないのでしょう。
何を見ても何も学習せず、自分の心のままに思考し行動しているのです。
このような人はとても多い。自分以外の所から情報を取り込むことが出来無い人。

********************************

主婦にも多いのです。
周囲のこと、ひと、ものを何も見ないで(目で見てはいるが、頭は働いてない状態)
ひたすら自分の心のままに生きている。
私の知り合いにもそういう主婦がいるので、まずそこに気づいてもらおうと
様々な働きかけ(注意など)をしますが、なかなか理解しません。

情報系が閉じている人。
と言えます。
当然仕事は出来ません。
職人なら自分だけでやっていけますが、世の多くの仕事は他人との関わりあいや
周囲の状況を見ながら進めるものなので、情報系が閉じている人は仕事が出来るわけがありません。
そしてそのレベルの人は勿論自分がそのような(低い)レベルにあるなんて分かりませんから、
常に周囲が悪い、意地悪だ、と環境のせいにするのです。

溜息が出ますね。



<自分の心で世界を見る人1>(2009年8月26日)


「自分の心で世界を見る人」とは、私達全員のことです。

世界は、観察する人の心のままに映ります。
世界を世間と言っても良い。
世間を見る目が曇っていれば、その通りの世間が展開します。
◆世間の人を冷たいと思えば、その通りの現実が展開する
◆世間の人を親切と思えば、その通りの現実が展開する
これは自分の意識が決定する、という意味です。

具体例を挙げましょう。



私の友人のAちゃんは、庭師です。
彼は私より10歳下。
Aちゃんはとても気が良いのですが、今から20年近く前に九州から東京へやって来た。
そこで私の高校の後輩と出会い、結婚してこちらに引っ越して来ました。
Aちゃんとしては東京には仕事で行っていたが、こんな田舎町に何故オレが住まなきゃならんのだ?と
不満があったのでしょう。

こちらへ来てからのAちゃんは、出会う人は皆、「嫌な奴ばかり」となってしまったのです。

Aちゃんの意識が「ここは嫌だ、ここの人間も嫌だ」状態になってしまったので、
Aちゃんの心の通りに物事が展開するようになったのです。

私とAちゃんが出会ったのはそんな時でした。
私はAちゃんよりずっと年上なのと、奥さんからの情報とで(そうか)と理解しました。
それからはAちゃんが(ここの人も悪い人ばかりでは無い)ということを経験で分かってもらえるよう
つきあいました。
別にそれが目的はなく、私としては普通に付き合って来たのですが、
Aちゃんは次第に(ここの人、全部が悪いわけでは無い)と、経験から分かった。
その時から事態は良い方向に回り始めたのです。

Aちゃんの仕事に協力してくれる人、面倒を見てくれる人、仕事を回してくれる人が
現れ始めました。
心が変わったら現実も変わったのです。
今のAちゃんはとても幸せそうです。
もともとが単純なので余計なことを考えないのも吉と出ました。



このように、「心一つ」で状況は何とでもなるのです。
何でもない状況なのに、自分の心で拗らせている人が、何と多いことか。



<素直と従順の違い>(2009年8月21日〜2009年8月22日)


世の多くの人は様々な言葉の意味を間違って使っています。
挙げればキリがありません。
腕白と野放図
自由と自分勝手
意地悪と苛め
利己主義と自己中心
優しさと親切
元気と乱暴
天真爛漫と傍じゃく無人
協調性と事なかれ
馬鹿と低能
我儘と自己主張

などです。
特に素直と従順を間違えて使っている人が多いようです。




エゴグラムというのがある。   http://www.egogram-f.jp/seikaku/
これが100%当たっているとは言いません。
しかし一つの参考にはなります。


人間の心を
◆親の心→父親の心、母親の心
◆大人の心
◆子供の心→自由な子供の心、従順な子供の心
という5つの要素別に、どれがどれだけ強い(数値が高い)かを調べるものです。


この中で一般的に「素直だ」と言われるのは、「従順な子供の心」の方で、
「自由な子供の心」の方は大人から「我がまま」とされます。
しかしこれは違うのではないでしょうか?
強いて言えば、自由な子供の心=素直、です。
だっ従順な子供の心=従順なんだから。
多くの人が素直と従順を混同しているので、まずいことが起きていますね。




多くの、普通の人がこれらの言葉を混同しているので、困ったことが起きている。
しかしその原因
(言葉の使い方を間違えていること=言葉を正確に使って無いこと=きちんと物事を考えないこと)
を知る人はあまりいない。

そのために、素直な人が世の多数派によって誤解されるのです。

ところが、その多数派の人達は、日頃の誤解のためにそのツケを払わされることになる場合がある。
(100%とは言いませんよ)




ウチの子が小学校へ通学する際、学校側が示したのは「近道では無くて、
わざわざ遠回りをして、しかも自動車の通行が激しい道路を歩く」というバカげたものでした。
当然私は従順ではないのでそのようなアホな命令を聞くわけがありません。
「うちは一番安全で一番近い道を歩かせます」と小学校に宣言しました。
この場合、相手(学校)が四の五の言うようなら、さらにその上(県教委)と話をつけるだけなので平気です。

このように学校の司令(命令)はトンデモ無くバカげたものなので、
もしこれ(小学校)の言うことを聞いていたら、大変なことになります。
その後日本中で通学途中の小学生の列に車が突っ込んで死傷者が出るという事件が起きました。
この場合はそれしか道が無いのでしょうがないとも思いますが、
安全のための集団登校なのに、これでは余計危険ではありませんか。



ではこの場合はどうでしょう?

或る保育園での話です。
中国人の母親が居て、日本になじめず周囲の日本人にも友人は居ない、追い詰められた状況でした。
その中国人母は挙動、態度が不審なので周囲の母親の間では話題になっていた。
その土地では保護者が順番に近所の子供を載せて保育園まで送っていた。
或る保護者が園長に「あの中国人の母と一緒のグループから抜けたい」と申し出たら、
園長が「どうか穏やかに済ませたい」ので「そのまま一緒に通園して欲しい」と言った。
その園長の言葉に従順な母親はそのまま通園を続けさせたら
或る日、中国人の母は日本人の園児二人を刃物で刺して殺しました。

さて。

これって何が悪いのでしょう?
法律的に悪い・・・というのではありませんよ。
道徳的な話でもありません。
原因は何か?の話です。

私がこの日本人の母親なら、即そのグループから抜けます。
園長が四の五の言ったら「責任取れるのか?」と詰め寄ります。
でも、ま、こんな爺さん園長の言うことなんか私が聴くわけがありません。
自分の子供を殺された母親は、自分がいったんは園長に申し出たのに
園長に言いくるめられたことを一生後悔して生きるのです。
この爺い園長がいくら謝っても、それで済む問題では無い。
たとえこの爺いを殺しても、こんな老い先短い死に損ないの老人の命と、人生これからの幼児の命が釣り合うわけがありません。
この若い母親は何でこんなくそ爺いの言うことをきいてしまったのか。
それはこの母親の心の根底に「他人と争ってはいけない」「他人から良い人と思われなくてはいけない」
「他人にNOと言ってはいけない」「他人とは仲良くしなくてはいけない」という呪いの言葉が沁み込んでいるからでしょう。
勿論これらの言葉を言語化するわけではなく、そのような心の姿勢に、無意識でなっている、という意味ですよ。
多くの人はこれですね。
多数派とも言えますね。



素直と従順の違いを殆どの人は考えたこともなく、うやむやになっています。
頭の中が整序されていません。
混沌としている。
これでは思考するのは無理ですね。




いつもifさんが言われる
常識や世間体にとらわれないとか
好きなことをするとか
他人に惑わされることなく
自分自身の感性をみがいておかなくては
いざという時に私たちが本来持っていた
直感が使えないように
なってしまうことなのですね。
 
つい最近兵庫県の佐用町でのことですが
集中豪雨で避難勧告がでたので
避難する途中で水路に流されて家族全員が
亡くなる事故があり、
そのことについて専門家の人の話が新聞に載っていましたが
避難勧告が出ても道路の水がかなりある場合は
各人の判断で避難しないほうが良い場合もある、
とかかれていました。
実際自宅の2階に避難していた老人たちは
無事でした。
私もまた今日から少しでも判断力をあげるようにしていきたいです。

そうです。
あまりにも何も考え無さ過ぎます。
私も考えてはいませんが、もっと考え無しのようです。
自分は考えないで誰かの言動に従順に従う。
その結果がこれです。
誰が責任を取ってくれますか?
何も考えないで生きていてそれで幸せになろうってのは無謀です。




上の記事を読んで二十歳の方からメールが来ました。(2009年8月22日)


こんばんは!Aです。
以前、ifさんにお話を聞いて頂けて本当に生きやすくなりました有難うございます!

先日、普段なら絶対に言い返さない私がハッキリと両親に言い返しました。
すると、前はあんなに素直だったのにと言ってましたが
「母が言っている素直は、従順だ!」と言うと怒ってましたが私は真顔で知らんぷりしましたw

母は余りにも可哀想です。物事を悪い方向でしか受け取らないんです。私がネットで調べたり本で調べたことを教えると
「ネットみたいな顔が分からない所なんか信用出来んから、するなっ!顔が分からないから言いたい放題言ってるんだ」と怒鳴られました。

まぁ、私が母は可哀想だねと言うと「あんたみたいな子供を持ったお母さんが可哀想なんやろ!
なんでこんなにお母さんを泣かせたいんねっ」と泣かれました。
しかしもう泣いても可哀想だとしか思えないし、私は私の生きたいように生きたいです。

私は母に構って貰えることに甘えていて、何一つ決められなかった。
決めきれない子供になってしまっていました。唯一反抗のようになっていたのは自分の好きな本を買うことのように思えましたw


それは大変ですね。

大変なのは私よりも、弟たちかもしれません…。
弟達は、母へ忠実なんです。私が、ハッキリとした態度をしたり母を泣かせると

「お前は何様だっ!!」
「一番お前に金がかかってるのに、何を考えてるんだ!親不幸者めがっ」
「ネットは一番嘘がつけるんぞっ!結局、信じられるのは親や身内しかおらんのや」
「親を泣かせて、楽しいんかっ!薄情やなっ!何様だと思っとるん」

この罵声は、弟達から出ましたが母と父の言葉でしょうね。
私は何も返答せずに無視しました。
と言うか返答出来なかったんです。
あまりにも周りが地獄にいるから、私には何も言えませんでした。
謝ることでさえ屈伏するようで嫌でしたが、
「私にもまだまだ分からないことがある。家族の考え方は可哀想だ。
認めたくはない。
しかし家族と仲良くしなければ、言葉の暴力を言われ続けるだけだ。
謝りたくないけど謝ろう」と意識して、謝りました。

家族にとって、私が和を乱すのが許せなかったんでしょうね。
親の言うことを聞いていれば、地獄だとしても獣にとっては楽なのでしょう。


大変ですね。
あなたがまず学ばなければいけないことは「相手は言っても分からない(理屈を理解しない、思考力が無い)のだ」と、分かること、です。

早く自立して家を出ましょう。

家族のことは家族の自主性に任せましょう。
皆、自分の好きな生き方を選択しているのだから。


Oさんから。

Aさんには応援してます!とお伝えいただけましたら幸いです。
金銭的にはウソついてでも搾取されたらダメなので、貯金からまず囲い込めと申し上
げたいです。
お金の話が出てるということは、いよいよ言うこと聞かないとなったら「今までにか
かった金返せ」とか言いかねんし。
私は新聞奨学生の奨学金で都会に出ましたが、住み込みの仕事なども最初の足がかり
としてはいいかもですね。
いやあ、言われっぱなしだろうと思って謝れるって、忍耐強いなあ…うちなんか殺虫
剤とライターかまえて喧嘩しましたよ…(炎が逆流しかねんのでNGですが)?


火炎放射器とは良いアイディアです。


<洗脳(催眠)商法=ボスに群がるメス達>(2009年8月20日)


下の記事<集金システムに取り込まれる人>を読んだKさんから、エステの話が来ました。

69さん

こんばんは。

5月に絵を描いていただいたFと申します。
絵が届いてから、すこーしづつ自分を客観視できるようになってきた気がします。
以前よりも感情に振り回されることが少なくなりました。
ネガティブに少々落ちても、立ち直りが早いです^^

先日しずさんにリーディングしていただきましたが、
こちらの絵はとても分かりやすくFさまのご希望された通り
一つ、一つ考えながら、イマイマにキを入れて進んで(学んで)ゆけるお守りのようになっています。」
との事で、絵のサポートありがたいなあ‥とあらためて感じてメールしました。

800の いろいろ1→<集金システムに取り込まれる人>を読んで私も心当たりがあります。

宗教ではないのですが、1年位前にエステのネズミ講のようなのに
誘われて「なんか嫌だ」と思いつつ断りきれずに集会に参加しました。

参加してビックリ、まるで変なカルトのようでした。
部屋にはオーナー(男性)のポスターが貼りまくられ、オーナーの歌がエンドレスで流れてます。
オーナーの演説(?)「な?お前ら、そうだろ?」に
会員の女性たちやスタッフが声を合わせて「ハイ!!!」と元気なお返事ww

そこでは超カリスマの様子‥ですがオーナーの言っている内容が
(私からすれば)洗脳しようとする意図が強く感じられ、不快でした。
会員女性の多くは、オーナーに気に入られたい、私を見て(目がハート)みたいな感じ‥

「これはヤバい・キモい‥」と感じるのですが、私を誘った友人と、
そこのスタッフに勧誘され、流されがちで断れない私は自分の直感を無視して
契約書になぜかサインしてしまいました(アホです)

その後、いろいろあって1ヶ月ほどで退会する旨、先方に告げました。
スタッフに「話し合おう」と喫茶店に呼び出されて2時間近く説得?
(私をこき下ろしたり、なだめたり、すかしたり、またこき下ろして煽ったり)
されましたが、そこで相手の会社の本性がはっきり見えたので私は良かったと思います。

本当でしたら最初の段階で断るべきなんでしょうが、
自分の判断力の無さや、勇気の無さ、無意識状態‥
いろいろ考えることが出来たのは、収穫だったわーと思ってます。
勉強させていただきました(^^♪

今回しずさんのリーディングでも「直感に従え!」というメッセージが繰り返し出てきました。
もっともっと直感(内なる声)を聞き、考え、賢く決断できるよう、精進します。



そういうのに引っ掛かる人の特徴の一つに
◆誰かに認められたい
というのがありますね。

自分以外の者に認められることによって、自分が自分を認める、みたいなところがあるのではないでしょうか?
自分を認めるのに他人の認可が必要な人。
多いと思いますよ。

これに近いものに、「他人から好かれたい」「他人から良く思われたい」「他人から良い人だと言われたい、思われたい」
というのがあります。
皆、自分以外の人間の認可を受けたい人達です。

そこから抜け出さない限り、いくら年を取ってもやられますね。
実際に老人の方が騙されてますから。
さすがにエステに騙される老人はいませんが、他のことでいくらでも騙されます。

自分一人でしっかりと生きる

これが出来ない人が多い。

自分一人でしっかり生きることは何も友人は要らないとか、
他人に世話にはならいよ、しないよ、というのではありません。
自分一人でしっかりと生きている人が本当の意味で他人の役に立つことが出来ます。

しかし世の多くの人はこんな最低限の境地にすら、達していないので、
そういう人(しっかり者)を理解出来ないでしょうね。
(※この境地=レベルに達していても、優しく親切なら皆から認められますが・・・)

大勢と一緒に生きるのが好きだ、楽しい、幸せなのだ、という人はその生き方をした方が良いと思います。
自分の本質に反して生きても楽しく無いのでね。




さて、催眠商法のオーナーの取り巻き女達。
彼女らの心理も分かります。
その場で一番権力を持った人間に認められたいという心理です。
宗教でもありますね。
教祖の周囲の女どもが我先に教祖の寵愛を得ようと熾烈な争いをする・・・結果ハーレム形成とかね。
とても低次元のサヌキですね。

熱狂次元、陶酔次元の人達です。
もっと言えば「動物次元」ですよ。

動物の群れを見れば同様のことが分かります。

まずボスがいる。ボスは複数のメスを従えています。
他のオスはその群れから離れた場所にいる。
その若いオスがボスのメスに手(だか前足だか)を出すと、ボスが猛然と若オスを蹴散らします。
あ、アザラシの話です。

猿などもそうですね。
猿の場合は群れの中にオスは沢山いて、オスは常にボスの地位を狙っているのです。
ボスが年老いて弱くなると、他のオスがボスに喧嘩を挑んで負かしボスを蹴散らします。
(これなどは日本の政党政治と相似象です)

何が言いたいかと言うと・・・

◆動物のメスは権力の或るオスを求める(=ボスに自分を気に入ってもたいたい=認められたい=それが自分の身分の保障になる=子孫繁栄)

◆動物のオスは自分が権力者になろうとする

エステのオーナーはさしづめボスアザラシなんですよ。
周囲の女はメスアザラシです。
どうですか?
動物次元でしょ?




Kさんがエステの会員にならなかったのは、陶酔次元でなかったからです。
つまり少数ながら存在するマットウな人、ということです。
動物次元では無い「人間」だ、ということです。
Kさんのように地道に平和に生きていても、世の中にはこのような落とし穴が沢山あります。
イマイマにキを入れて目覚めて生きましょう。


<集金システムに取り込まれる人>(2009年8月16日〜2009年8月18日)


下の記事<楽しく生きるということを知らなかった人>のIYさんが入ってしまった会。
ここは「精神」よりも「物質」を重視する会だったようです。



本当にとんでもない会でした。決して悪口ではないですよ。ただの情報として聞いてください。
 
まず入会します。座談会名目で誘われます。(子育ての会だからと言われて)
だいたい参加する人は第一子の子育てに疲れ果てた人が多いです。私もその一人でしたから・・・
そして主人中心の生活について司会者が話をしたり、子ども同士を集めて年配の方たちが子守をしている間に、
会のおえらい人が一人一人に入会を迫ります。その勢いに負けて入会してしまうのです。
 
そして月々の会費は200円と本代の300円を払うわけですが最初の1年間分として3000円払います(前払い)。
なぜ・・・かな???
本当に強引でびっくりしてしまうのですが、後で聞いたところによると、「相手のために金を払わせさせる」のだそうです。
金を出すと入ってくるから・・・と言ってました。それについては確かにそうかもしれません。
しかし強引というのはどうでしょう・・・またその会に払うのも・・・
 
その後、毎月開かれる子育ての新米ママたちを集めた●●会というものがあります。
子どもが大きくなるにつれ◎◎会、■■会という風にどんな世代の人もこれるように会が開かれるのです。
そこで皆さんで悩みを打ち明けたり、アドバイスをしたりします。
たいていどんな人も悩みはありますよね。
そこに付け込むんです(会費をアップすることで、会とのご縁が強まり、より一層よくなるから会費をふやしましょう・・・)って。
上は上限がありませんからすごい額を出す人もいました。

そして年に2回(春と秋)に大会というものが開かれお祝い金という名目でお金を請求をされます。
それはだいたい朝起きをして会をよく知った人だけの話ですので一般の幽霊会員には言われません。
だからタチが悪いのです。
会をよく知らない人ならはっきりと断れますが、洗脳された人は巨額な金額をだしていました。
またその会にいる人の服装は何十年前の服なんだ?とびっくりするような格好をしているんです。
その服を買う金があれば会に出すんだそうです。実にすばらしい!まねできません。
 
また楽しい方を選ぶな、苦しい方を選べとも言われます。
だから69さんのことばが新鮮なんですよ。
楽しむことが悪いことのように教えられるんです。
ただひとつ楽しんでいいこと!それは頒布と言って、本を大量に買わされて一軒一軒を回るのです。
頒布を楽しみなさい。
そうするとたくさんの人とご縁ができ、そして学校にいっている子供たちによいご縁ができるから!と。
目にみえないご縁とか言われると今まで悪縁が多かった人にはすぐにコロッと騙されるんです。
私もそうでしたから・・・
 
だいたい一通りやってみました。
そして辞めました。
これは私の体験した全てですので嘘偽りありません。
まだまだ金銭の座談会やら、秘密のベールに包まれたものがありましたよ。書くと長くなりますが・・・
 
こんなもんでした。判断力のなかった私が見事にやられました。
子育てもうまくいくところか失敗しましたし、主人も弱くなりました。
悪ではないかと今思っています。

まだ金銭の座談会がもっと怖ーいですよ。
医者の奥さんが司会者に選ばれて会を開きます。
会員を集めて貧乏だけど子どもがいい子に育ったとか、主人が出世したなど涙なしには語れない話で会を開きます。
そして医者の奥様が
「お金をだすと帰ってきますから・・・」と言って会を終えました
びびりましたよ・・・恐ろしい。
完全なる組織ぐるみの犯行です。
 
それと捨て育てってご存知ですか?
頒布にいっている間に子どもを家において出かけるのです。
こどもがとても成長すると皆さん口をそろえておっしゃいます。
親がいなけりゃ自分でしなければならないし当然だと思うのです。
ただ近所に迷惑をかけた場合など他人が巻き込まれた場合、
ひたすらあやまる姿を子どもにみせることによっていい親子関係が築けるらしいです。
でもその捨て育ては生後まもないころからでもするので恐ろしいです。
 
私も頭をさげる実践がたりないから子どもがだめなんだといつも言われました。
幼稚園のときに子ども同士のトラブル(普通にあることだとはおもうのですが)に頭を下げてこいと言われました。
うちの子が悪くなくても下げなさいと!真に受けました。反省しています。
 
腹のたつことはいっぱいありました。
不思議だなあと思うことを質問すると「こんな常識を親に教えてもらってないあなたはかわいそうです」なんて言われましたよ。
常識???
その常識とは他人とのか関わり方を愛和な心で触れ合うことらしいです。
本当に知りませんでした。無理してでも相手のよいところを引き出してやりなさいですと!!!
相手の態度は全部自分の行いからだそうですから・・・突然現れた見ず知らず人もご縁あってだから大事に!と言われます。
犯罪者だったらどうなんでしょう!
 
とにかくおかしいです。
ぜひ取り上げて皆さんがだまされませんように・・・



捨て育てというのは最初の発想は良いと思うんです。
それは高次元だったはず(私も何かで読んで知ってます)
また、「ご縁を大切に」「夫婦愛和」も良いし「金を出せば入って来る」も真理です。

しかし、この会ではそれらの言葉が低次元なモノに堕ちています。
どのような良い言葉も真理も、受け取る側の人間のレベルに成り下がるからです。
この会の指導者のレベルにまで成り下がってしまったものと思われます。
この会だけでなく、どこも似たようなものだと思うので、参考になるので載せました。



集まって来る人にとっては「それ(そのレベル)が心地よい」のです。
異波長の人が混じると、その人はとても心地悪いのです。
だったら離れれば良いのですが、多数に少数なので(自分がおかしいのかもしれない)と思ってしまう。
そうなるのは「多数決」「多い方が正しい」「多い方がいい」「皆と仲良くすることは良いことだ」という
下地があるので、それを基いにして生きている人には変だと思いながらも
逆らうことが出来ず(だって、人と仲良くしろと、生まれた時から洗脳されている)
変だ変だと思いながらそのままずるずると行ってしまうのでしょう。

もし、この時「皆と仲良くするのは不可能」「意見は皆違う」「判断力には個人差がある」
「多いからと言って正しいとは限らない」「自分の直感で決めよ」「大抵直感が正しい」
「楽しいことをしなさい」などという考え方が基い(もとい)となっていれば、たった一人でも平気なのです。

これが出来ないのは子供です。

年齢が子供ならそれで良いのですが、年齢が大人なのにそれが出来ない人が95%は行くのではないかな。

IYさんはそこから抜け出すことが出来て良かったですね。
散々な目に遭ったけど、貴重な学びをしました。
結果的には良かったです。
あの体験は自分にとって必要だったのだ、と思い、決して怨んだりしないように。
貴重なことを教えてくれたんだから恩人だと思いましょう。





(2009年8月17日)
改めて読んで、会員がかわいそうに思えてきました。
私もそうでしたが、自分は本当に善いことをしていると疑いもせずに本を買い、皆さんの家に頭を下げているんですよ・・・
本代も数万円にもなる人がたくさんいて、明日の食べる分もないって言ってました。
だけど他の会員に助けてもらったりと協力し合いやりくりしています。
このような純粋な会員の心を利用しているトップに怒りを感じます。
この先のアセンション後にどうなるのでしょうね・・・
 
結局は判断力のなさがまねく結果とはいえ、それをあやつる人間(組織)の破滅を願ってしまいます。
いい経験をしたという69さんの言葉、本当にそうだと思います。
その中に身を入れなきゃ気づくことがなかった世界。
そして脱出できた(某サイトのおかげ)!!!
ありがとうございました。
そういえば、私がいた時に会員の数が増えないことにしょっちゅう対策会議が班別で行われていました。
やはり真実がみえつつこの時代にもう無理なのかもそれませんね
 
そう、もう無理だと思います。
信者を集めて集金する、なんてのはひと昔前の話ですよ。
終戦前後に降ろされた日月神示では「宗教の時代は過ぎた」と言っているんです。
それから60年以上経ったのに、まだ前時代のやり方をしているんです。
教祖も信者も。
(※この会は表向きは宗教では無いが、本質は宗教です)
なので、教祖は勿論悪いが、それに乗る信者もどうかと思います。
老人ならしょうがないが、若いのにインターネットから情報を得ないという点・・・

この体験をした方は、痛い目に遭って、そういうことを学んだのです。
洗脳が上手いこともありますがね。

この団体に限らず、どこも似たようなものだと思いますよ。
タチの悪さには多少の差はあるとは思いますがね。

元の会から抜け出した、新しい会の教祖は、幹部として働くうちに
集金システムを覚え、それを使わない手は無いと、良いアイディアを思いついたのでしょう。
そしてそれを実行した。
何も知らない信者は金を吸い取られても「苦しい方を選べ」と言われているので
文句も言えないというか、文句を言おうとも思わない。
奴隷や家畜に成り下がっているのです。

しかし会員も、老人からどんどん死んでいきます。
新しい会員を増やさないとジリ貧になっていく。
この会も会員が増えないということで会議を開いていたようですが、
増えないどころかこれからは減る一方ですよ。

「悪のやり方初めは良いようなれど、九分九厘でグレンざ」とは日月神の言葉です。
最後に来てグレンとひっくり返るのです。




(2009年8月18日)
倍加と言って相手のためにお金を払う行為があります。
たとえば近所に嫌な人がいた場合、その相手の名前と生年月日、住所を書いて3000円添えてだします。
相手の生年月日なんてわからないので、それに近そうな生年月日を勝手に書くんです。
私はその倍加を不信に思い、どういう内容かを深く聞きました。
そうすると「命の次に大切なお金を相手のために支払うという行為は
相手のことを思って大切なものを差し出すということで、相手より上の気持ち」だそうです。
中にはご主人が会社の人間関係に悩み、会社の同じ課の全員の倍加をしたところ、ご主人の異動がきまり順調になったとか言ってました。
本当に恐ろしいと思いません?
もし勝手に相手からそんなことをされていたなら知らぬまま実践倫理宏正会の会員です。
また知らないところで名前と住所、生年月日が使用されているんです。
 
そんなことをして犯罪ではないのでしょうか?
 
 
 
犯罪スレスレですよね。
ハッキリ犯罪なら、とっくにつかまっているので、正確には犯罪では無いからやれるんでしょう。
ちゃんとお抱え弁護士がついて、やっていることだと思う。
 
 
まだ頒布なら本人も納得して行っているのでいいですが、この倍加については絶対に許せません。
 
営業成績のいいご主人をもった会員さんは、給料が上がれば上がるほど、
ご主人と同じ会費では主人に申し訳ないでしょ?なんて言われてご主人の会費を万円クラスにあげておられます。
これでまた主人がどんどんよくなりますよ・・・なんて言われてね・・・
 
この会でいう徳づみとは会費を払うことですが、本当の徳づみについて教えて頂けませんか?
他にも無償の働きが徳づみとかっては言ってはいましたが・・・
 
 
 
本当の徳積みとは「物事が分かる人間になってから、思考行動すること」でしょうね。
 
このような団体は他にも沢山あります。
ただ、団体や教祖だけが悪いのではない。
そこに入る方も悪いんです。
無知という罪を犯しているので、それに対する「罰」のような目に遭います。
  
知らないだけがそんなに悪いのか!
 
と、思うかもしれないが、これは法律や道徳ではなくて法則なんですよ。
 
崖から落ちたら死ぬことを知らない人でも、ちゃんと崖から落ちて死ねます。
崖から落ちるってことを誰も教えてくれなかったぞ!と、言えるのは、小さい子だけです。
 
このたとえは分かる?
 
あなたは何も考えてこなかったので、強制的に考えさせられたのですよ。
この体験が無ければ一生、何も考えることが無かったでしょう。
(他の体験をすることになったでしょう。沢山ありますよ。癌になるとか、子供が死ぬとか)
  
このような会は「悪の御用」を務めているんです。
必要があって存在しているんですよ。
800の記事を読みましたか?
私が書いた記事です。



ありがとうございます。
もう一度一から800読みます。
お時間頂きましてありがとうございました。
 
でも本当にそうなんですが、会員の中にこどもが死んだりご主人が病気になったりとかの人が多かったです。
 
自分で考えるという大切なことを忘れてしまった罰なんですね・・・
 
私も同じですが・・・
 
少しづつ考えます



自分は悪くない被害者だ、悪いのは100%相手だ、ともし思っていたら
「そうではない」ということを学ぶために何度でも同じ目に遭うことでしょう。
(詐欺師に引っ掛かる人の中には何度でも引っ掛かる人がいるように)
なので、勿論相手が悪いのですがそれと同時にこちらも悪いのだ、と悟らなくては。

だって、騙す人は騙される人が居なければ騙す人になれないのです。
騙す人と騙される人は「同時に発生している」んです。
どちらが先とかより悪い、とかいう話ではありません。
法律的には騙す方が悪い。
しかし私が言っているのは法律ではなく、法則なんです。
人間の法則というか、自然の法則、物理と言っても良い。

このことがなかなか分からない人がいるのではないかな?



<楽しく生きるということを知らなかった人>(2009年8月15日)

IYさん(2009年8月15日)

69さんこんばんは。
今更なのですが聞いてください。
私は楽しく生きるっていうことを知りませんでした。え????と驚くと思います。
しかし、ようやく69さんのサイトでわかりました。変な話ですが。
 
以前にもメールしたと思いますが、実践●理●●会に入会していました(4年間)。
会の教えはいろいろいいものもありますが夫婦愛和を特に教えられます。
「主人がカラスは白と言ったら白だよ」「主人のことばには明るくはい!と答えるように」とか・・・
 
私はやはり判断力にかけていたのか、真にうけてしまい、主人が違っていても「はい」と答えていました。
でもこれで、こどもは良くなると言われていたし、自分で判断しなくてもいいならこんな楽なことはないし・・・と思い主人に合わせていました
(子どもは他人にへらへらするようになりましたが・・・笑)
 
で、結果は楽しくない!おまけに主人はどんどん弱くなっていく!!!
私は毎日がつまらない!ということになって、何だか自分の魂を奪われていたんですよ。
魂だけでなく会費という銭も。
また大本教の別れやである宗教も、生まれた時から自然に入会させられてたので、
そういうことも教えられていたので、ものすごく頭をつかうことのないままの生活でした。

 
それがこの迫力あるサイトに出会って2年半で、会を辞めました。そして自分で自立すること。
判断力を必要とすること。
物事の見方に柔軟性をもつ。
・・・で、私の楽しみは頭を使って物事を考えることだと気付きました。
弱い者(判断力のないもの)がターゲットになってるんですね。
そして操るものは弱い者を食い物にして生きていく社会だったんだ!
 
誰だって最初はわからない。
だから不安になるその時を狙ったかのように救いの手がでてくる。
でもそれに乗ってはダメだと強く思います。
 
69さんのサイトで世の中を知りました。そして頭を使えるから楽しいです。ありがとう!
 
陰謀論の記事ですが、世の中の大半は匿名さんみたいな人が多いのではないでしょうか?
一つのことに固執してしまいこれは間違いだとか正しいとかそんなことばかりに気をとられ全体が見えないのではないでしょうか?
気の毒ですね。
その方も見方を変えればこんなに楽しくサイトが見れるのになあ。



実●倫理●●会は、倫●研究会から別れた組織ですね。
倫理●究会の創始者は立派な人です。
多分前世は武士です。

ところがその会の幹部の中に経営手腕の有る人がいたのでしょう。
大きくなった組織を経営していくと次第に「組織の存続」が重要になってくる。
なので日月神はそういう会、組織を作ってはならん、と言ってます。
もともとの会の組織運営が甘いと感じたのか
やり手の人がもとの組織の会員を連れて抜け出し、新たな組織を作った(分離したのでサヌキです)のが●●会です。

教祖(会長)の顔を見ると実業家の顔をしています。
さぞかし経営手腕があるのではないかと思います。

しかしこの会は第一に組織の運営(経営)が大事だろうから、
最初の会の創始者の思いとは異なる道を歩いていることになります。
下の方に<本物と偽物>という記事を書きましたが、今は偽物の方が幅を利かしている時代です。

この会に入ってはいけないとは言いません。
この会が必要な人もいます。
人の魂はそれぞれなので自由にすればいいのです。
でも、IYさんのようにその会では物足りなくなる人もいます。
そうなったら抜ければ良い。
この世にはそれぞれの人(レベル)に見合うモノが必ずあります。
自分が好きなことをすればいいんです。



またIYさんも書いてますが、陰謀論に熱心な方。
それはそれで良い。
しかしこの方は(PCを通して)目の前に居る私が何を考えているか全く分からないようです。
相手の話を聞かない。
文章を読まない。
その程度の人が陰謀論に走るのでしょう。

私が陰謀論をサイトに載せるのは「世の中にはこういうコトもある」ので
無意識に生きていてはまずい、何でもかんでも信じてはいけない、
「各自で考えなさい」ということを言いたいために紹介しているだけなのだ、
ということを、この方に何度説明しても分からない。
陰謀を詳しく調べるより「判断力を増す」ことの方が私は大事だと考えますが、こういう人にはそれが「分からない」ようです。

何度も書いてますが、どんなに立派な説も受け取る方の人間のレベルにまで成り下がります。
だったら、知識や情報を集めることより自分のレベルを上げることが大事ではないでしょうか?

しかし多くの人は「自分の判断力を上げようとはせず」「知識を集めては(悪い)頭の先で理解する」
のが楽しいようで。。。
人間は自分が一番楽しいことをすればいい。
なので陰謀論をやりたい人はやれば良いと思いますよ。
しかし私は陰謀論などはその意味を分かれば良いので、一応頭に入れておくだけで充分なのです。
意味とは「神が(存在を)許さないものは何ひとつ無い」ということ。
全てのものには存在理由があるということ。
「悪の御用する御霊(みたま)は気の毒出来るのぞ」ということなどです



<率直な人を嫌う心理>(2009年8月13日〜続いています)

蓮月龍さんの「人は叶う夢を見る」(2009年8月12日)より。

「嫌いな人」

人を嫌うのや 嫌いな人は造らない方が良いとは思う非常に難しいが
我家族を非常に嫌っている人がいるそれ故 我家と関わらないように
例えば町内のイベントがあると我家と役割が一緒にならないよう近寄らないように
私たちが他の人と楽しく談笑しないように
我が子が何かヘマをしでかしたらいの一番で注意できるように
非常に注意深く我家を見ているのである

まず何をするにも我家がどこの役割を担っているか 嫌いな人なのに確認し
我家がイベントでどこにいるか常に位置確認をし 
我家に話しかける人がいそうだったら その人と嫌でも話をしてブロックし
嫌いなうちの子の様子をずーーーーーーっと見ているのである
その人は大嫌いな私達家族の事をずーーーーと考えているのである

ずーーーーーっと視野に入れているのである
そして他の人と私たちがその人の悪口を言わないかずーーーーっと気にしている
そして私達がいない時でも私達を良く見て観察したあらを噂するのである
体壊すんじゃないかと楽しみ心配するくらいだ

前にも書いたが悪い人の顔を覚えられないように
その人が私達を気にしている様子を夫は気が付いていて流石に嫌な気になっていたらしいが
(後から、教えてもらって私は驚いていた)

私と息子は全く気が付かず息子は町内イベントを楽しく過ごし
私は「イヤイヤ役員って大変だけどがんばったわ自分なりに」「廻りも協力してくれてありがたいこっちゃ」
「意外とあの人は話してみたら面白い人だった」と達成感いっぱいで終えるのである
そうしてその人については「あれ?いたっけ?」なんである
(避けられてるんだから目に入るわけが無い)

その人は私と同じように、一緒にならないように常に私達を目に入れて無くてはいけないのである
目に入れようと努力するなら好きな人 好きな事の方がいいのにと改めて思った次第である
好きな人等が視界に入ってきたら年を忘れて目をに臆面もなくすると
心躍ることを引き寄せる事が出来るみたいだし!




蓮月龍さんのような率直な、自分の心に正直な人を嫌いな人っていますね。
ていうか。
大抵の人はそういう人が嫌いなのではないかと思います。
かくいう私も率直で自分が思う通りに言動行動しているので嫌う人は嫌う。
そういう人は99%思考力が乏しい。
なので私はそのような者からどう思われようとどうでも良いので平気です。
蓮月龍さんも兵器なようで良かったです。

何故、多くの人、特に女が「率直で自分が思う通りに生きている女を嫌う」のでしょうね?
賢い方ならすぐ分かりますね。

これをご覧の皆さんにはすぐ分かるはずです。
分かったらメールくださいね。


(※少数派について。これは相似象で言うところの少数者とは関係ありません)



記事を読んだSkyさんから意見が来ました。(2009年8月14日)

何故、多くの人、特に女が「率直で自分が思う通りに生きている女を嫌う」のか・・・

 
多数派でいたいから。うやむやにしたいから。自分がしたいことを知っている人が嫌いだから。
 
物事をはっきり言うと、とにかく嫌われます。
うやむやにして、何が問題なのかわからなくするのが多数派の望みかなと思っています。
 
自分の問題を指摘されたり、自分に出来ないことをしている人と接したり、
自分がしたいことを生き生きと楽しんでいる人と接したり、
自分が何をしたいかわからないことに気が付くことは、嫌いなようです。
 
親しくおしゃべりをして、舌の根も乾かないうちに悪口を言ったり、
とにかく波風を立てずにいることに全力を注いでみたり・・・よく、わからないです。
何を考えていて、何をしたいのかがわかりません。
(多数派からみれば、私が変人なのでしょうけれど)
 
一緒にいると疲れるので、無理にグループの中に入らないでいると
「協調性がない」と言われてしまいます。
協調性・・・この言葉も、よくわからないです。
誰にとって、都合がいい言葉なのか・・・そういうことを考えたりしないのかな・・・?
 
以上、自他共に認める(?)少数派のSkyからでした(笑)



Kさんから。
Kさんも同じような目に遭っているそうです。


自分はやりたいことを我慢して皆と歩調を合わせて生きているのに、
自分のやりたいことを生き生きと好きなように何にも束縛されず楽しくやってのけている。
そういう人を見ると人間って無意識に潜在意識レベルで嫉妬するんじゃないかな。
女性に拘らず男性もそうかも。しかし男性はサヌキなので思ったら行動に移す、
だけど女性はアワで感情が先になって行動を起こすまで時間がかかるから、
いつまでもネチネチ思うだけで行動しない、なので率直に生きてる人を嫌うことしかできないのでは。


Yさんから。

それはきっとそのように生きている女を羨ましいというねたみではないでしょうか?
自分もそうしたいと思いつつ出来ないというジレンマ・・・違いますかね?
そうだと思います。



蓮月龍さんから追伸。

蓮月龍です 嫌いな人の編集 掲載ありがとうございます
 
この方、花粉症の季節になると顔が湿疹で1.5倍くらいになるのです
「顔向けできない事をしている」んだなあとしみじみ思います。
 
前は気功などの症状緩和の情報を伝えてたりしたのですが、
「こんなに苦しんでいる私を嘲り笑っているに違いない」という話を人づて
に聞いてもろもろあきらめました。
 
悪を抱き参らせるなんて程遠い、でもこの人が近くに住んでいるということは
「アンタこの人と共存する事は、悪を抱き参らせる練習になるんだよ」と課題
としてご近所になったのかもとも今は思います。
 
そして「蓮月龍さんも兵器なようで」69さんが戦士で私が兵器、上手い事おっ
しゃるあれ?もしかして平気?と気が付くまでに5分くらいかかってます。


何事もすぐキレたり、泣いたりと感情的になるのではなく、ひと考えすると良いですね。
そうすればどんなコトも学びになります。




にこりんさんから(2009年8月15日)


「率直で自分が思う通りに生きている女を嫌う」
皆さんの書いてらっしゃることに、そうだそうだ、と相槌を入れつつ読みました。

あと、恐怖もあるでしょう。
ふたが開いてしまう恐怖。
自分が必死で押さえているふたが、自由に生きてる人見るとその刺激で
中に溜め込んだ我慢が耐え切れなくなって、開いてしまいます。
そうすると見たくもない自分の本心を垣間見てしまって、怖くなります。
(直視してよく考えればかえってよいかもしれませんが、
正視するのは耐えられないことです。)
怖さをまぎらすために、正しいのは自分、自由に生きてる人を間違っている、
と攻撃でもしないことには、気がすまないことでしょう。

代々受け継いで膨らんでしまった「女は我慢するもの」は、もう限界に来ているのでは
ないでしょうか?

な〜んて、この頃、「女」というくくりではありませんでしたが、
「我慢している人」というくくりで、主人と話していたところです。


私自身、いろいろなことで自分をしばっていた、ということはありました。
不本意なこともありました。
だけど好きな人、好きなことに恵まれたおかげで楽しく暮らして来れました。
主人もそんなかんじではないですかね〜。

だからか、「率直で自分が思う通りに生きている女を嫌う」ということは
実感としてはよくわかりません。

「自分が我慢してるのをぶつけてくる人」(私もこれだったけど)
という人のことが面倒、の方が強いです。

----------------------------------------------------------------------
この間から、ある人にいいよと言われて
「7つの習慣」っていうの、読み始めました。
厚いので、ぱっと開いて気の向いたところから読んでいます。
目について、おお!と思ったところです。


第二の習慣●目的を持って始める
の中で、生活の中心におくもの 

夫・妻中心
家族中心
お金中心
仕事中心
所有物中心
遊び中心
友達・敵中心
宗教組織中心
自己中心


------------------------------------------------------------------------
この文の最後に、あなたの生活の中心は何か
と問われたので、何かと考えていて、「敵中心」に目が行きました。
姑との同居で悩んでいた頃は、「敵中心だったのか!」と意外に思いました。
朧月龍さんのことをとやかく言う人もそうなんでしょうか。
(注 もちろん、ひとつではなく、いくつかが複合されているとありましたが。)
朧月龍さんは、その相手と同じステージにいないので、
その相手の方の一人相撲らしい。
だけどうちは、義母と私が同じステージにのってしまっていた、ということが違いますが。
読んでいて、自分をなんと情けない、と思いながらも、すごく納得したので、抜粋します。


-------------------------------------------------------------------------
□友達・敵中心

 若い人は特に(若い人とは限らないが)友達中心になりがちである。仲間に受け入れてもらい、帰属
意識を感じることが、ほかのあらゆることよりも重要に見えることがある。ゆがんだ、しかも常に変化
している社会の鏡が、自分の安定性、方向性、知恵、力の源になり、ほかの人の気分、感情、態度など
の変化に対して深く依存するようになる。
 友達中心は、時と場合によっては特定のひとりの人に集中し、夫・妻中心に似た現象を呼び起こすこ
ともある。特定の人に対する情緒的な依存性は、高まる欲求と争いの悪循環を生み出し、中心において
いた人間関係そのものを破壊してしまう結果を呼ぶ。
 また敵を生活の中心におくとどういうことになるだろうか。ほとんどの人はそんなことは考えられな
いと思うだろうし、意識的にすることもまた、ないだろう。にもかかわらず、敵を生活の中心におくこ
とは、よくあることなのだ。特に争っている相手と頻繁に接する場合は、そうなることが多い。自分の
生活に大きな影響を及ぼす立場にいる人に不公平に扱われたと感じたとき、気が気でなくなり、その人
を自分の生活の中心においてしまうことはありがちである。敵を生活の中心におく人は、自分の生活を
主体的に送るより、相手の行動や態度に対して反応しているだけである。

 ある大学で教えていた私の友人は、相性があわない上司の欠点にこだわっていた。明けても暮れても
その人について考え込み、まるで取りつかれているかのようであった。それは、家族、友人、同僚との
関係すべてに悪影響を与えるほどだった。やがてその大学を辞めて、ほかで教えるという結論に至った

 私は、「本当は、あの上司さえいなければ、この大学で教え続けたいと思っているんじゃないか」と
訊いてみた。
「実はそうなんだ。しかし、彼がここにいる限りは、私の生活は全部がたがただ。もう耐えられないよ
。」と彼は答えた。
「なぜ君はあの上司を生活の中心においているんだい」と私は重ねて訊いてみた。
 彼はこの質問にショックを受けた。それを否定しようとした。そこで私は、たった一人の欠点によっ
て彼の人生パラダイムがゆがみ、愛する人との関係も台無しになっていることを指摘した。
 やがて、彼もその事実を認めたが、彼自身がそういうふうに選択したということは否定し続けた。こ
の不幸なありさまを、すべてその上司のせいに仕立てた。そして、彼自身には責任がないと言い張って
いた。
 しかし、話し続けるにつれて、徐々に彼は自分自身の反応を選択する責任を理解し、そしてその責任
をきちんととらないということは無責任なことだと悟った。

 多くの離婚者はこのパターンに陥ってしまっている。もとの夫または妻に対する怒り、恨み、自己正
当化の気持ちに取りつかれている。悲観的な意味で言うと、こういう人たちはまだ心の中では結婚して
いるのだ。自分自身を正当化するために相手の弱点を必要としているからである。
 友達や敵中心の人は、一切内的な安定性を持っていない。自尊心は不安定であり、他人の気持ちや行
動次第で消えてしまうものである。方向性は他人の顔色をうかがって決めることになるし、知恵は社会
の鏡や敵中心の被害妄想によって制限されている。こうした人には力はなく、まるで操り人形のように
相手に振り回されていうるだけなのである。

(表より)
敵中心だったら、

【安定性】
・安定性は、敵の動き次第でなくなったり、壊れたりする。
・いつも相手は今何をしているだろうかと気になる。
・その人について、同じような意見を持つ人と話し合うことによって自分の思いを正当化しようとする

【方向性】
・あなたは相手の行動によって「反対依存的」に方向づけられる。
・意思決定は、どうしたら敵を困らせることができるかが基準になる。
【知恵】
・判断力は極めて狭く、ゆがんだものである。
・相手のこととなると防衛的になり、過剰反応をし、被害妄想になりがちである。
【力】
・持っているわずかな力は怒り、恨み、復讐といった消極的な気持ちから出てくるものである。だから
自分のエネルギーはすべて浪費され、ほかの活動を手がける余裕がなくなってくる。


---------------------------------------------------------------------

もう本当に言われるとおりでした。
その後も、敵となる対象が変わったりもしましたが、それが生活の中心になることもなく、
どんどん楽に暮らせているのだなと思います。

一連の中心の話のあと、原則中心、というのが出てきました。
それだとゆらぐことがないとか、ありました。(まだ読みかけ)

8ヶ月前に69さんのお宅におじゃました時に、同居がうまくいかなかったことについて、
「お姑さんだけが悪いんじゃないよ」って帰り際にそっと言われたことが、思い出されました。
(その時もいちおうは思ったけど)確かに!


人間は一つの課題を一度で分かるということはあまりありません。
にこりんさんのように、ひとつの課題に対して何度も分かって行って初めて「ちゃんと分かる」のです。
少しづつ正解に近付いて行く、という感じですかね。
にこりんさんの分かり方(サトリ方)は順調なようで良かったです。
まだまだこれからも、その課題については何度も分かって行くことでしょう。
「これで充分分かった。もう、この件に関しては分からないことは無い」というのはあり得ません。
分からない人(わからずや)ほど無意識にそのような心になっているものです。
だから「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」と言うのです。




Yさんから(2009年8月15日)

『率直で自分が思う通りに生きている女を嫌う』

まさに鏡の話ですね。

多くの人が「そうできない」と思い込み、本当に率直に生きられない人間になる。
そしてそれを悪くすると、率直に生きている人に対して、
「俺(私)が出来ないことを軽々としやがって・・・そんなことをすればこうなるんだよ!」
と自ら攻撃を始める。

ある意味これも強い思い(願望)が成就しているのだから、
思いの力は怖いなあと思います。

私も色々わけがわからないことでいじめられたけど、
大きくなった今は、『率直で自分が思うとおりに生きている女』だったから、
みんな気に食わなかったんだろうな・・・と理解しています。

ほぼ大多数には好かれませんでしたが、少数、なんというか「ものすごいファン」も居て、
私が大人数の場所に放り込まれると、まず1年で、
友達とかいうより、熱狂的ファンと、そして熱狂的アンチに分かれるのが不思議でした。
学生のころは真ん中くらいがあんまり居なくて、当時は、囲まれて奉られたり、かと思えば、
囲まれていじめられたり、わけがわかりませんでした。笑

今は、真ん中くらいの友達も出来たので、良かったです。


それで、まあ、いじめられたことはどうでもいいのですが、
やっぱり皆と仲良く遊びたかったから、その点はちょっと寂しいな・・
と思うこともありました。


しかしその後Yさんは或る夢を見て寂しくなくなったそうです。
その夢は「夢」に掲載します。


<陰謀論>(2009年8月13日)

匿名のメールが来ました。

時事問題、見事に踊らされていますね。
(中略)
民■党が政権を取ると日本、解体されますよ。
ま、69さんはそれをお望みになる団体に所属なさっているのかもわかりませんが。


内容は陰謀のことで、どこの国の誰がどこへ行って〜〜された、とか○○党と××党がどうたれ、とかです。
この方は私が某サイトで「時事問題」というくっだらないコンテンツをやっているのを知っているようです。
この匿名さんはいろいろな政治の裏や事件の”真相”をご存じのようです。
が、最も知らなければならないことを知らないようです。



私が「時事問題」を書いているのは、別に真相を暴くためではありません。
知りたいとも思わないんですよ。
人間が掴めるレベルの”真相”は、本当の真相では無い、と分かっているからです。
分からなくても人間として出来る限り”正解”に近付きたい、という意見もあるでしょう。
そういう方はそういうサイトへ行けばよろしい。
私が「時事問題」を書く目的は「世の中は見えている通りでは無い」「バカでも自分の意見を持て」
これだけです。
今、常識人でいてはまずいです。
(※常識人の人は、他人が非常識だと非難し、罪を重ねることになる)
(※そのようなレベルでいては他の点でもまずい)

なので、”常識”を超える必要がある。
それが目的。

匿名さんには私の「目的」が見えないのでしょう。
典型的な頭の先が良い人です。
遠くの”真相”は「見えて」も、近くの真実が見えない人、目の前のことが見えない人、多いですね。
こういうのを
「学と知」と言います。
学と知の次元内では賢いと言える。
しかし、それを超える次元「心」(日月神は、神を信じる心、というような意味を言ってます)では非常に愚かだと言える。
しかし人は自分の判断力(思考力、理解力)を超えるものは理解出来ないのです。
そのレベル(次元)に達しないと見えない(その境地に至らないと見えない)。
「学と知」を超える次元のものが見えない、分からない、感受出来ない。
「下から上は分からない(理解出来ない)」のです。

下から上を理解するには「素直な心」(生まれ赤児の心)(日月神)が無いと不可能。
しかし自分で自分を賢いと錯覚しているうちは、素直にはなれないので不可能ですね。



陰謀論は、見る方向によって違って見える(群盲象を撫ず)し、見える次元の違いというのもあります。
低い次元で「悪」でもその上から見れば「善」なので(一見悪が実は善)(by 日月神)
善悪の判断はその次元内でするしか無いし、では細部まで分かっていればいいかと言えば、それは
不可能です。
またそれをやっていると、意識が「陰謀を暴く」「陰謀を知る」という姿勢になる。
それが役目の方は人類のためにそれをするのもいい。

でも私は陰謀をいくら突き詰めても何にもならないと思うんです。
それに数年間費やすなら他のことに費やした方が良い、たとえば
「自分の意識を向上させる」「自分の意識を物質ではなく、精神におく」とか。
ここで言う「物質」は、誰と誰がどこでどうした・・・という、三次元の事件事故も入ります。
精神とは「何故こうなったのか」「何のために」と因果関係や波動の面から考えることです。
さらに「もっと広い視野で考えれば、これには何の意味があるのか」と、
どんどん次元を上げて行ければもっと良い。




陰謀論も上のようなことが出来た上でやるなら面白い。
でも、物質(モノや人間、国など)しか見えて無いならつまらない。
物質的な考え方をする人は、下に書いた「変な宗教やってんじゃないでしょうね」
みたいな思考回路になる。
この匿名さんも
「69さんはそれをお望みになる団体に所属なさっているのかもわかりませんが」
書いてます。
発想のレベル(次元)が同じなのです。
物質から離れられないのです。

それにしてもこの勝ち誇ったような書きっぷりw

このレベルの人は往々にしてこうですね。
日本中至るところにいます。
某サイトのお客さんの中にもいます。
そのレベルの人は殆ど思考力がありませんが、頭の先がちょっと良いので
「自分は賢い」と勘違いをしているのです。
こういう人は何かを分かろうと思ってなく、言葉で「分かりたい」と言って(書いて)いても
本当に分かりたいのではないので、こちらとしては何もやりようがありません。
本気で分かりたくても一つのことを分かるまでに数年かかるというのに・・・
口先だけで「分かりたい」という勘違いな方の相手をしている暇が無い。



<鏡>(2009年8月11日〜2009年8月12日)


Iさんから。


通販でとあるケーキ屋さんでケーキ(苺のミルクレープ)を買いました。
サイトには添加物の表記がなかったのですが
届いたケーキの箱には「着色料(赤102)、香料」の表記が…
味ももちろん”イチゴ味”の味で…
最初からサイトに表記があれば買わなかったのですが。
 
その旨をメールしましたら
留守電に3件もメッセージと謝罪のメール、さらに返金までしてくれました。
その後サイトにも「着色料(赤102)、香料」の表記が追加されました。
 
しかし、謝罪メールの中で気になる内容がありました。
(謝罪よりこの説明の方が長かったです)
 
 
*********
 
ただ、一点、あえてご説明をさせていただきたいことがあります。
着色料というのは大変申し訳ございませんが、消費者様の視覚的に満足していただくために、
全国的にケーキ材料には含まれております。
特に苺クリームは生のいちごやジャムを絞って、生クリームにまぜても、鮮やかなピンクにはなりません。
また、たくさん生の苺をつかうということになれば、こんどはドロドロになって、生クリームがゆるくなり、
今度はクリームなどを固めるためにゼラチンなど添加物などを大量に入れるなど、
反対に商品の加工部分が多くなるため、そのような商品をやめてきた歴史があります。
消費者のニーズがあるかぎりは、きちんとして「苺色」を生クリームにはださなければ、
ケーキというのは視覚的にも味的にも満足されないというジレンマはあります。
そのため、着色料にご理解をいただかなれば、ほとんどのケーキ商品で、
生のフルーツをいっぱいかざるタルトやケーキのような色鮮やかなもの以外は、
クリームに色が含まれているものは、ほとんど入っているというのが実情です。
過敏に反応をされることに対しては、食の安全という意味かと思いますが、
着色料自体も着色料メーカーが安全に開発されたものを吟味して、
少量を入れ生クリームで伸ばすという菓子技術をさせていただいて、使用しているため、
安全性にはなるべく配慮しているつもりです。
お菓子全体に対してのご理解をいただきたいと思い、乱文ですがメールさせていただきました。
 
*********
 
 
やはり”売れるため””楽に作るため”なのでしょうか…
私は、不自然なピンク色のクリームも、真っ赤な紅ショウガも
緑のクリームソーダも真っ青なブルーハワイも進んで食べたいとは思わないです。
お菓子全体に対しての理解・・なんて書いてありますが
無添加の商品を努力して作っている人々もいるのに
”着色料に理解を”なんて・・・・・・。
 
”過敏に反応”だなんて書かれてしまいましたが
元はと言えば自分が表示してなかったのに…。
 
色々と店に言い返したいことがありましたが
(前回お話しした)逆ギレ店員のこともあり何も言えません。
なのでifさんに教えてもらった「こうゆう人もいるんだ〜」と思って
イライラをしずめています。
 
私は以前から、砂糖や塩は天然のものを利用してきましたが
ifさんのサイトを見て油や醤油も変えようと思いました。
「無添加白だし」も素敵ですね!買ってみたいです^^



どうもIさんとケーキ屋さんとで話が噛み合わないようですね。
Iさんは単に
「人工色素を添加しているなら、表示して欲しい」と書いただけなのだから
それに対する返事は
「はい、そうします」で良い。
他のことは要らない。
それなのに、
「添加物はみんなが使ってる、心配するな、過剰に反応しているのはあなた」みたいな文章こそ、
過剰反応と言うものです。

この
ケーキ屋が過剰反応をしているくせに、Iさんに対して過剰反応と感じている。
これが「鏡」です。

自分の心にあるマイナスな部分が刺激されたのです。



このような反応をする人は多い。
下の<鏡1>の方は自分が過剰反応をしたことを自覚出来ました。
日頃から自分の意識を見る訓練をしているからです。

ところが多くの人はその訓練をしていません。
なので自分の心に或るマイナス部分をしょっちゅう刺激することになる。
さぞかし苦しいことでしょう。
自分でそれを意識化出来れば、ワケの分からない過剰反応は減るか、なくなります。
(しかし、また言いますが、多くの人にはそれが出来ないのです)

この
マイナス部分を「余計な感情」「余計な思い」「余計な価値観」と言います。
多くの人はこのように余計なものを抱え、自覚せずに生きているのです。

Iさんにとっては今回のことは災難でしたが、「無意識で居ることがどんなに他人を不愉快にさせるか」
という体験が出来たこと、そしてそれについて一つ悟ることが出来たので収穫でした。

Iさんが良かれと思って忠告したのに思ってもみない過剰反応が返って来ましたが
一つ悟れたので、やはりIさんは行動して良かったのです。
表面上は嫌なことですが、Iさんは一つ経験値を積みました。
それで良いのです。




記事を読んだIさんから。(2009年8月12日)

こうして記事にしていただき
誰かの目に触れ、なにか気付きのきっかけになる
ちょっとしたお役に立てるのなら
この嫌な経験も生かされるということでとても嬉しいです。
(自分自身の経験値も上がって)
 
ですので、この出来事も…成仏…?
なんていうか天に昇って消えてった感じです。
記事にしていただき本当にありがとうございました<(_ _)>

嫌な目に遭った時、ただ感情的になるのではなくこうして一(ひと)考えしてみると良い。
するとその嫌な体験は貴重な学びに転換します。
Iさんが「成仏」と書いたので笑いました。
そうそう、成仏です。

自分の心の中のマイナスな想念(思凝=しぎょう)が、
言葉によって
昇華された(天に昇って消えた)のです。
手放した。
これは広義の
成仏と言って良い。
Iさんは直感でそのコトを悟ったのでした。
良かったですね。


私達もIさんのように「心の中の余分な想念を成仏」させたいものです。



<本物と偽物>(2009年8月7日)

「*Dia Soleado*」のlenさんからの情報で知ったのですが、
アンダラクリスタルの偽物が出回っているそうです。
アンダラクリスタル自体がガラス質のものなので、それ自体の真偽のほどを問題にする人もいますが
私はアンダラは或る理由があって存在するのだろうし、ガラス質だからと言って偽物とは思いません。

問題なのはアンダラクリスタルでは無い、ただのガラスをアンダラクリスタルだ、と言って販売している人がいる、という点です。
本物を販売している人は偽物を販売している人の相手を敢えてしなかったのですが
偽物を本物と思わされて買ってしまう人たちのことを考えて自分達の態度を明らかにしました。
つまり「世の中には偽物のアンダラが出回っていますよ。購入の際には気をつけてくださいね。」と
メッセージを出したのです。




さて。

偽物が出回るのはアンダラだけではありません。
或る波動ぐっずにも偽物が出ています。
本物の方はネットでは販売しない、という規則を作ったのでネットでは探せません。
そこらへんを知ったのか知らないのか、或る会社が知らない人が見たら自動的に本物と間違える品物を製造&販売しています。
やり方は巧妙です。
これを読めば知らない人(本物の噂だけを知っていて、詳しいことを知らない人)は本物だと勘違いする。
本物がネットで販売しないので、ネットでは偽物の会社が有利です。

この場合は、本物の会社は偽物の会社を放置の姿勢を取っています。
訴訟を起こす費用と時間とエネルギーが勿体無いのでしょう。
費用なら沢山あるし、裁判が正当なら必ず勝ちますが、そのようなモノを相手にしたくないのでしょう。

本物を知らず、ただ噂を聞いてネットで発見し、買った方達にとってはそれが「本物」なのかもしれません。
それはそれで良い、という意見がありました。




亡くなった方の供養のため、人類のため、環境のために、般若心経を書き写す「行」があります。
これは本を買うと巻末に連絡先として著者の親族の名前が載っています。
なので本を買った人は自動的にそちらへ行くことになります。

ところがこの方は簡単な「祈願文」(仮称)すら書いたことが無いそうです。
般若心経の行は大変なので、やってないということです。
般若心経の行は本を読んだだけではできません。
書いたあとの処理の仕方は指導者に教わらないと出来ないのです。
連絡先の方はこういったことはやったことがないそうです。
そればかりか著者の勉強会になだれ込み、悪口三昧だったそうで・・・
TQ霊が憑いていることは間違い無いでしょう。

この方の元でお経を1000枚も書いた方がいますが、それはムダになっています。
でもそのことを写経1000枚した方は知らないのです。
気の毒なことに間違った人についてしまった結果がコレです。

連絡先の人は法律的には著者の後継者になるので、この問題は法律では解決しません。



このように世の中には本物と偽物があります。
偽物の方が幅を利かせている状況です。
法的に正当である場合もあります。
今は大変な時代ですね。

その上波動の高いモノは声高らかに宣伝などしないので、さらに発見しにくくなっている。
何故なら本物は本物が分かる人だけにしか与えられないからです。

ということは私達が常日頃から本物を志向して、対象となるものの波動を感受するしか無い。
全ては自分にかかっている、ということです。


(2009年8月5日)

ビューティーアートロジー  http://beauty.yahoo.co.jp/fortune/artlogy/20090723/index.html
これをやってみたら「当たった!」何で当たるんだ?
ビューティーサイコロジー  http://beauty.yahoo.co.jp/fortune/psychology/psy?date=200906221&ty=q&pg=1
おお!

他にも沢山あります。



kanchamaの「どんどん直感生活」より。

多数派って?

テーマ:思うところ2009-07-31 01:04:29

最近「普通の王道」を行っていると思っていた友達が訳あって見事に「普通」から脱落した。
いつも「疲れる」とは言いながら一般的なOLや主婦グループの中で浮く事もなくやってきた。
「今まで「多数派」の中でうまくやって誰にも後ろ指をさされる事なく、堂々と生きて来た」つもりだったという。

もともと私と仲良しなので、本質は「一般的」ではないんだけど、
私からみても少し前までの彼女は「普通の人の世界でとても上手くやっているよう」だった。
脱落した彼女に「一般的な大多数の主婦の心の内って?どんなポリシーなの?」と聞いてみた。

「どちらともとれる風に自分の意見や立場をはっきりしないでバランスを取ってゆく事だよ」という。


え?じゃあ、自分の考えはないの?

「あるのかも知れないけど、それを他人に見せずに、どうとでも取れるような言い方をする。」

それってさ、ちょっとはっきりした人に「八方美人じゃない?」とか突っ込みを受けたりしないの?

「突っ込む時点でその人は多数派じゃないよ。何考えているのか分かる人は簡単。
多数派は何考えているのか分からないので、一番怖いよ。」

あーーー、なんか思い出した。
子供の頃、中学生位まで自分の意見をはっきりと言わないように、周りと合わせる事に心を砕いていたなぁ、、、。
気が向かない事でも皆に合わせて一緒に行動する、みたいな、、、。

そうしないと「保身」できない、と思っていて、、、。

「それそれ」

大人になってもまだそんな事やってるの?みんな
第一それやってると終いには、自分が何で悲しみ、何で喜ぶのか、何を感じているのか、、、。
分からなくなって頭がおかしくなりそうになるじゃん。
私はそれでしばらくいつも泣いていたよ。
「分からない。自分が何にも分からない、、どうしよう」って。


「そうそう。分からないんだと思うよ。だから世間の流れになんとなく身を委ねる、というか、、、で適当にうさ晴らしをして、、、」

うへー。私だったら消耗しすぎて、もう死んでるか、精神病院にいるだろうな、そんな生活してたら。

大人なのに家族に当り散らしたり、誰かにいじわるして喜ぶのも一種のうさばらしなのかもね、、、。


「そうやって生きているのが、例の「羊の群れ」みたいな人だと思うよ。」

で、私は世間の王道を堂々と生きているつもり、か。
王道が「主体性ゼロ」ってのも。陰謀じゃー!(笑)


友達は「自分は王道を生きているつもりだったけど、多数派とは根本的に人種が違うため、
日和見主義に至るまでのルートが「真の羊道」とは違う気がする
、と言っていた、、、。

信頼のおける人物になる、という事はシステムの奴隷になる、という事だ。

読者なら何を言わんとするか理解してくれるだろう。byデーヴィッド アイクを思い出した。



そうなんだ!普通の主婦ってそうだったんだ!
初めて知った・・・
私の周囲にはそういうのは居ないのでね、知りませんでした。
そっかそっかぁ、
それじゃあ「自分が何が好きで何が嫌いか」「自分は本当は何をしたいのか」分からなくなるわけだわ。

そういう生き方をしていても別に何の支障もきたしてないんでしょうね。
それは結構、目出たいです、好きに生きるのが良い。
ところが私に「どう生きたら良いか分からない」「自分は何をしたいのか分からない」と相談を持ちかける人が多いのです。
「自分が好きなことをやればいいんですよ。」と言うと
「私は何を好きなのか分かりません。」と答える。

あなたの好きなものなんて私は知りませんや。

でも、ま。
一緒にその人の「好きなこと」「やりたいこと」を探すお手伝いをするくらいなら出来ますが。

私に言わせればこんな簡単なコトで躓(つまづ)いているようでは、いい大人になれない。
あ、既に大人になってたんだ、それは困った。

多数派の人は多数派でいるのが一番幸せなのです。
少数派の人は少数派の生き方をするのが幸せなのです。
多数派の生き方をしていて、途中から(何か違う)と気づいて少数派の生き方に転換する人。
それが大変です。
@大変でもやりたい
A大変なのでやっぱり辞めた
好きな方を選んでくださいw



今回はkanchamaにとても良いネタをいただきました。ありがとう。





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